奈落の底までも(完)
夜の帳が下りて、闇色の空に銀の月がかかる。
カイルは夕食後も政務についていたけれど、自分が湯浴みをすませた頃には、あくびをかみ殺しながら寝所へ戻ってきた。
寝台に腰かける自分に、カイルはにやりと笑うと、行儀悪く、こちらの膝を枕に寝転がった。
「……陛下。お休みになるのでしたら、枕のほうが柔らかいと思いますわ」
「俺はお前の膝がいい。嫌か、ユリア?」
「わたくしの骨ばった膝では、くつろげませんでしょう」
「そうか? 昔のお前のほうが、よほどか細く、壊れ物のようだったぞ。今はいくぶん柔らかくなってきているじゃないか。なによりだ」
「カイル様」
咎める声を出すと、カイルはくつくつと笑った。
「怒るな、ユリア。褒めているんだ。幼い頃のお前ときたら、本当に、たやすく折れてしまいそうだった。触れることすら躊躇われたものだぞ?」
「そのようなことをおっしゃって、わたくしの食事をあまり増やさないで下さいませ。陛下のおかげで、ドレスが窮屈になりそうです」
「いくらでも仕立て直せばいい。お前はもっと肉をつけるべきだ。女官長も心配していたぞ? 王妃殿下はあまりにもか細く、儚くていらっしゃいます、とな」
「……わたくしは、それほどか弱くはございませんわ」
「そうだな。お前は、儚い花のように見えても、いざとなれば、誰よりも度胸がある女だ」
楽しげにいうカイルに、罪人の塔へ忍び込んだときのことをいわれているのだとわかって、嘆息する。これ以上の抵抗は無駄だろう。自分の硬い膝枕で、カイルの疲れが取れるとは思えないけれど、深い蒼色の瞳が、悪戯に輝いているのだから、いいとしよう。
カイルの明るい金の髪を指で梳けば、彼はくすぐったそうに目を細めた。
それから、何でもないことのように、カイルはいった。
「来月には遠征だ。悪いな、ユリア。またしばらく城を空ける。護衛たちは残していくが、何かあればすぐに連絡を」
「……今度は、どちらへ?」
「マチスだ」
マチス王国。大船団を持ち、海洋国家として名高い国だ。
(では……、ついに、大陸統一に向けて動かれるおつもりなのですね)
カイルはすでに隣国を攻め落としている。
しかし、隣国とは長年の軋轢があったため、王の野心のほどを量りかねる声も多かった。
単に、投獄されたときの一件を恨みに思って、隣国を攻めたのではないかという者もいれば、これは大陸全土を支配するための足掛かりに過ぎないと見る者もあった。あれほどの、神にも等しい力を持つ魔王が、隣国一つ支配下に置いただけで満足するわけがないと。きっと、この世界を手に入れるための準備を進めているのだろうと、そう囁く者も少なくなかった。
─── 陛下は世界を握るつもりに違いない。
王宮内でそう口にする者たちは、実のところ、恐れよりも、期待を滲ませていた。
カイルは、諫言の一つですら、自分以外には許さないけれど、服従する者に対しては寛大だ。
彼はあくまで統治する王であり、人の理から外れた神ではないからだ。
王に服従し、その意に忠実に従う限りは、失態を犯したとしても、その一点のみで首が飛ぶようなことはなかった。また、功績を上げれば、ふさわしい褒美を与えられた。
その明確な基準に、安堵する者は多かった。
特に身分の低い者は、王の機嫌一つで首をはねられることはないとわかって、ホッと胸をなでおろしていた。
─── 陛下に逆らった者が、身体の端から細切れにされようとも、それは逆らった者が悪いんだ。逆らわなければ、陛下は寛大だ。公平だ。王妃様だけは特別だというけれど、それは奥方様なのだから特別で当たり前だろう。陛下のお陰で、あの憎たらしい隣国は属国になった。給金はきちんと支給されていて、暮らしぶりも上向きだ。酒が飲めるし、たまには家族でうまい飯を食いにも行ける。……あぁ、反乱軍にいた奴らは可哀想だったな。でも、陛下に逆らったのが悪いんだぜ。あの方は魔王様なんだから、人間ごときが逆らっちゃいけないんだ。
職を選ぶほどの余裕のない、下働きの者たちですらそう囁き合うのだ。
魔王の冷酷さを知りながら、それでも望んで官位を得た若手貴族たちの熱狂はより酷かった。
王が戦を仕掛けることに、眉を顰めるどころか、今か今かと待ちわびている様子だ。
彼らは、反乱軍がたどった地獄のありさまを知りながら、カイルに仕えることを望んだ者たちだ。魔王を信奉しているといってもいい。彼らにとって強さとは正義であり、何よりも眩いものなのだろう。
いや、誰にとっても、圧倒的な暴力というのは、惹かれるものなのかもしれない。
一国をたやすく支配下に置けるほどの絶大な力だ。その強さに魅せられることに、不思議はないのだろう。
もしも……、カイルが心から望んで、その道を行くと決めたのなら。
野心を持ち、高みへ駆けあがることを夢見たなら。
大陸から海の向こうに至るまで征服し、この世界でただ唯一絶対の覇王となることを欲したなら、自分はきっと、カイルを止めなかっただろう。彼の望みに寄り添うことを選んだだろう。
けれど、ちがう。ちがうのだ。
わかっている。カイルを駆り立てるものが何なのか知っている。
(カイル様は、恐れていらっしゃるのでしょう?)
カイルはもう、ユリア以外の人間は求めない。
他人と対話し、信頼関係を築き上げようとすることもない。
臣下に忠誠を求めず、ただ膨大な暴力でのみ支配する。
それは……、怖いからだ。
再び裏切りの痛みを味わうことを、恐れているからだ。
カイルが投獄され、処刑が決定したあの頃。それでもカイルを助けようとする者は自分しかいなかった。明確にカイルを裏切ったミカや、第二王妃だけではない。カイルがそれまでに守ってきた国境沿いの領主たち、信頼を築いてきた将軍たち、カイルに忠誠を誓った騎士や魔術師たち、彼らすべてが眼をそむけた。殺されようとしているカイルを見捨てた。
彼らにも、彼らの事情があるだろう。
けれどそれは、カイルの痛みを和らげはしない。
カイル自身は、恐れていることなど認めないだろう。傷などないというだろう。あの五か月間の絶望も屈辱も、もはや過去のことだと言い放つだろう。傲岸に、不遜に、冷酷に、皆が想像する通りの魔王として振る舞うだろう。
そこはカイルの心の中の最も暗い場所だ。カイルが許せないだろう、彼自身の弱さだ。
だけど、自分はずっとそばにいたのだ。
気づかずにいることはできなかった。見て見ぬふりをすることもできなかった。
カイルの美しい蒼の瞳の奥にある怯えが、苦しかった。自分のことのように痛かった。
カイルにあるのは野望でも支配欲でもない。過去の痛みだ。狂おしい恐怖だ。
彼は力を示さずにはいられないのだ。力で支配せずにはいられない。一瞬で、信じていたものが何もかも崩れ去ったあのときから、カイルはずっと怯えている。
臣下に、民に、圧倒的な暴力を誇示して、恐ろしい魔王だと怯えられて、初めてカイルは、つかの間の安堵を得られるのだろう。
けれど、それはあくまで、一瞬の逃避だ。真実、心を落ち着かせるものではない。
カイルの力なら、世界を手に入れることも難しくはないだろう。けれど、その後はどうなる?
世界を征服し、倒すべき敵がいなくなり、力を誇示する機会も失う。そのとき、歪んだ矛先はどこへ向かう? きっとそのときにはもう、カイルは後戻りできなくなっている。無理やりにでも、力を示し続けるしかない。たとえその切っ先が、力のない民に向いてでも。
そのときカイルは、名実ともに魔王となるだろう。なってしまうだろう。
痛みから目を背け続ければ、いつか破滅の日が来る。わかっている。
だから繰り返し諫言した。カイルが隣国へ手を伸ばそうとしたときも、彼を何度も止めた。
けれどカイルは聞き入れなかった。自分を咎めることもなかったが、笑って「少しの間だけ、目をつむっていろ。その間に、終わらせる」と囁いた。
そうではない、恐れているわけではないのだといっても、カイルの耳には届かなかった。
カイルが自分に甘いのは、自分だけが彼を見捨てなかったからだ。自分だけが彼の傍に居続けたからだ。
けれど、それも、カイルが味わった絶望を癒すほどの力はない。恐怖に駆り立てられる彼を、止めるほどの力はなかった。
それは、今までの経験から、重々承知していた。
それでもユリアは口を開いた。
「陛下はすでに隣国を併合いたしましたわ。このうえ、マチス王国を手に入れる必要はございますか? 国土ばかり増やしても、統治の手が足りなければ、混乱を招きましょう」
「お前は心配性だな、ユリア。大丈夫だ。俺に任せておけ。なにもマチスを滅ぼすわけではない。我が国の一部として飲み込むだけだ。従う者だけは生かしてやるさ」
そう淡々と告げてから、カイルは、ふいと手を伸ばして、ユリアの頬に触れた。
こちらを見上げる深い蒼の瞳は、どこか脆く、危うい光を帯びていた。
「ユリア」
「はい」
「……俺が、恐ろしいか?」
ユリアは息をのみ、それから微笑んだ。
「いいえ、カイル様」
たとえ、あなたを止められないとしても。いつか破滅の日が来るとしても。
そう胸の内で囁いて、カイルの手を握りしめる。
「わたくしにとって、カイル様は、昔から変わらずに、愛しい御方です。わたくしはずっと、お傍におりますわ」
きっと、と、思う。
きっとカイルを癒せるのは、カイルが新しく信じることのできる誰かだけだ。
不信にのまれた彼が、それでもなお信じたいと思える誰かだ。それは自分ではない。自分は彼に寄り添う者だ。何があろうと変わらずに傍にいる人間だ。カイルもそれを知っている。だから自分にだけは心を許してくれるし、だからこそ自分ではだめなのだ。
新たな誰かが、カイルの前に現れてくれるかはわからない。すでに魔王と恐れられていることを考えれば、それは酷く難しいだろう。あるいは、魔王を倒そうという気概を持つほどの人間でなければ、カイルの心を動かすことはできないのかもしれない。カイルが己の痛みを認められるのは、倒されるその瞬間なのかもしれない。
だとしても、
(奈落の底までも、わたくしは、ともに参ります)
それだけが、自分の唯一の望みだから。