第29話「百鬼の残り香」
第29話 【前書き】
> いつも『香薬奇譚』を応援いただき、本当にありがとうございます!
> ここから、待望の新展開――**第四章【呪詛・鬼道編】**が開幕いたします!
> 第三章の「媚薬編」で見事な大団円を迎えた景光たち。しかし、平安の京に静けさが訪れたのも束の間。権力の中枢・藤原家の没落を企む新たなる影が蠢き始めます。
> 立ち塞がるのは、陰陽寮の若き天才陰陽師・賀茂輪狗(かも の りんく)の宿命のライバルである謎の陰陽師「蘆屋紅幽」。
> 鬼や不気味な呪詛が跳梁跋扈する京の街で、景光の「神の鼻と薬学」×輪狗の「陰陽術」が再びタッグを組みます!
> もちろん、綾子、朝葉、清重、厳馬の馴染みのメンバーも大活躍。
> どうぞお楽しみください!
第29話「百鬼の残り香」
媚薬の悪夢が晴れ去り、平安京に澄み渡る秋の静寂が戻ってから数週間。
典薬寮の薬草園では、秋風に乗って枯れ葉の香ばしい匂いが漂っていた。景光はいつものようにすり鉢を手に、黙々と新しい生薬の配合に没頭していた。
「――ふむ。この『紫胡』と『黄芩』の比率、微かに熱の引きが甘いな。もう半厘ほど減らすか……」
「ちょっと景光! 少しは休んだらどうなの?」
呆れ顔で薬草園の濡れ縁に腰掛けたのは、白梅の香りを纏った綾子だった。彼女の手には、自ら手折りで作ったという季節の和菓子が包まれた竹の葉が握られている。
「あの媚薬テロの件が解決してからというもの、あなたはずっと調薬室に籠もりっきりじゃない。たまにはお茶でも飲んで息を抜きなさいよ」
「薬師に休息などない。病や毒は、私が茶を飲んでいる間にも人を侵すのだからな」
景光は無愛想に言い放ったが、その瞳はどこか柔らかかった。あの大香炉の一件以来、綾子との間にある長年の頑なな壁は、微かに溶け始めていた。
「まったく、相変わらずつれないお方……」
庭の木陰からすっと現れたのは、朝葉だった。彼女は扇で口元を隠しながら、いつものように艶やかな笑みを浮かべている。
「ですが景光様、のんびりとお茶を飲んでいる場合でもなさそうですわよ。……宮中(内裏)の風向きが、また怪しくなってまいりましたわ」
景光の手が止まる。
「……どういうことだ?」
「ここ数日、右大臣家……つまり藤原の血を引くお公家様たちの屋敷で、相次いでおかしな『怪異』が起きているのです。夜な夜な屋敷の天井から血の雨が降る、使用人が急に発狂して暴れ出す、あるいは……」
朝葉は声を潜め、不気味に目を細めた。
「……見張りいた衛士たちが、夜の闇の中で『角の生えた黒い影』に喰われた、と」
「鬼、か」
薬草園の入口から、重厚な足音が近づいてきた。
清重と厳馬だ。清重はいつになく険しい表情を浮かべ、大刀の柄に手を置いている。
「ただの都市伝説ではない。昨夜、検非違使庁の巡邏隊が朱雀大路で『それ』と遭遇した。衛士二名が重傷。……その身体には、人間業とは思えぬ巨大な爪痕と、謎の発熱を引き起こす毒が刻まれていた」
「俺もその傷口を見たがなぁ」
厳馬が腕組みをして鼻を鳴らした。
「あれは獣の傷じゃねえ。……ドス黒く腐りかけた血の匂いと、焼け焦げた紙の匂いが混ざり合ってやがった」
「焼け焦げた紙……?」
景光の「神の鼻」がピクリと反応した。
彼は即座に立ち上がり、清重たちの方へ歩み寄った。
「清重、その負傷した衛士の傷口の匂い……詳しく教えろ」
「ああ。血の生臭さの中に、硫黄と、それから『腐敗した生薬』のような不快な臭気が混ざっていたそうだ」
「……それは、ただの病でも獣でもない」
景光の脳内で、あらゆる薬草と毒物の記憶が一瞬で組み合わさっていく。
「呪術によって人工的に作り出された『術式蠱毒(じゅ術こどく)』、そして呪符を媒介にして精神を汚染する『呪詛』の匂いだ」
その時――。
「――流石は『神の鼻』を持つ天才薬師。香りで術の骨組みまで見抜くか」
庭の築山の陰から、一人の青年が静かに姿を現した。
白き狩衣に身を包み、手には一枚の紙式神を携えた男。陰陽寮の若き天才陰陽師・賀茂輪狗だった。
輪狗の端正な顔立ちには、普段の冷静さとは異なる、底知れぬ怒りと緊張の色が滲んでいた。
「輪狗……! 珍しいな、お前が自らここへ来るとは」
景光が目を細める。
「景光、そして皆……事態は急を要する」
輪狗は手にしていた紙式神を指先で燃やすと、その灰を風に散らせた。
「今回の藤原家を狙った呪詛、そして京を蠢く鬼の正体……犯人の目星はついている。……僕の、不倶戴天のライバルだ」
「ライバル……?」
綾子が息を呑む。
「名を、蘆屋紅幽」
輪狗の瞳に、蒼い霊気が宿る。
「かつて播磨の国より現れ、異端の陰陽術と禁忌の鬼道を操る男。奴の目的は、宮廷の権力基盤である藤原家を呪詛によって根底から崩壊させ、京全体を禁忌の霊脈『百鬼夜行』の道筋へと変えることだ」
「藤原家の没落、そして京の混乱か……」
朝葉が扇を硬く握りしめた。
「如月の君が去った後、今度は陰陽道の闇が牙を剥くということですわね」
「紅幽の呪詛は凶悪だ」
輪狗は語気を強める。
「奴はただの呪符だけでなく、人間に特殊な『呪毒薬』を服用させ、体内から精神と霊魂を腐敗させて鬼へと変貌させる。……陰陽術だけでは、体内から侵食する毒は祓いきれない。景光、君の『薬』と『鼻』の力が絶対に不可欠なんだ」
景光は静かに自分の薬箱を持ち上げた。
「言われるまでもない。陰陽術だか呪詛だかは知らんが、人の肉体を毒で歪め、病を振りまく奴など……薬師として絶対に許さん」
「頼もしいよ、景光」
輪狗が不敵に口元を綻ばせる。
「よし! そうと決まれば、まずは昨夜鬼が出たという朱雀大路の現場へ殴り込みだ!」
厳馬が大刀を担ぎ上げて声を張り上げた。
「待ちなさい厳馬、焦りは禁物よ。相手は禁忌の呪詛を操る男なんですもの」
綾子が景光の隣にしっかりと立ち、景光を見つめた。
「景光、私も行くわ。呪毒の成分を見極めるには、私の香道の調合の知識も役に立つはずよ」
「ふふ、私も情報収集で裏からしっかりとサポートいたしますわ」
朝葉も優雅に微笑む。
「検非違使の巡邏部隊も動かそう。紅幽の好きにはさせん」
清重が力強く頷いた。
景光は仲間たちの顔を見回し、力強く薬箱の紐を固く結び直した。
「行くぞ。……蘆屋紅幽がどんな呪毒を仕掛けようと、私の『神の鼻』から逃げられると思うなよ」
秋の冷たい風が吹き抜ける中、平安の闇に潜む新たなる巨悪「蘆屋紅幽」との、薬学と陰陽術が交錯する激闘の火蓋が、今静かに切って落とされた。
──第29話「百鬼の残り香」 了──




