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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第1話「毒の匂い」

平安時代を舞台にした短編連作ミステリー。匂いで毒を嗅ぎ分ける薬師・清原景光が、宮中の陰謀に巻き込まれながら事件を解決していく。


典薬寮の薬棚は、いつも景光の居場所だった。


 棚に並ぶ薬包の匂いを、景光は一つひとつ覚えている。甘草の甘さ、附子の鋭さ、当帰のわずかな泥臭さ。目を閉じれば、どこに何があるかわかる。それが景光の誇りでもあり、他の薬師から「変わり者」と言われる理由でもあった。


 「また匂いを嗅いでるの」


 背後から声がした。振り返らなくてもわかる——綾子だ。絹の衣に混じった白梅の香で判断がつく。


 「何が悪い」


 「悪くないけど、見た目が怖いって言ってる人いるよ」


 「知らん」


---


 綾子は薬棚の前に並んで立ち、景光と同じ方向を見た。真似をするように一つ、薬包の匂いを嗅いで、すぐに顔を離した。


 「よくこんな匂いの中にいられるね」


 「慣れだ」


 「景光にとっては全部ちがう匂いなんでしょ」


 「当たり前だ」


 綾子は笑った。景光は笑わなかった。それがこの二人の普通だった。


---


 呼ばれたのは、昼過ぎのことだった。


 使いの者が典薬寮に来て、景光を名指しした。安倍惟忠の屋敷から。


 「景光殿に診ていただきたい方がいる、と」


 景光は薬包を棚に戻しながら言った。


 「病人か」


 「それが……はっきりとは」


 使いの者は目を伏せた。それだけで景光には、だいたいのことがわかった。


---


 安倍惟忠の屋敷は、宮中の西側に近い。景光は綾子を連れて歩いた。綾子が来たがったわけでも、景光が誘ったわけでもない。ただ綾子が隣にいて、それが自然だった。


 「病人じゃないかもって、使いの人が言ってたよね」


 「倒れたのは確かだろう。病気に見える何かだ」


 「何かって」


 景光は答えなかった。


---


 屋敷に通されると、奥の一室に人が横たわっていた。惟忠の顔見知りだという貴族——位は高くないが、惟忠の周りでよく見る顔だと女官が言った。


 昨夜から急に苦しみ出して、今は意識がない。医師は「水毒」と診立てた。


 「水毒」と景光は繰り返した。


 部屋に入った瞬間から、景光の鼻はずっと動いていた。畳の匂い、衣の匂い、汗の匂い——それらの奥に、一つだけ浮いた匂いがある。


 「景光?」


 綾子の声が遠くに聞こえた。


 景光は膝をついて、横たわる男に顔を近づけた。口元。首筋。指先。


 「……水毒じゃない」


 「え?」


 「これは薬の匂いだ」と景光は言った。「いや——毒の匂いだ」


---


 女官たちは、誰も声を出さなかった。


 一人が口を半分開けたまま固まっている。もう一人は景光と倒れた男を交互に見て、視線の置き場を失っていた。「毒」という言葉が部屋の空気を変えた。それだけで、この屋敷の中に隠されていた何かが表に出てきた気がした。


---


 足音がした。


 廊下から現れたのは安倍惟忠だった。三十を少し過ぎたくらいの男で、顔つきは整っているが、今は険しい。景光のことを知っているのだろう——一瞥して、すぐに問い返した。


 「毒、と言ったか」


 「言った」


 景光は立ち上がりもせず、横たわる男の指先に視線を落としたままだった。


 「根拠は」


 「匂いです」と景光は言った。「水毒には出ない匂いがする。この男の皮膚から。薬師ならわかります——でも、これは薬として盛られたものじゃない」


 惟忠は沈黙した。


 「……医師はなんと」


 「水毒と言った。間違いではないかもしれない。ただ」と景光は続けた。「水毒になった原因が、毒だということです」


 惟忠の目が細くなった。怒りではない。何かを計算している顔だ。


---


 「……調べてもらえるか」


 惟忠が先に口を開いた。声の質が、すでに依頼のそれだった。


 「何を」


 「誰が盛ったか。どこから来たものか。この男が、なぜ狙われたか」


 景光はようやく顔を上げた。惟忠の目を見た。整った顔の中に、焦りとも恐れとも取れるものが、ほんの少し滲んでいる。


 「私は薬師です」と景光は言った。「犯人を捕まえる仕事はしない」


 「わかっている」と惟忠は答えた。「毒を特定してくれればいい。あとは私がやる」


 景光は少し考えた。


 「報酬は」


 「必要なものを言え」


 「薬種の仕入れを一季、融通してもらう」


 惟忠は一瞬だけ目を見開いて——それから、かすかに笑った。


 「わかった」


 「では」と景光は立ち上がった。「もう一度、この男に触れていいですか」


---


 「ちょっと待って」


 綾子が口を開いたのは、景光が動き出す直前だった。


 全員の視線が綾子に向いた。惟忠も、女官たちも。綾子はそれを意に介した様子もなく、景光の隣に並んだ。


 「この方、今も苦しんでるんですよね」


 惟忠に向けた言葉だった。やわらかい声だが、問いの芯は固い。


 「……そうだ」


 「毒を特定するのはわかりました。でも、今できることはないんですか。景光」


 景光は綾子を見た。


 「解毒剤を出すには毒の種類が先だ」


 「全部わかるまで何もしないの?」


 「……しない、とは言っていない」


 景光は少しだけ間を置いた。


 「症状を和らげるものは出せる。今のうちに体を保たせる。それと並行して毒を調べる」


 「最初からそう言えばいいじゃない」


 綾子はそう言って、惟忠に向き直った。


 「薬師の言葉は足りないことが多いので、わたしが通訳します。よろしくお願いします」


 惟忠はまた、さっきとは少し違う角度で景光を見た。


 景光は何も言わなかった。


---


 景光は薬箱を開けた。


 甘草、茯苓、沢瀉——水を捌く生薬を取り出しながら、もう片方の手は横たわる男の脈を取っていた。


 「脈が乱れている。熱はそれほどでもない」


 「どんな毒だと思う?」


 「まだわからない」


 「でも匂いはわかったんでしょ」


 景光は少し黙った。


 「植物系だ。でも単独じゃない。何かと混ぜてある」


 「調合されている、ということだ。これは偶然入ったものじゃない。誰かが——作った」


---


 その言葉が部屋に落ちた。


 惟忠は何も言わなかった。ただ景光の手元を、じっと見ていた。


 景光は男の口元に顔を近づけて、もう一度匂いを確かめた。


 「……薬師の仕事が、これか」


 惟忠がぽつりと言った。


 景光は答えなかった。


 綾子が代わりに言った。


 「景光はこれが普通なんです」


 「普通、か」


 「本人は特別だと思ってないので。それが少し厄介なんですけど」


 景光は綾子の方を見なかった。ただ、わずかに眉が動いた。


---


 「典薬寮の薬師というのは、みなそういうことができるのか」


 「できない」と景光は答えた。「私が特殊なんだと、周りには言われる」


 「自分ではそう思わないのか」


 「思わない。訓練すれば誰でも鼻は鍛えられる。私がやりすぎているだけだ」


 惟忠は少し間を置いた。


 「やりすぎている、か」


 声に、どこか愉快そうな色が混じっている。


---


 「名は」


 「景光です」


 「家は」


 「清原です」


 「清原か。陰陽ではなく薬の道を選んだ」


 「選んだというより、こちらの方が性に合っていた」


 「匂いで毒がわかる薬師が、性に合っているとはどういう意味だ」


 景光はようやく顔を上げた。惟忠と目が合った。


 「薬は匂いで覚えるものです。毒も薬の一種です。それだけのことです」


 惟忠は笑った。声に出してはいない。ただ目元が、少し変わった。


 「面白い」


 その一言だった。


 「……惟忠殿は、薬師の仕事をよくご存知なんですか」と綾子が口を挟んだ。


 「いや」と惟忠は答えた。「だから聞いている」


---


 景光は男の袖をめくった。


 手首の内側、肘の少し手前。皮膚の色が、ほんのわずかに違う。健康な肌より青みがかっているが、青あざではない。境界がない。じわりと染み込んだような変色だ。


 「綾子」


 「うん」


 「これを見ろ」


 綾子がすぐに隣に来た。惟忠も、少し体を傾けて覗き込んだ。


 「……色が違う」と綾子が言った。


 「ああ」


 「これが手がかり?」


 「一つ目だ」


---


 景光は次に、男の口を開いた。女官たちがまた息を飲んだ。景光は気にしなかった。舌の色、口腔の奥、歯の際。


 「舌が少し白い。でも熱からじゃない」


 「何からです」と惟忠が言った。


 「まだ断定できない。ただ」と景光は立ち上がった。「この変色と、さっきの匂いと、脈の乱れを合わせると——植物性の毒で、体の水を滞らせるものだ。附子ではない。烏頭でもない」


 「ではなんだ」


 「それを探している」


---


 景光は薬箱に手を伸ばして、止めた。


 もう一度、部屋の匂いを嗅いだ。男の体の匂いではなく——部屋全体の。


 「……綾子、この部屋に何か飲み物を運んだか、女官に聞いてくれ。昨夜」


 「わかった」


 綾子がすぐに動いた。景光は惟忠を見た。


 「この男が昨夜、ここで何を食べたか、飲んだか。全部教えてもらえますか」


 「把握していないが——調べさせる」


 「急いでください」と景光は言った。「毒は特定できる。ただ、時間が経つほど男の体が先に限界を迎える」


---


 綾子が女官たちに近づいた。


 一人は三十手前くらい。もう一人はまだ若い。若い方は顔が青いままだ。


 「昨夜、この方に何か持っていきましたか」


 若い女官がちらりと年上の方を見た。年上の女官が、小さくうなずいた。


 「……湯を」と若い女官が言った。「夜遅くに、お呼びがありましたので」


 「湯だけ?」


 「はい。それと——」


 また、年上の方を見た。


 「それと?」と綾子が繰り返した。やわらかく、でも引き下がらない。


 「……干した果物を、少し。この季節に合わせたものだと、厨の者が言っていましたので」


---


 景光がそちらに向いた。


 「果物の種類は」


 「……はっきりとは。暗かったので」


 「色は覚えてるか」


 「黒っぽい……赤みのある、黒でした」


 景光は何も言わなかった。


 綾子が景光を見た。景光の表情が、止まった。考えている顔だ。


 「景光」


 「……一つわかった」と景光は言った。「厨に案内してもらえますか」


---


 厨は屋敷の北側にあった。


 案内したのは年上の女官だ。景光は入るなり足を止めて、ゆっくりと息を吸った。炭の匂い、出汁の残り香、油——そういうものの奥を探るように。


 「果物はどこに保管していた」


 「あちらの棚に」


 景光はそこに近づいた。綾子がすぐ後ろ。惟忠は入口近くで腕を組んで見ていた。


---


 景光は棚の前にしゃがんだ。


 器を一つずつ確かめる。干し柿、棗、干し梅——そして、端の方に置かれた、小さな器。


 手を伸ばした。


 中に入っていたのは、黒みがかった赤い果実の干し物だった。


 「これか」


 景光は器を持ち上げて、鼻を近づけた。


 一秒も経たなかった。


---


 「これだ」


 静かな声だった。でも、部屋の空気が変わった。


 「何ですか、それは」と綾子が言った。


 「莫頭ばくとうの実だ」と景光は答えた。「正確には、これ自体が毒というわけじゃない。ただ——」


 景光は器を傾けた。干し実の下に、細かい粉のようなものが沈んでいる。


 「混ぜてある。別のものが」


 「何が混ぜてあるんだ」と惟忠が言った。


 「痺れを起こす草の成分だ。ただ、この配合は——」


 景光は立ち上がった。


 「素人じゃない。薬師の知識がある人間がやった」


 その言葉が、厨の中に落ちた。


 惟忠が一歩前に出た。


 「薬師が……毒を作ったということか」


 「作ったか、知識を持った人間に頼んだか。どちらかだ」


 景光は器をそのまま持って、立ち上がった。


 「この配合、私には覚えがある」


---


 綾子が景光の顔を見た。


 「覚えがある、って」


 「この組み合わせを使う薬師を、一人知っている」


 「誰?」


 景光は少し黙った。惟忠を見た。


 「典薬寮に出入りしていた薬師だ。今は寮を離れているが——有澄、という」


 「有澄か」と惟忠が繰り返した。「その者の仕業だと?」


 「わからない」と景光は言った。「癖が似ている、というだけだ。有澄本人かもしれないし、有澄の調合を知っている人間かもしれない」


 「確かめられるか」


 「確かめる前に、まずこの男の解毒が先です」


---


 景光は薬箱に戻った。


 莫頭の実と混ぜてあった成分——痺れを起こす草。それが体の水を滞らせ、脈を乱している。単独なら致死量ではない。でも時間が経てば。


 「茵蔯いんちん猪苓ちょれいを合わせる。茯苓はもう出した。これで水の流れを立て直せる」


 景光は迷わず調合した。


 「飲ませ方は?」と綾子が聞いた。


 「湯に溶かして、少しずつ。一度に多くは飲ませるな」


 綾子がうなずいた。すぐに動く。景光が処方を作り終わるより先に、綾子は女官に向かって手順を説明し始めていた。


 惟忠がそれを見ていた。


 「……橘殿は、薬師なのか」


 「ちがいます」と綾子は答えた。手を動かしたまま。「景光の話を聞き続けてきただけです」


---


 解毒の処置が落ち着いたのは、日が傾いてからだった。


 男の脈は、まだ乱れているが、先ほどより安定している。景光がもう一度脈を取って、立ち上がった。


 「今夜を越えれば、峠は越える」


 「間に合ったか」と惟忠が言った。


 「今回は。次があるかどうかは、毒の出所を断たないと保証できない」


 惟忠は少し沈黙して、それから言った。


 「有澄を当たってみる」


 「私も調べる」と景光は言った。「ただ——有澄が直接やったとは思っていない」


 「なぜ」


 「有澄はこういう使われ方を嫌う人間だ」


 「会ったことがあるのか」


 「ある」と景光は答えた。「それだけだ」


---


 屋敷を出たのは、夜の入りになってからだった。


 景光と綾子は並んで歩いた。来た道を戻るように。月が出ていた。


 「有澄って、景光の知り合いなの」と綾子が聞いた。


 「同じ寮にいたことがある」


 「仲良かった?」


 「仲良くはない」


 「嫌いだった?」


 景光は少し考えた。


 「嫌いでもない。ただ、薬の使い方が違う」


 「どう違うの」


 「有澄は、効けばいいと思っている」と景光は言った。「私はそうは思わない」


 綾子は何も言わなかった。


 しばらく歩いて、綾子が言った。


 「景光って、薬に対してだけは、ちゃんと言葉が出てくるんだね」


 景光は答えなかった。


 綾子は笑った。


---


 有澄の居場所を探るのに、半日かからなかった。


 景光には当てがあった。典薬寮を離れた薬師が仕事を続けるなら、薬種を売る市の問屋か、寺の薬房か——どちらかに顔を出す。有澄は寺嫌いだったから、市だ。


 「見つかりそう?」と綾子が言った。


 「もう場所はわかってる」


 「え、早い」


 「顔が広いわけじゃない。匂いが手がかりになる」


 綾子が少し首を傾けた。


 「薬師の匂いってこと?」


 「有澄は桂皮を多めに使う。体に染み込んでる。市に行けばわかる」


---


 見つけたのは、薬種問屋の裏手だった。


 有澄は四十絡みの男で、景光より頭一つ背が高い。見た目は穏やかだが、目の奥が少し違う——何かを値踏みするときの、静かな鋭さがある。


 景光の顔を見て、有澄は特に驚かなかった。


 「景光か」


 「久しぶりだ」


 「何の用だ」


 「聞きたいことがある」


---


 有澄は少し考えてから、裏の軒先に景光を通した。綾子には「あんたは外で待て」と言った。綾子は景光を一度見た。景光がわずかにうなずいた。綾子は黙って外に残った。


 「莫頭の実に、痺れ草の成分を混ぜた調合だ」と景光は言った。「あんたの癖に似ている」


 有澄は黙っていた。


 「あんたがやったとは思っていない」


 「……なぜ」


 「この使われ方を、あんたは嫌う」


 有澄はしばらく景光を見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。


 「弟子だ」と有澄は言った。「冬哉という。半年前に破門した」


---


 「破門した理由は」と景光が聞いた。


 「調合を、私に無断で持ち出した。用途を言わずに」


 「何のために持ち出したかは」


 「聞いた」と有澄は答えた。「だが、言わなかった。それで破門した」


 景光は少し沈黙した。


 「冬哉に心当たりはあるか」


 「市の外れに部屋を借りていると聞いた。今もそこにいるかどうかは知らん」


 「わかった」


 景光が踵を返しかけたとき、有澄が言った。


 「……あの男は死んだか」


 景光は足を止めた。振り返らなかった。


 「今夜を越えれば、助かる」


 有澄は何も言わなかった。


---


 外に出ると、綾子が軒の柱に寄りかかって待っていた。


 「どうだった」


 「弟子の仕業だ。冬哉という」


 「じゃあ有澄は——」


 「白だ」


 綾子は少し安堵した顔をした。景光にはそれがわかった。綾子は人の白黒が気になるタイプだ。


 「冬哉を探す」と景光は言った。「ついてくるか」


 「聞く前から行くつもりだったよ」


---


 市の外れは、宮中から遠い。


 道が細くなるにつれて、人の声が変わっていく。売り声ではなく、暮らしの音。洗い物の水が流れる音、子どもが走る音、どこかで何かを煮ている匂い。


 「こっちかな」と綾子が言った。


 「もう少し奥だ」


 景光の鼻は、すでに何かを捉えていた。桂皮——有澄の癖を引き継いだ、冬哉の調合の匂い。完全に同じではない。桂皮の量が少し少ない。師の癖を真似しようとして、やりきれなかった分量だ。


---


 小さな長屋の一画だった。


 景光は扉の前で立ち止まった。中に人がいる。匂いでわかる。それと——薬の匂いが、扉の隙間から漏れている。


 「いる」と景光は言った。


 「どうする?」


 「話す」


 景光は扉を叩いた。


---


 しばらく沈黙があった。


 それから、中から声がした。


 「……誰だ」


 若い声だった。二十前後か。硬い。怯えている、というより——覚悟を決めようとしている人間の声だ。


 「典薬寮の薬師だ」と景光は言った。「清原景光。有澄の知り合いだ」


 また沈黙。


 扉が、細く開いた。


---


 顔を出したのは、まだ若い男だった。


 やせていて、目の下に隈がある。調合をしていたのだろう、指先が草の色に染まっていた。景光を見て、次に綾子を見て——それから景光に戻った。


 「捕まえに来たのか」


 「ちがう」と景光は言った。「毒を特定したくて来た。それだけだ」


 「……なぜ私に聞く」


 「作ったのがあんただからだ」


 冬哉は景光から目を逸らさなかった。逸らせないでいる、という方が近い。


---


 「殺すつもりはなかった」と冬哉は言った。


 景光は何も言わなかった。聞いている、という沈黙だった。


 「量を計算した。致死量じゃない。意識を落として、苦しませるだけ——本当はそれだけのつもりだった」


 「解毒も持っていたのか」


 冬哉は少し目を見開いた。


 「……わかるのか」


 「あの調合で、解毒を用意しない薬師はいない」


 冬哉は視線を落とした。


 「持っていた。渡すつもりだった。でも——踏み込めなかった」


---


 綾子が口を開いた。


 「なぜ実頼を狙ったんですか」


 冬哉は少し間を置いた。


 「……母が、あの人に薬を使われた」


 「薬を」


 「意識を曖昧にする薬だ」と冬哉は言った。声が平らになった。感情を押し込んだ平らさだ。「あの人は、そういう使い方を知っていた。私の母だけじゃない——でも母のことは、誰も問題にしなかった」


 部屋が静かだった。


 景光はただ、冬哉の指先を見ていた。草の染み。この手で作った毒。この手で持っていた解毒。


---


 「あんたの師は、白だ」と景光は言った。


 冬哉の目が、わずかに揺れた。


 「……有澄先生は、関係ない」


 「知っている。あんたが一人でやった」


 「そうだ」


 「解毒は、まだ持っているか」


 冬哉は少し黙ってから、懐を探った。小さな薬包が一つ。景光に差し出した。


 景光はそれを受け取って、匂いを確かめた。一秒。


 「合ってる」


 景光は踵を返した。


 「待て」と冬哉が言った。「……お前は、私を報告しないのか」


---


 景光は振り返らなかった。


 「毒は特定した。解毒も受け取った。私の仕事はそれだけだ」


 「でも——」


 「あんたが何をされたかは聞いた」と景光は言った。「私が決めることじゃない」


 「じゃあ誰が決める」


 「惟忠殿だ」


 景光は歩き出した。綾子が続いた。扉の音はしなかった。冬哉はまだそこに立っているのだろう。


---


 帰り道、綾子が言った。


 「報告するよね、惟忠殿に」


 「する」


 「冬哉のことも、全部?」


 「全部」


 綾子は少し黙った。


 「景光は、冬哉のことどう思う」


 「思うかどうか、私が決めることじゃない」


 「それ、さっきも言ってた」


 「同じことだから」


 綾子はため息をついた。景光は気にしなかった。


---


 安倍惟忠への報告は、短かった。


 毒の名前。調合の経緯。有澄が白であること。冬哉が作ったこと。解毒薬が手元にあること。実頼が過去に冬哉の母に何をしたか——それも含めて、景光は全て話した。


 惟忠は最後まで黙って聞いた。


 「……わかった」と惟忠は言った。「冬哉のことは、私が動く」


 「実頼については」


 「それも含めて、だ」


 景光はそれ以上聞かなかった。


---


 屋敷を出るとき、惟忠が景光を呼び止めた。


 「薬種の融通、約束通りにする。それと——」


 惟忠は少し間を置いた。


 「また何かあれば、頼む」


 景光は答えなかった。うなずきもしなかった。


 ただ、背を向けて歩き出した。


 それが景光の返事だということを、惟忠はすでにわかっているようだった。


---


 帰り道、月が上がっていた。


 「終わったね」と綾子が言った。


 「ああ」


 「景光、今日けっこう喋ったね」


 「そうか」


 「惟忠殿には特に。あれ、景光にしては多い」


 景光は何も言わなかった。


 「……なんか、少し変わった気がする」と綾子が言った。「今日の景光」


 「何が」


 「うまく言えないけど。なんか——ちゃんと人と話してた気がする」


 景光は足を止めなかった。


 「変わってない」


 「そう?」


 「変わっていない」


 綾子は笑った。


            第一話「毒の匂い」 了

無事、宮中の事件を解決。

しかしこの事件は序章に過ぎなかった。

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