ユエさんの憂鬱(婚約から例の事件まで)
婚約の手続きは、驚くほど早かった。
王族がレン家へ挨拶に来ると言って、追い返せる家はシャン国内にそう多くない。まして、訪ねてくるのが王太子ともなれば、断るという選択肢は最初から存在しないも同然である。
スピネリアから帰国して間もなく、ライレイは本当にレン家へやって来た。
ユエは当初、もう少し時間がかかるものだと思っていた。王族の婚姻ともなれば、家格の確認、持参金の取り決め、政治的な利害の調整など、済ませなければならないことが山ほどある。それに、そもそも先日まで彼は異国で外交交渉をしていたのだ。帰国したからといって暇になるはずもない。
ところが王太子は、先触れからわずかな時間で姿を現した。
赤褐色の髪を後ろへ流し、軍装に近い簡素な衣服を纏っている。いつもなら人懐こい笑みを浮かべている金色の瞳は、このときばかりは驚くほど冷静だった。
「今のシャンの情勢では、王太子の婚約者が危険であることは承知している。だからこそ、生き残れる妃が必要だ。取引でいい。ユエを婚約者に迎えたい」
今思えば、随分と愛情のない『娘さんをください』である。
もっとも、ユエ自身にも恋愛感情などなかった。
二十六歳。貴族の娘としては結婚が遅い部類に入る。縁談がなかったわけではないが、持ち上がるたびに何かしらの理由で成立しなかった。相手方がレン家の生業を恐れたこともあれば、ユエの仕事を辞めさせようとして話がまとまらなかったこともある。
やがて父は申し訳なさそうな顔をするようになり、縁談そのものを持ってこなくなった。
ユエとしては、それで構わなかった。研究も家業も忙しく、一人でも困ることはない。生涯独身で過ごすのも悪くないと思い始めていたところである。
そのため、王太子からの申し出は、むしろ条件のよい取引に思えた。
ただし、命の危険を除けば、の話だが。
「娘が望むのでしたら」
父は静かに答えた。
レン家の当主として慎重に言葉を選んだのだろう。断りもせず、かといって娘を差し出すとも言わない。決定権をユエへ渡すことによって、少なくとも本人の意思を確認する姿勢を示した。
ライレイの視線がこちらを向く。
「ユエは?」
「相応の利益があるのでしたら、お受けいたします」
「うん。そう言ってくれると思った」
王太子は満足そうに笑った。
そこでようやく、スピネリアで見た人懐こい表情が戻ってくる。だが、条件交渉が始まると、その笑顔はすぐに消えた。
ユエが望んだのは、結婚後も薬師として働けること、必要に応じて各地の薬草や病の調査へ赴けること、そしてレン家の商売と資産に王家が不当に介入しないことだった。
王族との婚姻は、レン家に大きな利益をもたらす。その一方で、王家の都合によって家業そのものが取り込まれる危険もある。ユエは自分の婚姻を理由に、一族の独立性が失われることだけは避けたかった。
「構わないよ」
ライレイは、思いのほかあっさり承諾した。
「ただし、俺の妃になる以上、王家に関する情報の扱いは厳格にしてもらう。レン家の利益のためでも、王宮内の機密を勝手に使われるのは困るからね」
「承知しております。必要であれば機密の区分を文書で明確にいたしましょう」
「助かる。あと、婚約後は俺の警護の範囲に入ってもらう。単独行動を禁止するつもりはないけど、居場所くらいは把握させて」
「合理的にございます」
「それと、側室は取らない」
ユエは筆を止めた。
「……その条件は、わたくしから提示しておりませんが」
「俺が決めた。自分の妃を守るだけでも面倒なのに、わざわざ争いの種を増やしたくない」
「左様でございますか」
「なに、不満?」
「いえ。管理対象が増えないことは、わたくしにとっても利益にございます」
「管理対象」
ライレイは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「いいねえ。やっぱりユエは面白い」
何がおかしいのか、ユエにはよく分からなかった。
ともあれ、条件はまとまった。
王太子の婚約者という立場は非常に危険だが、得られる利益は小さくない。自由もある程度保障される。しかも、相手は仕事の能力を理解している。
感情を抜きにして評価するなら、悪い契約ではなかった。
ライレイは帰り際、思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。補佐官の席を用意したから、明日から俺の執務室に出勤しろ」
「……明日から、でございますか」
「うん。手続きは済ませてある」
随分と手際がよい。
もっとも、ユエに断られる可能性など考えていなかったのかもしれない。婚約の話を持ってくる前から、執務室に彼女の席を作っていたというのだから。
「御意にございます」
深く頭を下げる。
ライレイは短く頷くと、そのまま屋敷を出ていった。
見送りに出たユエは、門前に繋がれていた馬を見て少しだけ驚いた。
シャンでは、急ぐときは馬車を使う。ゆっくりと移動するときは牛車が好まれ、王族ともなればなおさら、徒歩や騎乗だけで移動することは多くない。
だが、ライレイは馬車すら使わず、ただ一頭の馬に跨った。
供は最小限。
軍務と政務の合間を縫って来たのだろう。
あれだけの条件を決めながら、滞在時間は驚くほど短かった。
「……おかしな方」
ユエは小さく呟いた。
婚約者を迎えるための挨拶としては、あまりにも色気がない。
けれど、忙しい中でわざわざ本人が来たことを思えば、決して軽んじられているわけでもないのだろう。
どうにも評価の難しい男であった。
*
翌朝、ユエは王宮の正門をくぐった。
これまで王宮に来たことがないわけではない。ただし、その大半は諜報上の用件か、薬師としての仕事に限られていた。正式な官吏として門を通るのは、数えるほどしかない。
衛兵に身分を告げ、通行証を受け取る。
案内された先は、王太子宮の執務棟だった。
歩きながら、ユエは廊下の造りを観察した。
実に合理的である。
書類を運ぶ者と伝令が往来する場所は広く取られ、扉の開閉が人の流れを妨げないよう工夫されている。執務室へ向かう廊下には余計な装飾がなく、物品を保管する小部屋も動線に沿って配置されていた。
王族の住まいというより、軍の司令部に近い。
力で全てを解決してきたわけではないらしい。
少ない手数で最大の成果を得る。そのための仕組みを作り、人を動かし、不要なものを切り捨てる。建物の使い方にまで、ライレイという男の考え方が表れていた。
やがて執務室の前へ到着する。
取次ぎを待って入室すると、机の向こうでライレイが書類に目を落としていた。
「本日よりお仕えいたします。ユエでございます」
礼を取ると、ライレイが顔を上げた。
「ああ、待ってたよ」
昨日の王太子然とした態度とは違い、いつもの気安い笑みである。
「特に仕事はないけど、狙われると面倒だから、可能な範囲でここにいて」
「……仕事は、ないのでございますか」
「ないよ」
あまりにも堂々とした返答だった。
ユエは少し考える。
補佐官としての任命を受けたにもかかわらず、仕事がない。これは職務に対する認識の違いか、それとも単に人員を増やしただけなのか。
「薬を調合していたいのですが」
「構わないけど」
「では、工房に戻りたく」
「……毎日?」
「可能な範囲で」
ライレイが黙った。
ユエも黙って返答を待つ。
やがて王太子は、何かを諦めたように息を吐いた。
「……好きに戻っていい。でも居場所は知らせて」
「御意にございます。では、早速工房へ戻らせていただきます」
「……わかった」
入室してから、まだ半刻も経っていなかった。
ユエは礼を取り、執務室を出る。
今思えば、ライレイも彼女をどう扱えばよいのか分からなかったのだろう。
婚約者として傍に置きたい。だが、本人は働きたいと言っている。自由を保障すると約束した以上、仕事を取り上げるわけにもいかない。
勝手に政争へ巻き込んだ負い目も、少しはあったのかもしれない。
もっとも、そのときのユエにそこまで考える余裕はなかった。
調合途中の薬液を放置している方が、よほど重大な問題だったからである。
*
夕暮れが過ぎ、王太子宮の廊下に灯が入り始めた頃、ユエは再び執務室へ戻ってきた。
人影は少なくなっていた。
昼間は途切れることのなかった足音も、今は遠くで時折聞こえる程度である。扉を開けると、広い部屋の奥にある机だけが、いくつもの燭台に照らされていた。
ライレイはまだ書類を読んでいた。
机の端には処理済みの文書が積み上げられ、反対側には目を通すべきものが残っている。スピネリアで起きた毒布事件に関連するフー家の調査と処分が、想像以上に複雑なのだろう。
彼はユエの気配に気づくと、顔を上げた。
「あれ、戻ってきた」
「王太子殿下、滋養のお茶でございます。毒はございません」
ユエは盆を机へ置いた。
温めた茶杯から、薬草の乾いた香りが立ち上る。苦味を抑えながらも、疲労した身体に負担がかからないよう調合したものだった。
「毒は疑ってないけど……なんで? 別に何もしなくていいよ」
「目元の血流が悪くなっております。それに、お顔色も」
「顔色?」
「帰国してから、ほとんどお休みになっておられないのでは?」
ライレイは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
ユエは茶杯を彼の手元へ寄せる。
「お飲みください。今夜は刺激の強い酒も避けていただきたく」
「……もらう」
「はい」
小さく頭を下げる。
口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
ほとんど表情の変わらないユエ自身も気づかないほどの変化だったが、ライレイは茶杯を持ち上げながら、その顔を見ていた。
しばらく二人の間に会話はなかった。
ライレイは茶を飲み、ユエは積まれた書類へ視線を向ける。急ぎの仕事があるのなら補佐するつもりだったが、どうやら大半は王太子本人の決裁を要するものらしい。
「婚約は取引でいいと言った」
不意にライレイが口を開いた。
「無理しなくていい。自衛だけちゃんとして」
茶杯の底を見つめながら、独り言のように呟く。
ユエは少し考え、それから答えた。
「殿下が元気でいてくださることも、自衛の一つでございます」
ライレイの手が止まった。
「……そう来る?」
「殿下が倒れられれば、王太子宮の警備にも混乱が生じます。後継者争いが激化すれば、当然わたくしも標的となりましょう」
「なるほどね」
「それに、婚約後わずか数日で殿下が倒れられては、レン家にとっても不利益にございます」
ライレイは肩を震わせた。
「相変わらず、色気がないねえ」
「事実を申し上げたまでです」
「うん。そこは知ってる」
笑っていた彼が、やがて静かになった。
少しだけ俯き、茶杯に視線を落とす。
「愛情を求めてるわけじゃないんだよ。諜報で知ってるなら、なおさら怖いだろう。俺のこと」
何でもないことのように言った。
だが、その声音にはいつもの軽さがない。
ユエは思わず顔を上げた。
「怖くはございません」
言い切ると、ライレイがこちらを見る。
「殿下は合理的ではございますが、行動原理は極めて情のある方だと思っております」
「……情がある?」
彼はまばたきをした。
「初めて言われた。いや、リュシーはいいやつって言ってくれたっけ」
そう言って笑う。
リュシアン・スピネリアは、確かにライレイのことを友として評価していた。だが、平和な国で育った王太子が、シャンの政争の全てを知っているわけではない。
ライレイ自身も、そのことは理解しているのだろう。
ユエは首を横に振った。
「わたくしは、殿下が何をしてこられたか、ある程度は存じております」
「そうだね。レン家なら」
「はい。人を切り捨てる判断の早さも、戦場でのお振る舞いも、聞き及んでおります。そのうえで申し上げています」
ユエは一度、言葉を選んだ。
「殿下が守ろうとなさっているものは、明確です。リンレイ殿下のことも、この国のことも。少なくとも、そこに私欲ばかりがあるようには見えません」
「……私欲がない、か」
「ないとは申しません。ですが、守るために必要であると判断されれば、他者から冷酷と呼ばれる選択もなさる。それは、情がないということとは違うのではないでしょうか」
ライレイは何も言わなかった。
守るために戦ってきた。
母を失ってからは、なおさら。
妹を守るため、自分が生き残るため、そしていつか国を立て直すため。その目的に照らせば、迷っている暇などなかった。
彼が何を切り捨ててきたかは知っている。
だが、誰もがその理由まで理解してくれるわけではない。
「……随分、買ってくれてるんだね」
「観察の結果にございます」
「褒められた気がしないなあ」
「では、訂正いたしましょうか」
「いや、そのままでいい」
ライレイは茶杯を置いた。
さきほどまでの疲れた表情が、ほんの少し柔らかくなっている。
「なだめるのが上手いね。今後も安心だ」
「僭越ながら、六歳も下の殿下は、弟のようでございますから」
沈黙。
ライレイの笑顔が止まった。
「……弟?」
「はい」
「俺が?」
「不敬でございましたか? これは大変失礼を……」
「いや、不敬ではないけど」
彼は額に手を当てた。
そのまま少し考え、やがて妙に感心した声を出す。
「俺、モテなかったことないから、脈なし判定されたの初めてかもしれない」
「……は?」
ユエは怪訝な顔をした。
何の話だろう。
男女の機微に詳しくない自覚はあるが、ここまで会話が飛躍すると、さすがに理解が追いつかない。
「弟扱いかあ。なるほどね」
ライレイは呟いた。
それから顔を上げる。
金色の瞳が、ひどく楽しそうに輝いていた。
ユエは嫌な予感がした。
「いや、このつまらない執務室にも楽しみができたね」
「……何のことでございましょう」
「ユエに男として見てもらえるようにならなくちゃ」
ユエは黙った。
この人は、何を言っているのだろう。
契約上の婚約者であることと、男女として意識することは、必ずしも同義ではない。まして、こちらは六歳も年上だ。多少の気遣いを弟に向けるような感覚で行うことに、何の問題があるのだろうか。
「殿下」
「なに?」
「お仕事にお戻りください」
「うん。明日から楽しみだなあ」
話が通じていない。
ユエは深く息を吐いた。
彼が難題ほど燃える男であることを、もう少し真剣に考慮するべきだった。
*
出勤三日目。
ユエが執務室へ入ると、ライレイは机ではなく窓辺にいた。
朝の光が赤褐色の髪を照らし、金色の瞳が柔らかく細められている。今日は軍装ではなく、襟元に控えめな刺繍を施した濃紺の衣を纏っていた。
王太子らしい、整った姿である。
「おはよう、ユエ」
「おはようございます、殿下」
「今日の俺、どう?」
「……お元気そうで何よりにございます」
「そうじゃなくて」
「顔色も改善されております。睡眠を取られたようで安心いたしました」
「そうでもなくて」
ライレイは笑顔のまま近づいてきた。
「格好いい?」
ユエは一瞬、言葉に詰まった。
見たままを答えるなら、確かに見目はよい。
すらりとした長身に、鍛えられた体躯。王族らしい品格がありながら、武人特有の精悍さも備えている。男女を問わず人目を引く容姿であることは間違いない。
「整ったお顔立ちでいらっしゃると思います」
「それ、昨日も言ってくれたよね」
「事実は一日で変わりませんので」
「できれば婚約者の感想が欲しいな」
「婚約者でも同じ評価にございます」
ライレイは声を立てて笑った。
「手強い」
その日から、王太子の様子は明らかにおかしくなった。
ユエが書類を読むために机へ向かえば、わざわざ隣へ来る。廊下を歩けば当然のように手を差し出し、茶を運べば礼を言うついでに指先へ触れようとする。
ことあるごとに、距離が近い。
「殿下、書類が見えません」
「俺の顔の方が見たいかなと思って」
「書類でございます」
「即答だね」
「急ぎの案件にございますので」
ため息混じりに答えると、ライレイは素直に離れた。
もっとも、しばらくすればまた戻ってくる。
昼には仕事の合間を縫って茶へ誘われた。
「ユエ、少し休まない?」
「工房で薬の確認をしてからにしたく」
「じゃあ俺も行こうかな」
「殿下のお仕事がございます」
「俺のこと、嫌い?」
「そうは申し上げておりません」
「じゃあ、いいでしょ」
「……論理が飛躍しております」
その返答に、また笑う。
ユエは少々困っていた。
政治的な駆け引きなら分かる。暗殺の兆候なら対応できる。だが、婚約者が何の利益もないはずの会話を繰り返し、こちらの反応を見ては楽しそうにする理由が、今ひとつ理解できなかった。
しかも、ライレイは決して職務を怠らない。
必要な決裁は済ませ、軍からの報告にも目を通す。急な呼び出しがあれば、冗談を止めて即座に王太子の顔へ戻る。その切り替えの早さを目の当たりにすると、先ほどまでの軽薄な振る舞いも、どうやら本人の意図的なものであるらしかった。
夕方、ユエが薬草の入った小箱を整理していると、背後から声をかけられた。
「ねえ、ユエ」
「はい」
「俺のこと、少しは男に見えるようになった?」
ユエは小箱の蓋を閉めた。
「殿下が男性でいらっしゃることは、最初から承知しております」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
「では、どういう意味でございましょう」
ライレイが笑った。
「好きになってほしいって意味」
あまりにもあっさりと言われ、ユエは思わず振り向いた。
「……婚約の条件には含まれておりませんが」
「条件には入れてないよ。これは俺の希望」
「希望、でございますか」
「うん。せっかく婚約者になったんだから、俺のことを弟みたいだと思ってるだけじゃ、つまらないでしょ」
「……まだ根に持っておられたのですか」
「持ってるよ。かなり」
実に良い笑顔だった。
ユエは悟った。
どうやら、余計なことを言ってしまったらしい。
*
出勤五日目。
王太子は相変わらずであった。
むしろ、日に日に楽しそうになっている。
執務中は優秀な為政者であり、軍議では一切の迷いなく判断を下す。それなのに、ユエと二人になると途端に気の抜けた笑みを浮かべ、何かにつけて婚約者であることを持ち出すのだ。
その日の夕刻も、ライレイはいつも通りに仕事を片付け、卓上の最後の書類へ署名した。
「よし、終わり」
「お疲れさまにございます」
「ユエもね。明日は休日でしょ」
「はい」
「俺の宮に泊まっていくよね?」
「……はい?」
質問の形をしていたが、声音は確定事項を告げるものだった。
ユエは瞬きをする。
「休日の護衛のためでしょうか」
「そうだね」
とても良い笑顔である。
これまでの経験から、その笑顔を無条件に信用してはいけないことくらい、ユエにも分かってきていた。
「護衛であれば、昼間のみでも十分かと存じます」
「夜も危ないよ」
「夜間の警備体制は確認しております」
「それでも俺の傍が一番安全でしょ」
「理屈としては理解できますが」
「じゃあ決まり」
「まだ決まっておりません」
ライレイは椅子を離れ、ユエの前へ立った。
いつもの人懐こい顔だったが、金色の瞳は真剣である。
「ユエ。俺が今、どれだけ狙われてるか知ってるよね」
「はい」
「俺の婚約者になった君も、もう無関係じゃない」
「承知しております」
「だから、しばらく王太子宮で過ごしてもらうのは本気で考えてる。危険を減らしたいから」
そこまでは、合理的な提案である。
王太子宮の警備はレン家の屋敷よりも厳重だ。周囲に敵対勢力がいる以上、移動回数を減らすことには一定の意味がある。
ただし。
「……殿下」
「なに?」
「ほかにも理由がおありでは?」
ライレイは少しだけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑う。
「あるよ」
「……」
「婚約者と一緒にいたい」
ユエは黙った。
「せっかく休みなんだし、仕事の話だけじゃなくてさ。普通に一緒に過ごしたいなと思って」
「……それは、必要なことでございましょうか」
「必要かどうかで決めること?」
その問いに、ユエは答えられなかった。
必要でないことに時間を使う。
利益が明確でない相手と、ただ一緒に過ごす。
そんな行為は、少なくとも彼女の生活にはほとんど存在しなかった。
「嫌なら無理にとは言わないよ」
ライレイは続けた。
「でも、俺としては来てほしい」
珍しく、彼はそれ以上言い募らなかった。
ユエは少し考える。
どうせ婚姻すれば、同じ宮で生活することになる。生活習慣の確認も必要だろう。危機管理の観点からも、王太子の私的な居所を把握しておくことは有益である。
理由を並べれば、いくらでも思いついた。
「……承知いたしました」
「本当?」
「明日は仕事がございませんので。ただし、工房へ必要な連絡を済ませてからにいたします」
「うん。待ってる」
ライレイが、ひどく満足そうに笑った。
その笑みを見て、ユエはなぜか少しだけ落ち着かない気持ちになった。
後から思えば、この時点で引き返すことは十分に可能だったのである。
*
夜の王太子宮は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
警備の兵が一定の間隔で巡回し、廊下の燭台には控えめな灯がともされている。客用の部屋も用意されていたが、ライレイは当然のように自分の寝所へユエを案内した。
重厚な扉を開けると、香木の乾いた香りが漂ってくる。
調度品は上質だが、どれも実用的なものばかりだった。壁際には軍略書と政務資料を収めた棚があり、寝台の近くにさえ小さな卓が置かれている。どこまで仕事をするつもりなのだろう。
ユエが室内を観察していると、背後で扉が閉まった。
「さて」
ライレイが楽しそうに言う。
「一緒に寝ようか」
「……客間を用意していただいたと伺っております」
「用意はしたよ」
「では、そちらに」
「一緒の寝台じゃないと守れないよ」
ユエはゆっくり振り返った。
「……まだ婚約者です」
「婚約者だから一緒にいるんでしょ」
「婚姻は成立しておりません」
「そこ、そんなに重要?」
「重要にございます」
ライレイは口元へ指を当てた。
何かを考えている。
ユエには嫌な予感しかしなかった。
「でもさ、ユエ」
「はい」
「お姉さんなんだから、面倒見てくれてもいいでしょ」
「……」
ユエは無言で彼を見た。
六歳年下の男が、これ以上ないほど愉快そうに笑っている。
どうやら、あの日の弟発言を本当に根に持っているらしい。
「殿下」
「なに?」
「その理屈では、年長者であるわたくしが主導権を握ることになりますが」
「いいよ?」
即答だった。
「ユエが決めてくれるなら」
「……」
「俺としては、それも楽しそうだし」
どう答えても喜ばれる。
厄介な男である。
「そもそも、殿下は女性の扱いに慣れておられるのでしょう」
「まあね」
「であれば、わたくしのような者をわざわざお相手になさらずとも」
言いかけたところで、ライレイの表情が変わった。
笑みは残っている。
けれど、さきほどまでの軽薄なものではなかった。
「ユエ」
「はい」
「俺は、ユエがいいんだけど」
その声が思いのほか真っ直ぐで、ユエは口を閉じた。
「綺麗だと思ってるし、一緒にいると面白いし、もっと近くで見てたい。ほかの誰かじゃ駄目なんだよ」
「……過分なお言葉にございます」
「そういうところ」
「はい?」
「すぐ、褒め言葉を返しちゃうでしょ」
ライレイは苦笑した。
「俺が本気で言ってても、信じてもらえないのかな」
ユエは少し考えた。
自分の容姿が特別に優れているとは思っていない。身体は細く、女性らしい華やかさにも乏しい。愛嬌があるわけでもなく、趣味は薬の調合と研究だ。
何をもって美しいと言われているのか、分からなかった。
「……わたくしには、殿下がそこまで評価してくださる理由が分かりません」
「じゃあ、今から教えようか」
「……方法によります」
「うん。そこは大事だね」
ライレイは一歩近づいた。
それから、いつものように手を伸ばしかけて、途中で止める。
「嫌ならやめるよ」
ユエは、その手を見た。
戦場で剣を振るい、幾人もの命を奪ってきた手である。だが今は、彼女に触れる前に返事を待っている。
そんなことをする男だとは思っていなかった。
もっと強引で、欲しいものは何でも手に入れるのだろうと考えていたのだ。
「……殿下は」
「うん?」
「わたくしが断れば、本当におやめになるのですか」
「もちろん」
「婚約者であっても?」
「婚約者だからだよ」
ライレイは不思議そうに首を傾げた。
「これからずっと一緒にいるんでしょ。今ここで嫌われてどうするの」
実に合理的な説明だった。
しかし、ユエの胸には妙な引っかかりが残った。
彼はきっと、断られても怒らない。
残念そうにはするだろうが、それでも笑って引くだろう。
そう思えることが、少し意外だった。
「……でしたら」
ユエは顔を上げた。
「一つ、確認をさせてくださいませ」
「なに?」
「殿下にとって、わたくしは政略上の利益をもたらす人間でございます。それは理解しております。しかし、こうして親しくなさる必要まであるのでしょうか」
ライレイは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「最初は、必要ないと思ってたよ」
「……左様でございますか」
「優秀で、生き残る力があって、俺の判断に意見も言える。妃としては十分だと思った。でも」
彼はユエを見つめた。
「一緒にいると、楽しいんだよね」
ユエはまばたきをした。
「楽しい、でございますか」
「うん。ユエは俺に媚びないし、怖がらないし、妙なところで世話を焼いてくれる。そういうところ、もっと知りたくなった」
静かな寝所に、香木の匂いが漂っていた。
ユエは返す言葉を探す。
利益ではない。
必要性でもない。
ただ一緒にいるのが楽しいから、傍に置きたい。
そういう理由で人を選ぶことが、彼女にはまだよく分からなかった。
「……わたくしは、そういったことに不慣れでございます」
「知ってる」
「殿下を楽しませられる保証もございません」
「もう十分楽しんでるよ」
「……」
「それに、ユエも俺を知ればいい」
ライレイが手を差し出した。
「どう?」
ユエはその手を見つめた。
断る理由を、もう一度考える。
危険性はある。王太子と親密になることによって、婚約者としての立場が一層強固になる。その結果、政敵からの標的としての価値も高まるだろう。
しかし、その危険は婚約を受けた時点で織り込み済みである。
それに、彼のことをもっと知る必要があるという点には同意できた。
少なくとも今、目の前にいる男がどんな顔を見せるのか、少し興味があった。
「……御意にございます」
そう答えて手を重ねると、ライレイは目を丸くした。
「えっ」
「……何か?」
「いや。まさか本当にいいって言ってくれるとは」
「殿下からお誘いになったのでは」
「そうなんだけどね」
珍しく、彼が困ったように笑った。
その表情を見て、ユエは少しだけ気分がよくなった。
いつもこちらをからかう男が、予想外の返事を受けて戸惑っている。
なるほど。
確かに、これは少し面白い。
「殿下」
「なに?」
「わたくし、こうしたことに慣れておりませんので」
「うん」
「加減は、お任せしてよろしいでしょうか」
ライレイが息を止めた。
それから、深く笑う。
「……ユエって、時々とんでもないこと言うよね」
「何か不適切でございましたか」
「いや。最高」
繋いだ手が、ゆっくり引かれた。
近づいた彼の顔は、普段よりずっと大人びて見えた。
金色の瞳が、こちらを覗き込む。
「口付けてもいい?」
ユエは、少しだけ考えた。
「……はい」
唇が触れる。
最初は驚くほど慎重だった。
軽く触れて離れたあと、ライレイは彼女の顔を確かめるように見つめた。
「嫌じゃない?」
「……はい」
「よかった」
心底嬉しそうに笑う。
その顔を見た途端、ユエの胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
自分の返事一つで、王太子がこんな顔をする。
それは、予想していなかったことだった。
「……殿下」
「うん?」
「随分、嬉しそうでございますね」
「嬉しいよ」
「……左様でございますか」
「うん。もう一回していい?」
少し考えて、ユエは頷いた。
今度は、先ほどより長い口付けだった。
いつしか彼女の手はライレイの肩へ置かれ、彼の腕はその腰を支えていた。
ユエはふと、自分の鼓動が速くなっていることに気づいた。
病ではない。
体調不良とも違う。
おそらく、緊張による生理的反応だろう。
そう分析しながら、彼の胸元へ指を添える。
「……どうしたの?」
「心拍が速くなっております」
「ユエの?」
「はい」
「俺もだよ」
「……そうは見えませんが」
「じゃあ、確かめてみる?」
ライレイは彼女の手を取り、自分の胸へ重ねた。
確かに、鼓動が速い。
「……本当でございますね」
「でしょ」
彼は笑った。
「俺だって、結構緊張してるんだよ」
ユエは顔を上げた。
この男にも、そんなことがあるらしい。
戦場では恐れ知らずと評され、政敵の前でも平然と笑っている王太子が、ただ婚約者に触れるだけで緊張する。
それが少し、不思議だった。
そして、悪い気はしなかった。
*
その後のことについて、ユエはあまり詳しく思い出したくない。
誤解を恐れずに言えば、ライレイは非常に手慣れていた。
彼女が何に戸惑っているのか、どこまでなら受け入れられるのか、驚くほど注意深く見ている。そのくせ、時折わざと困らせるようなことを言っては、反応を楽しむのだ。
「ユエ、顔が赤い」
「……室温が高いのでしょう」
「そうかなあ」
「そうにございます」
「じゃあ、窓を開ける?」
「……結構です」
「ふふ」
笑われた。
大変、不本意である。
普段は表情に出ないと言われるユエだが、どうやら今夜はそうでもないらしい。自分では平静を保っているつもりなのに、ライレイは事あるごとに楽しそうな顔をした。
それどころか、ユエが少しでも反応すると、嬉しそうに名前を呼んでくる。
「ユエ」
「……はい」
「可愛い」
「……過分なお言葉にございます」
「またそれ」
ライレイは笑い、彼女の額へ口付けた。
「本当に思ってるのになあ」
困ったような声だった。
ユエは、どう返せばよいのか分からなかった。
ただ、彼が嘘を言っているようには思えなかった。
それだけは、なぜか確信できた。
やがて、寝所の灯が落とされた。
窓から差し込む月明かりが、薄い帳越しに寝台を照らしている。
ユエは緊張していた。
しかし、それ以上に不思議だったのは、逃げ出したいとは思わなかったことである。
彼がこちらの返事を待ってくれるからかもしれない。
あるいは、あの人懐こい笑顔の裏にある真剣さを、少しだけ知ってしまったからだろうか。
いずれにせよ、ユエは自分の意思で彼の傍にいることを選んでいた。
そのことに、不思議な安心があった。
――もっとも、その夜が何事もなく終わるはずもなかったのだが。
*
寝所に異変が生じたのは、夜が深くなってからだった。
最初に気づいたのは、ユエだった。
寝台の帳の向こうで、ごく小さな音がした。
風ではない。
木材が軋む音とも違う。
金具が、何かに触れた音。
ユエの意識が、一瞬で切り替わる。
「……殿下」
「ん?」
「失礼いたします」
言い終わるより早く、ユエは身体を起こした。
次の瞬間、帳の隙間を黒い影が横切る。
寝台へ向けて短い刃が突き出された。
ユエは脇へ身を捻り、枕元に忍ばせていた細い針を放つ。
低いうめき声。
黒装束の男が体勢を崩した。
同時にライレイが起き上がり、寝台脇に置いていた短剣を抜いた。
だが、ユエの方が早かった。
男の手首を押さえ、刃を逸らす。関節を決め、そのまま床へ引き倒した。
鈍い音が響いた。
侵入者は二度ほど痙攣し、動かなくなった。
しばしの沈黙。
ライレイが、寝台の上でゆっくり瞬きをした。
「……ユエ」
「はい」
「今、何が起きた?」
「暗殺者の侵入にございます」
「それは見れば分かるけど」
ユエは寝衣を整え、床に倒れた男の傍へ膝をついた。
脈を確認する。
反応はない。
念のため口元を調べ、袖の内側から小さな容器を取り出した。
「……なるほど」
「なにが?」
「刃に毒が塗布されております。即効性は高くございませんが、傷口から吸収されれば厄介なものにございます」
ユエは慎重に短剣を拾い、布で包んだ。
「この調合法でしたら、入手経路をある程度絞れるかと」
「……」
「加えて、侵入経路の調査が必要にございます。扉からではないとすれば、窓か天井裏かと」
「ユエ」
「はい」
「ちょっと待って」
ユエは顔を上げた。
ライレイは額に手を当てている。
「……俺の婚約者、強すぎない?」
「事前にご承知のことかと存じます」
「いや、知ってたけど」
彼は死体とユエを交互に見た。
「こんな状況でも、まず毒の分析するんだね」
「重要な証拠でございます」
「うん。そうなんだけどさ」
ライレイは深く息を吐いた。
「俺、完全に置いていかれた気がする」
ユエは首を傾げた。
「殿下も即座に武器を取られておりました。対応に遅れはございません」
「そういう話じゃないんだよなあ」
彼は困ったように笑った。
そして、少しだけ拗ねた声で付け加えた。
「俺より暗殺者の方に集中されるとは思わなかった」
「……殿下がお強いことは存じておりますので」
「それ、褒めてる?」
「はい」
「ならいいけど」
ライレイは肩を竦めた。
その後、呼び出された衛兵たちが死体を運び出し、王太子宮は一時騒然となった。
警備責任者への事情聴取が始まり、侵入経路の確認と、死体の所持品の検分が行われる。ユエは毒物に関する所見を簡潔にまとめ、必要な採取を済ませた。
すべてが落ち着いた頃には、夜明けが近づいていた。
ユエは疲れた息を吐いた。
正直なところ、暗殺者が入ってきた瞬間、少しだけ助かったと思ったのである。
ライレイがあまりにも元気だったからだ。
当然、口にはしなかった。
しかし、彼はどういうわけか、その表情を見ただけで何かを察したらしい。
「……ユエ」
「はい」
「今、ちょっとほっとした?」
「何のことでございましょう」
「暗殺者が来て、休憩できたなって思ったでしょ」
ユエは沈黙した。
ライレイが笑う。
「図星?」
「……そのようなことは」
「あるんだ?」
「申し上げておりません」
「ふふ」
何がおかしいのか、楽しそうである。
ライレイは寝台へ腰を下ろすと、ユエへ手を差し出した。
「おいで」
「……殿下」
「うん?」
「もう夜明けにございます」
「そうだね」
「少しはお休みになられた方が」
「だから、一緒に寝ようって言ってるんだけど」
ユエはしばらく彼を見た。
先ほどまで刃を向けられていたというのに、この男には疲弊した様子がほとんどない。むしろ、普段より機嫌がよいように見える。
「……本当に、お休みになるのでしょうか」
「どうだろう」
「殿下」
「冗談だよ」
ライレイは笑った。
「今日はもう休もう。君も疲れたでしょ」
ユエは、ようやく息を吐いた。
「……御意にございます」
手を取ると、彼は当然のように隣へ引き寄せた。
寝台へ横になる。
今度は、彼の腕が静かに背へ回っただけだった。
ユエも抵抗しなかった。
しばらくすると、耳元でライレイが呟いた。
「ねえ、ユエ」
「……はい」
「今日、楽しかった」
「……どの部分がでございましょう」
「全部」
ユエは顔を上げた。
ライレイは笑っていた。
けれど、いつものようにからかう笑みではない。
どこか満ち足りた、穏やかな表情だった。
「ユエが、俺のこと怖がらなかったのも。触れていいって言ってくれたのも。あんなに可愛い顔するって知れたのも」
「……」
「暗殺者のことは、まあ余計だったけどね」
ユエは小さく息を吐いた。
「殿下にとっては、随分と充実した夜だったようでございますね」
「うん」
ライレイは少し考えたあと、彼女の髪を指先で梳いた。
「もっと好きになっちゃった」
ユエは瞬きをした。
どう返答すべきなのか、分からなかった。
そもそも、まだ婚約して数日である。
政治的な条件から始まった関係が、このような方向へ進むとは思っていなかった。
しかし、嫌ではなかった。
彼に触れられることも、こうして同じ寝台で眠ることも。
その事実を、ユエは静かに受け止めていた。
「……殿下」
「なに?」
「お休みくださいませ」
「うん。おやすみ、ユエ」
彼は笑って目を閉じた。
その顔を見ながら、ユエはふと思った。
この人は、やはりおかしな方だ。
戦場では冷徹と恐れられ、政敵には容赦がなく、必要であれば誰であろうと切り捨てる。
それなのに、たった一人の婚約者を相手に、こんなにも嬉しそうな顔をする。
まるで、何かを初めて手に入れた子どものように。
――やはり、弟のようではないか。
そこまで考えて、ユエは思い直した。
少なくとも、今夜の彼は弟などではなかった。
その証拠に、思い出すだけで少し顔が熱くなる。
これは、今まで経験したことのない反応だった。
体調が悪いわけではない。
恐怖でもない。
ただ、あの金色の瞳に見つめられたときのことを考えると、どうにも落ち着かないのである。
理由は、まだ分からなかった。
けれど、彼が目を覚ましたときには、もう一度あの笑顔を見たいと思った。
合理的な説明はつかない。
少し困ったことになった。
*
それから長い年月が過ぎた。
今では三人の子どもの母となり、かつてのように政争の気配だけを追って生きる日々ではなくなった。
もちろん、王宮から危険が完全に消えたわけではない。
ただ、守るべきものは増えた。
忙しい一日を終えて寝所へ戻ると、夫は相変わらず人懐こい笑みを浮かべている。
「ユエ」
「はい」
「今日も綺麗だね」
「……ありがとうございます」
「お、素直」
「長年のお付き合いでございますので」
ライレイは笑った。
その笑い方だけは、婚約した頃から少しも変わっていない。
「ねえ、ユエ」
「はい」
「俺のこと、最初どう思ってた?」
ユエは、少し考えた。
合理的で、冷徹で、手際がよい。
けれど、人懐こく、よく笑い、妙なところで子どもっぽい。
そして、恐ろしく面倒な男である。
「……おかしな方だと」
「ええ?」
ライレイが声を上げて笑う。
「ひどいなあ。もっといい印象なかった?」
「ございましたよ」
「本当?」
「はい」
ユエは、穏やかに微笑んだ。
「とても、愛い方だと思っておりました」
ライレイが一瞬黙った。
それから、楽しそうに目を細める。
「……それ、今も?」
「もちろんにございます」
「そっか」
彼は嬉しそうに笑い、妻の手を取った。
そして、あの夜と同じように言った。
「じゃあ、お姉さん。今日も面倒見てくれる?」
「……まだ根に持っておられたのですか」
「一生忘れないと思う」
ユエは呆れたように息を吐いた。
六歳年下の夫は、今日も大変に面倒な男である。
もっとも。
その面倒を見ることが、今ではすっかり日常になっているのだから、人生とは不思議なものであった。




