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その男はずっと見ているだけだった。
ジェイソンが三年前に受けた任務は、「ある要人の警護」だった。警護ではあるが、表向きには姿を見せることはない。それは、彼の職業上、当然のことだった。
彼が所属する部隊「十三番隊」は、一応騎士団の中に置かれているが、その全貌を知る者はほとんどいない。隠密行動がメインで、諜報活動や斥候、時には暗殺に関わることすらあるので、当然ではある。
そういった裏の仕事に徹していたので、今回の任務はかなり異例ではあった。何しろ、相手はこの国の王太子なのだから。
表になかなか出てこないというだけで、十三番隊が騎士団の中で冷遇されているということはない。むしろ、精鋭揃いであるこの部隊に一目置く人間は多い。
ジェイソンはこの部隊に入って、かれこれ十年ほど経つ。
彼は当時の副隊長であるパメラ・ボウ・ヒーズの影響を受け入隊した。パメラは当時唯一の女性隊員で、女性でありつつも副隊長を務める女傑であった。ミドルネームの位置にあるボウとは、ミドルネームではなく弓のボウのことであり、任務中はそれを使う。いわば、コードネームだった。
十三部隊の人間は、任務中の名に武器の名前を使う。パメラが表向き引退した後、「ボウ」の名をジェイソンが引き継ぎ、ジェイソン・ボウ・ヒーズとなったのは、三年前だ。
ジェイソンはもともと孤児だった。孤児だったため、名前は知っていても、苗字は覚えていなかった。覚えていないのか、初めから持っていなかったのかもわからなかった。
気が付いた時には一人だった。スラムで生まれ、弱者に厳しいスラムで成長した。物心ついた頃には、既に戦い、奪うことを知っていた。覚えている限り最初の記憶は、酔っぱらった誰かの懐から財布をせしめたことだ。
ジェイソンはずっと一人だった。
言葉はそれなりに理解していたけど、話す相手がいなかった。時折、貧しいながらも寄り添って生きる親子や兄弟を見て、何かしらもやもやとした感情を抱くことはあったが、それが何なのかを理解することはなかったし、腹が空けばその疑問も消えた。
盗むことも、騙すことも、傷つけることもできた。けれど、スラムではそれは誰もができることだ。子供だったジェイソンはある日仕事でへまをし、大人に捕まった。そうして殺されるというところで、助けてくれたのがパメラだった。パメラは幼い身でありながらも、したたかに生きる彼を気に入り、引き取り、育ててくれたのだ。
「あんたはあたしが拾ったんだからね。いわばあたしの息子さ。これからは、ジェイソン・ヒーズと名乗っていいよ」
そうやって笑う彼女は、燃えるような赤毛をかき上げ、豪快に笑った。
ジェイソンはそれに、何か返すことはなかった。スラムでの孤独な生活は、彼を無口で不愛想な少年にしていた。けれど、その時彼は、ふと以前見た寄り添って生きる親子の姿を、何となく思い出していた。
彼女は、ジェイソンを一人で生きていけるように鍛えたし、文字を教え、簡単な計算を教え、生活するに必要な家事を教え、乞われればその戦闘術を仕込んではくれたが、騎士団に入隊させようとはしなかった。ジェイソンが入隊したのは、彼の意志だ。入隊志願する彼に、彼女は「せいぜい頑張りな」と、軽く言葉をかけただけだった。
彼が十三番隊に入ると決めた時、初めて彼女は反対した。
「あたしは賛成しないね。あそこはあんたが思ってるよりきついよ。長く続けたいのなら、違う部署におし。そりゃ、華やかな一番隊は貴族しか入れないけど、他のとこだってそう悪くはないさ」
表舞台に立つことの多い一番隊は花形だ。しかも、その部署は実力だけでなく、貴族出身であることや、ある程度の教養や容姿まで要求される。どれだけ強くても、ジェイソンがそこに入ることは許されない。次の花形部署である二番隊もまた、貴族であることが第一条件だ。当然給料も、その二つは全く違う。唯一その二つの部隊と給料において遜色ないのは、十三番隊と言われていた。基本給は高くないが、危険手当がけた違いに多い。それだけ、任務には危険が伴うのだが。
「俺は強い」
ジェイソンは、無口で愛想のないまま少年期を終えようとしていた。パメラは彼の言葉に「あたしから見たらまだまださ」と笑いつつも、仕方ないね、と肩をすくめた。
「あんたが本気でやりたいなら、それでもいいけどさ。いくら力が強くても、それだけじゃダメなのさ。こっちも強くないとね」
そう言って、彼女はジェイソンの胸を拳で軽く叩いた。軽く、といっても、一般人が食らえば、後方に吹っ飛ぶほどの威力はあったが。
「心臓?」
「あんたは本当に情緒ってものがないねえ。心だよ、ハート」
いけ好かない王太子とやらの、影の護衛も、もう終わりだ。今日が卒業パーティーなのだから。
彼はこの三年間、定期的に報告を隊長に送っていた。今も、臨時の鳩を飛ばすところだ。王太子が、婚約者である公爵令嬢に対して、一方的に婚約破棄を突きつけたこと、その理由と、その場面をありありと書いて、鳩に託した。
「アリス、頼むぞ」
連絡用に使っている鳩は、彼が自ら仕込んだ、いわば鳩の精鋭だ。この報告が隊長から王にいけば、十中八九王太子は廃嫡される。それは、ジェイソンにとっても喜ばしいことだった。
三か月前のあの光景を見たジェイソンにとっては。
三か月前のその日、彼の護衛対象は、大層機嫌が悪かった。意中の男爵令嬢に何度も話しかけては袖にされていたからだ。その令嬢、エスター・ファーマンは、身分こそ低いが美しく、またしっかりとした令嬢で、ジェイソンは割と気に入っていた。身分だけなら、比ぶべくもないほど高い相手を、しかも麗しい王子様を、ああも邪険に扱うさまは、ほんの少しばかり痛快だった。
王子はとうとう諦めて図書室から出て行った。その先の廊下に、生徒の多くが群がっていた。前回のテストの成績優秀者、最優秀と言われる十名の名前が貼りだされるのだ。
「まあ、またエスター様が一位だって」
「ダミアン様も同点よ。お二人ともさすがね」
「三位はリーガン様だ。お美しくてマナーも完璧なだけでなく、優秀であられるとは」
「十位にギルバート様の名前が。まあ、キャリー嬢も七位なのね。悔しいけど、成績だけはすごいのよね、あの子」
生徒の多くが、校内でも有名な生徒たちの名前を口にしては、何やら笑っている。それは、華やかな生徒たちをアイドルに見立ててはしゃいでいるだけに過ぎないのだが、ミシェルにとっては不愉快なものだった。そこに、彼の名前はないのだから。
王太子の成績は厳重に秘匿されているが、実を言うとあまり芳しくない。もともと勉強嫌いの怠け者な上に、寮に住むことで監視の目が緩くなっているのだ。勉強からはますます遠ざかる。
当然、王家には王太子の成績は詳しく伝わっている。王があえて放置しているのは、王子がどうするか、見極めているからだ。この学園生活を、王太子は忙しくなるまでに羽目を外す最後の自由時間と思っているふしがあるが、実際はそこまで甘くない。この学園生活自体が、彼が王たる存在にふさわしいかどうか、多くの者が判断するのだ。結果は、恐らく駄目だろうなとジェイソンはこっそり思っている。
この三年間で彼がしたことと言えば、女の尻を追いかけるのと、生徒会での側近たちの手柄を横取りしただけだ。普段付き従っている三人の少年の苦労が偲ばれる。特に護衛の二人、フレッドとアッシュは見習い騎士なのでよく知っている。二人とも貴族であるにもかかわらず、団内で行われた模擬戦の後、ジェイソンの戦いぶりに感銘を受けたと、わざわざ声をかけてくれたのだ。あの二人はきっと、将来一番隊に入るのだろうな、とジェイソンは思っていた。王太子の失脚が、彼らの将来に響かねばいいが。
「あら、ミシェル様。ごきげんよう」
ミシェルが不機嫌に廊下を睨みつけていると、後ろから鈴を転がすような声が聞こえてきた。彼の婚約者であるリーガン・テリーザ・フリードキンだった。
「リーガン」
「はい。あら?廊下に人がたくさん……。どうなさったのかしら?」
彼女が廊下の人だかりを見て首を傾げたのを見て、憤慨したようにミシェルは彼女に背を向け歩き出した。リーガンからすれば、人だかりを見つけて不思議に思っただけだったのだろう。しかし、ミシェルにはそれが遠回しに愚弄されたように感じた。
すべては彼が怠けた結果にすぎないのに、この王子はどうも妙なプライドだけは高い。
いつもならなだめるはずのフレッドとアッシュは、正式に騎士団へ進路を決めたため、その試験で王都に赴いている。側近のダミアンは生徒会の引継ぎで、やはりいない。普段は誰かしら側にいるようにしているのだが、彼らも、三か月後の卒業に向けて忙しい毎日を送っているのだ。表向き護衛と側近の三人も、本文は学生なのでこういうこともある。
そうして、ジェイソンはこの、あまり尊敬できない護衛対象を観察していたが、こいつが、不機嫌なままとんでもないことをやらかした。
基本、ジェイソンは彼に接触してはならない。
彼の身に危険がない限り、彼と接触してはいけないし、その行動を止めてもいけない。なぜなら、この学園生活自体が彼の器を見極めるためのものであり、いわば試験だからだ。
彼の行動がよほど国にとって危険でない限りは、彼の行動を止められない。それが、後にジェイソンを苦しめた。
かのバカ王子はこの後不機嫌なまま、お目付け役が揃っていないのをいいことに、こっそり隠し持っていた酒を飲んだ。そこはまだいい。この国では十八から許されている。せいぜいが温めてアルコールを飛ばしたビールやワインを飲むくらいしか学生はできないはずだが、彼が隠していた酒は、相当きついものだ。こういうところまで見栄っ張りなのだ。
きつい酒に酔ってそのまま不貞寝でもしてくれていればいいものを、彼は外に出た。すっかり陽は落ち、暗くなっているというのに。
ジェイソンは夜目が効く方ではあるが、護衛はしにくい。敷地内とはいえ、危険がないわけではない。
そんな中、あろうことかクソ王子は、夜道を歩く女子生徒に後ろから襲い掛かり、無理やり草むらに連れ込み、押し倒したのだ。ご丁寧にも、顔を見られないよう持っていたストールを彼女の顔に巻き付けてまで。
王子が知っているかはわからないが、あの少女は先ほど成績優秀者のリストにあったキャリー・ブラックだ。学園の生徒の情報を、当然ジェイソンは全て把握していた。しかも、彼女は護衛対象と同じ学年であり、成績優秀者でもある。あまり友達はいなく、唯一の友人は確か、同じく成績優秀者のギルバート・ケイン・ハーツだ。
慌てて止めようとしたが、もちろん、止めることは命令違反である。これは、あくまで個人への行動だ。国に関わるようなことではないことは明白だ。ジェイソンがすべきことは、護衛対象が行ったこの一連の行動を、ありのままに報告することだけだ。
だから彼は、その場に居合わせただけの、哀れな少女が苦悶の声を上げるのを、唇を噛みしめ、ただ黙って聞くしかなかったし、事を終えたゴミ王子が移動するのに合わせて、捨てられた彼女を置いて自分も動かなくてはいけなかった。
初めて体が震えるのを感じた。今まで死を覚悟する場面に遭遇したことは何度かあったが、これほどに体が震えたことはなかった。血の味がすると思ったら、唇を噛み過ぎて血が滲んでいた。
力を持たない者は簡単に踏みにじられる。そんなこと、かつてスラムで何度も見ていたはずだったのに。
心を強くしないとやっていけない。かつて養母が言った言葉の意味を、ジェイソンはようやく理解した。
打ち捨てられ、まるで死体の様に置かれた彼女はぴくりとも動かなかった。死んでいるのかとさえ思うほどだ。王子が自室に入った後、彼は他の場所へ向かった。本来、これも命令違反だ。数分ほど、彼は命令違反を犯した。ギルバートの部屋へ向かい、ノックをした。まだ、女子が入ることも許されている時間だ。彼は相手がキャリーと思ったらしい。
「キャリー?」
返事をせず、彼は護衛対象の下へ戻った。ささいなことだが、これでギルバートが何か嫌な予感を感じてくれないかという期待があった。その結果を確認することなく。
胸に暗い重りがずっしりとのしかかるのを感じながら、彼は思った。
自分はあの少女を見捨てた。自分の任務のためだけに、だ。
俺は、あの少女に借りがある。




