置き去りの朝
目が覚めた。
時計を見ると、朝の七時だった。
静かだった。
テレビの音もない。台所から聞こえてくるはずの物音もない。
私は布団から起き上がり、裸足のまま居間へ向かった。
誰もいない。
母の姿はなかった。
テーブルの上には、千円札が一枚と紙切れが置いてある。
「適当に食べて」
それだけだった。
小学生だった私は、その紙を見ても驚かなかった。
いつものことだったから。
冷蔵庫を開ける。
半分飲みかけの麦茶と、賞味期限の近い食パン。
私はパンを一枚取り出し、そのままかじった。
誰かに「朝ご飯を食べなさい」と言われた記憶はない。
ランドセルを背負い、一人で家を出る。
近所の子たちは母親と話しながら歩いていた。
「忘れ物ない?」 「今日は給食何かな?」
そんな声が聞こえてくる。
私は少しだけ羨ましかった。
でも、その気持ちをすぐに押し込めた。
羨ましいと思っても仕方がない。
私には最初からないものだったから。
学校では笑っていた。
友達もいた。
先生から見れば、普通の子どもだったと思う。
誰にも言わなかった。
放課後、家に帰っても誰もいないこと。
熱が出ても一人で寝ていること。
寂しいと思う夜があること。
言ったところで何も変わらない気がしていた。
だから私は我慢を覚えた。
甘えることより先に。
助けを求めることより先に。
大人になった今でも、その癖は残っている。
苦しくても「大丈夫」。
辛くても「平気」。
本当は平気じゃないのに。
ある日、スーパーで買い物をしていた。
小さな女の子が母親の手を握りながら歩いていた。
「ママ、見て!」
母親はしゃがみ込み、笑顔で話を聞いている。
その光景を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
私は立ち止まった。
ああ。
私はあれが欲しかったんだ。
高価なおもちゃじゃない。
豪華な食事でもない。
ただ、
「おはよう」
と言ってくれる人。
「おかえり」
と言ってくれる人。
話を聞いてくれる人。
それだけでよかったのだ。
買い物袋を握りしめながら、私は空を見上げた。
子どもの頃の私は、ずっと迎えを待っていた。
でも誰も来なかった。
だから今は、自分で自分を迎えに行く。
あの日、置き去りにされた小さな私の手を取って、
「もう一人じゃないよ」
そう言いながら。




