第12話 女帝の誤算、あるいは最高級の素材(変態)への執着
「……逃げられた? 私が、あんな『バールが本体』みたいな男に?」
歌舞伎町、雑居ビルの屋上。
夜風に吹かれながら、私は手に持った魔力のムチを収め、忌々しげにネオンの海を見下ろしていた。
視線の先には、闇夜を切り裂きながら走り去る山手線のテールランプ。あの上には今、我が事務所『ナイト・メア・プロモーション』の、そして私のプライドをかけた「金の卵」が乗っている。
「ふふ、ふふふ……あはははは!」
思わず笑いが漏れた。
隣で苦虫を噛み潰したような顔をしている「聖騎士」白金凛子が、心底不快そうに私を睨みつける。
「何が可笑しいのです、蛇喰エリカ。貴方が余計な手出しをしたせいで、容疑者の確保に失敗したのですよ。公務執行妨害に加え、鉄道営業法違反の幇助……覚悟はできていまして?」
「あら、怖い。聖騎士様の正義感って、相変わらず視野が狭くて退屈ね」
私は優雅に髪をかき上げ、手元のタブレット端末を操作した。
画面には、先ほどまで彼――阿久津煉が垂れ流していた配信のアーカイブが流れている。
崖をバールで飛び越え、挙句の果てには走行中の電車に飛び乗る。
そのすべてが、最高に「不審」で、最高に「不条理」で……そして、最高に『美しい』。
「見てなさいな、白金さん。この視聴者数。このスパチャの嵐。彼は今、日本で最も『嫌われ、かつ愛されている』コンテンツなのよ。彼を檻の中に閉じ込めるなんて、国宝をシュレッダーにかけるようなものだわ」
「彼は犯罪者予備軍です! 放置すればいずれ取り返しのつかない事態を……」
「いいえ、彼は『ヒーロー』よ。ただし、私たちが望む、汚泥の中から生まれる最悪のヒーロー。彼が目出し帽を被り、バールを振り回すたびに、人々の心の奥底にある『壊したい欲望』が満たされる。彼はその依代なのよ」
私はタブレットを閉じ、黒スーツのエージェントたちに合図を送った。
「彼を追いなさい。山手線の次の停車駅、あるいはその先。彼が『永田町』へ向かうと言ったのなら、全ルートを封鎖して。ただし、傷一つ付けてはダメよ。あの『成金バール』の輝きを曇らせるのは、私の趣味じゃないわ」
「はい、社長」
エージェントたちが夜の闇に消えていく。
私は再び、白金凛子へと向き直った。
「白金さん。貴方は彼を『悪』だと思っている。でも、私には見えるわ。あの目出し帽の奥にある、あまりにも純粋で、あまりにも卑屈な『承認欲求』が。彼は自分が変態だと思われていることに傷つきながら、それでもバールを手放せない。そのギャップこそが、ファンを狂わせるのよ」
「……貴方の言うことは、反吐が出ますわ」
「そう? でも、貴方も彼の配信、通知設定を『オン』にしているわよね?」
白金凛子の頬が一瞬、朱に染まった。
沈黙。それが彼女の肯定だった。
そう。彼女もまた、魅了されているのだ。
正義を司る者が、最も正義から遠い存在に惹かれる。これもまた、一つの完成されたエンターテインメント。
「さあ、阿久津煉。貴方が次に何を『カツアゲ』するのか、楽しみにしているわ。……もし永田町で暴れるつもりなら、最高級のカメラクルーを差し向けてあげる。貴方の『不法侵入』が、この国の歴史を塗り替える瞬間を、私がプロデュースしてあげるわ」
私は赤ワインのような色の口紅を引き直し、歌舞伎町の深淵へと戻ることにした。
阿久津煉。
貴方はまだ知らない。
貴方が被っているその目出し帽は、もはや貴方の顔を隠すためのものではない。
それは、新時代の『王冠』なのよ。
「ふふ、次の配信が待ちきれないわね……。……あ、そうだわ。彼が落としていった『ドロヌマウオの白身(特大)』、あれ、うちの社員食堂でムニエルにでもしておいて頂戴。彼の『戦果』を、まずは私が味わってあげなきゃ」
蛇喰エリカ、三十歳。
彼女の不審者育成計画は、ここから加速していく。
警察の包囲も、闇の懸賞金も、すべては彼を輝かせるための「演出」に過ぎないのだから。




