32 よく、いきる
トゥレスが体を起こすと、額に乗せられていた温くなった濡れタオルが布団に落ちた。
病室のようなカーテンで区切られたスペースのベッドで、彼は寝かされていたようだ。
血は戻っていないし、この世界で輸血技術は〈リミッター〉で封印されている物の一つだ。貧血はそのままになっているので、まだクラクラしている感じがする。
「だが、生き延びた……」
独り言を止める事は出来なかった。
ふと体を触ってみると、矢で撃ち抜かれた傷は既に無い。
そして、腰の裏辺りに触れた。
無い。
(嗚呼……)
そこにあるはずの、古い肉の盛り上がった傷跡が、無かったのだ。
両足の指先を、足首をぐねぐねと動かしてみる。
5年間悩まされた痛みが無くなっていた。
涙が出そうだった。
ベッドに仰向けになり、全身をぴんと伸ばしてみる。
そんなことをしても、痛くない。
素晴らしい開放感だった。
「治っちまった」
口に出すと、表情が緩んだ。
確かめるように体を動かしていると、カーテンがシャッと音を立てて開かれた。
顔を覗かせたのは、赤毛の少女だった。
「トゥレスさん!」
「……その声、お嬢ちゃんか」
安堵の息を吐く。
誰かと思った。
「はい! 目が覚めたんですね!」
「さっきな。身奇麗にしたら見違えたじゃねえか。一瞬分からなかったぜ」
「そ、そうですか?」
「おう。儂の目が曇ってたわ」
自然に言うトゥレスに、少し頬を染めてイルマははにかんだ。
今のイルマは少し癖の有る赤毛をポニーテールにしてまとめている。
同じ五精系でも青精人種や黒精人種の斜めに長く伸びる耳と違い、黄精人種の耳は真横に垂れ気味に伸びる物で、伸びの長さも控えめでコンパクトな物である。
服装は開襟シャツと膝下まで有るスカートという物になっていた。
やはり中性的な顔立ちには違いないが、ちゃんと女性的な格好をしていれば男に間違われたりはしない可愛らしい娘に見える。
意外と背筋を伸ばして立っていると背丈はそれなりに有ることに気付いた。160センチくらいだった。
潰された目も治療されたようで、顔には小傷も残っていないようで安心出来た。
一瞬イルマだと認識出来なかったのはそこが一番大きかった。
(失礼なことをしちまったもんだ)
出会った直後のことを内心で反省した。
「儂はどんだけ寝てた?」
「今日が木曜……、2日半ってとこですね。失血による体力低下が厳しかったみたいです。あ、食べ物とか用意してますから、温めて来ますね」
「おぉ、いつもすまないねぇ」
「はぁ……。いつも?」
首を傾げるイルマ。
「……すまん、何でもねぇ」
トゥレスはノリで口にしたことに自嘲した。
しばらくしてから、トレイに少し水っぽくした白米、味噌汁、レバニラ炒め、ほうれん草とベーコンのバター炒め、ひじきの煮物、湯豆腐を乗せて戻って来た。
明らかに増血効果を狙うメニューだった。
「豪華だな。ありがてぇ。頂きます」
「はあい」
イルマがベッド横の椅子に座ると、トゥレスは空腹ではあるが急がないように食事を進める。
(美味い。くっそ美味い。死んだかみさんの飯並に美味いまである。腹減ってるからかも知れねえけど)
噛み締めるようにして食事を終えて、手を合わせる。
「はぁ、食った食った。美味かったよ。ごちそうさん」
「お粗末様でした」
少し照れたように頬を染めてイルマが笑う。
「……もしかしてこれ、お嬢ちゃんが?」
「ええ。そうですけど」
「若いのに大したもんだ。良い腕してるよ」
「女子ですからね。家事は一通り子供の頃から母に叩き込まれました」
イルマは当然のように言うが、トゥレスは酷く複雑な表情をした。
(かみさんや娘らはともかく、儂の孫くらいの世代になると「女は料理出来ないといけないなんて時代遅れ」みたいな風潮になってたけどな……)
トゥレス個人としては同年代では根強かった男尊女卑は性に合わなかったし、同じ男でも、他者に上げ膳据え膳してもらわねば生活も出来ないような者などは軽蔑の対象だった。
世の流れとして、男女平等を謳う思想は正しいことだろうと思っていた。
しかし、この世界の長い歴史の中でも、フェミニスト的なセトラーによる同様の改革は幾度も試みられていたが、数十年もすると改革による別の問題が噴出して、やがては性差の実在を無視する極端な思想として逆に否定されてしまうということが繰り返されていた。
性の平等はそのまま。いや、むしろ〈源世界〉以上に発展しながらも、性的適正の存在を忘れず、適正の例外性の尊重も進んだ成熟した社会性を持つに至っていた。
この世界は〈源世界〉の延長線上に発生したような文化背景を持っているにも関わらず、〈源世界〉での思想は結果的に淘汰され、一周回ってセトラーのような前居た世界の価値観に引きずられる者の方が生き辛くすらなっていた。
こうして、その結論のようなイルマの存在を突きつけられると何も考えずにはいられなくなる。
「トゥレスさん? どうかされましたか?」
物思いに耽っていたトゥレスにイルマが声をかける。
「ん、いや、何でもねぇ」
トゥレスは緩く笑って誤魔化す。
「状況を確認してぇんだけどよ、その前に聞きてぇんだ。ちょっと」
イルマに手招きしながら言う。
イルマが少し身を寄せると、トゥレスが彼女の耳元に口を近づけた。
「ゎ……」
異性の接近に慌てるイルマ。
「騒ぐな。……儂等が気絶する前に丘崎がお嬢ちゃんから引っこ抜いた『針』みてぇなもん有ったろ?」
声を小さくしながらトゥレスが言った。
「ひゃ、あ、はい、有りましたね」
息に耳をくすぐられて顔を赤くしながらイルマが頷く。
「儂らの要るこの部屋で丘崎は同じもん見たとか言ってたか?」
「……いえ、この宿の中と、泊まってる他の人にもそれは無かったと聞きました」
「よし、もう声は戻して良いぜ」
トゥレスが声を元のボリュームに上げて言うと体を離す。
「ん? どした?」
顔の赤いイルマに聞くが、
「何でもないです……」
半目でねめつける様にしてそう返された。
「それで、あれがどうかしたんですか? それに、あれ『針』って言うより杭みたいに見えたんですが」
「儂はあれの正体を知ってる」
「え、何だったんですか?」
「あれはウノのもう一つのPAだ。名前は〈聞針〉っつって、刺した場所の音を拾うことが出来る。奴の情報収集能力の正体だよ」
イルマの目つきがすっと真剣な物になった。
「……そうだったんですか。でも、盗聴能力を持つならはクリミナルPAに含まれるでしょう? どうして封印処置されてないんです?」
「奴が役場に申し出る訳がねぇだろ。〈烈光弓〉を普段から具現化してるのも、そちらを印象付けてダブルホルダーであることを隠すためだと儂は思ってる」
「なるほど……。確かにウノはあの弓のPAを普段から表に出してましたね」
「まあ、他人である丘崎がどうして〈聞針〉に干渉出来たのかはわかんねぇけどな。本人も理解してやってるわけじゃ無さそうだったし」
「確かに、そんな感じでした」
「とりあえず、ここで丘崎が見つけてねぇならでかい声で話しても安全だろ」
「了解です」
そう言うと、イルマは姿勢を正し、
「状況の確認の前に、私についてお知らせしたい事が有ります」
トゥレスを正面から見据えて言った。
「お嬢ちゃんについて?」
「はい……。現在証明する物は持っていないんですが、私はウィケロタウロス騎士団の諜報部に所属する者です。〈鷹羽〉に所属していたのは潜入調査のためです。そして拷問、――ちなみに拷問の中心はホンファによるものでした。それを受けたのは彼らのある計画についての情報を獲得したためでした」
「……」
トゥレスは少し考え、
「儂に明かして良かったのか?」
「はい。トゥレスさんは信頼出来ます。それに〈鷹羽〉とは関係の深い方ですから、これから無関係では居られなくなると思いますし」
「……分かった」
きりっと顔を引き締めたイルマに対して頷く。
(しかし、騎士団ね……。公園で切って見せた啖呵からすると、むしろ日本の武士みてぇな気質に思えるけどな。切腹発言とかしてたし)
そんなことを思った。
「それで、現状なんですが、ここは〈変り種〉が拠点としている壁南の〈負け犬の遠吠え亭〉の医務室です。私たちの分の部屋も借りて頂いてしまってます」
「ありがてえ話だが……、よくそこまで便宜を図ってくれたな」
「私が〈変り種〉と個人的な協力関係を持っていた事も有るかと」
「へえ?」
「丘崎さんへの『晒し』が行われていた期間に〈変り種〉、というか〈便利屋〉の東山さんに内部情報を流してたんです」
「業務上、それは良いのかよ?」
「騎士団への報告はしてましたし、丘崎さんに限らず〈鷹羽〉やマーティンの行いはあまりに非道でしたからね。問題有りませんよ」
「なるほどな。しっかし、奇妙なくらい縁が繋がるもんだ」
「……ですね。まさかトゥレスさんがコンビを組んでいるのが丘崎さんだったとは思いませんでした。こちらで東山さんにいくつか事情を説明しましたが、トゥレスさんがウノと血縁が有ったことは把握して無かったようです」
「儂と奴、双方と面識が無ければ兄弟だとは思われねえし、ウィケロに来てからのウノは自分が目立つのを好まなくなったからな」
姓も違うトゥレスとの共通点を調べても、黒精人種であることくらいしか分からないだろうし、そもそも〈鷹羽〉の首魁がウノであることすら一般には知られていない情報である。
「今後、東山さんが私の得た情報を騎士団の上に報告するための場を整えてくれるそうです」
「そういうコネまで抱えてんのか。マジ便利だなあの人」
「トゥレスさんにも、その場では〈鷹羽〉について情報提供をしてもらいたいんですが」
「分かった。どれだけ役に立つかはわかんねぇけどな」
「……現状はこんな物ですね。トゥレスさんのアパートも放火であることは分かっていますが、犯人は不明なままだとか」
そう言うと、イルマは椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、私は鍛錬してきますからトゥレスさんはゆっくり休んでくださいね? グラゾフスキーさんも神経系の完治には時間かかるって言ってましたから」
「……鍛錬?」
トゥレスはぽかんとした顔でイルマを見る。
「ええ。〈鷹羽〉で知った彼らの計画に対抗するため、少しでも足しにしたいんです」
イルマは握りしめた自身の右手を見つめる。
「今度は、無力なままに潰される訳にはいきません。私の実力では今更鍛えても大きなことも出来ないでしょうし、事態が動くまで時間は無いかも知れませんが」
右の拳を、左の掌にばしりと当てた。
「騎士団員としては裏の人間ですから、仕事としての任には与えられないでしょう。ですが、『義を見てせざるは勇無きなり』です。〈鷹羽〉とデヴォニッシュ家、彼らは何としても止めねばなりません」
そう、イルマは宣言した。
確固たる意志が双眸に宿っていた。
(あれだけの目に遭わされて、まだ立ち向かうのか……)
トゥレスは愕然としていた。
(たかだか、16の小娘が)
公園でもそうだった。
逃げる内に血を失ったトゥレスを守ろうと、傷付いた身体のままにイルマはホンファに立ち向かった。
勝てない事が分かっていながら。
そして丘崎には自身を見捨てる事すら主張した。
トゥレスのセトラーとしての感性からすれば、何とも青臭くて時代遅れにすら感じるその生き方。
そして、恐らくは自分はそこまで真っ直ぐには生きられない。
(だが、これだけは確かだ)
トゥレスは無言でベッドから降りる。
「トゥレスさん? 何を……」
イルマが心配そうに声をかけた。
トゥレスの身体の損傷は癒えたが、未だ血量の戻らぬ病み上がり。おまけに長年に渡る下肢の障害まで負っていたのだ。
「うぉっ!」
やはりよろめいた。
「あぶなっ!」
それをイルマが受け止めるが、突然の事で強化していなかった彼女は20センチは身長差の有るトゥレスを支え切れなかった。
結果、トゥレスの身体によって壁に押し付けられる形となった。
「は、ははは。わりぃわりぃ」
前腕全体をイルマの顔の左右の壁についたトゥレスが苦笑して言う。
「も、もう! 無茶しないでくださいよ!」
顔の接近に頬を染めながら、トゥレスの胸を押して抗議するイルマ。
だが、トゥレスは抗議を風とも思わない態度でイルマの顔を見つめていた。
普段の年少者を慈しむ老人の様な微笑みに加えて、眩しい物を見る様な、それでいて寂しそうな表情にも思えた。
「……笑えねえよなあ。何が『お嬢ちゃん』だっつうの。なぁんにも儂は見えてなかったんだ」
「トゥ、トゥレスさん?」
意味の分からないことを呟くように言うトゥレスに、イルマは動揺する。
「本当に失礼なことを言ってたよ。許してくれ、イルマ・ジャネスさん」
「え? え?」
イルマはトゥレスが自身を名で呼んだことに驚く。
初めてではないか。
一方、トゥレスは迫るような体勢のまま、起きる前に見ていた夢を思い返す。
カルメの町を出てから、5年。
(……儂は、『善く生きる』ことは、出来なかった)
安宿でその日暮しする、障害持ちの冒険者。
自己鍛錬こそ欠かさなかった。しかし、状況を改善する術も無く、肥大していく〈鷹羽〉を止めることも出来ず、自身の行動の自由は日々反比例するように狭くなっていっていた。
(情けねえよなあ)
そして、先程目が覚めてからも、自身がウノや〈鷹羽〉と直接対峙することすら頭に浮かばなかった。
何時かは、ウノとの決着をつけることを目標にしていたが、それは今回ではない。もしくは誰かが討ってくれるならそれで良いとすら思っていた。
無理をしないということを言い訳に、戦うことから逃げていた。
(……だが)
もし丘崎や〈変り種〉がマーティンと〈鷹羽〉に噛み付かなければ、
もし丘崎と組む相手に選ばれなければ、
もし偶然目に付いたイルマを拾わなければ、
今でも自分はあの部屋で、一人で燻っていた。
しかし、奇妙に縁がつながり、今生きてここにいる。
ならば、
(儂なんかより余程、『善く生きてる』この娘を、指標としよう)
トゥレスは選ぶ。
「儂も、あんたに付き合わせてくれ」
今回選ぶつもりの無かった選択肢を。




