9-ラストチャンス
実家を離れ、一人暮らしになるとき、安い電動シェーバーを購入した。かなり響くこのシェーバーの音を聞くたびに、父親が髭を剃る姿がイメージされてしまう。自分が歳を取ったような感覚がするので、あまり好きではなかったが、仕方ないと思いながらも毎日使用している。
しかし、今日に限ってはこの安い電動シェーバーを使用しなかった。なぜなら今日はシェービングフォームとT字のカミソリでキレイに仕上げたからだ。
なぜそんなことをしたか?
それは今日、いつにも増して清潔感に気を付けなければならない日だからだ。
そう、今日は待ちに待った坪川さんとデートの予定なのだ。
今日はいつもより長く鏡に向かっている。髪型を気にしていることすら恥ずかしいと思っていた自分だったが、今日だけは数ミリ違いの前髪を気にする男の気持ちがよくわかる。
「よし!」
側から見れば変化がないのかもしれないが、自分なりに髪を整えて車に乗り込んだ。
珍しく車の消臭剤も交換した。準備は万端だ。
いろいろと準備をしたものの、集合場所には早めに到着した。
1人静かに待っていると、かなり緊張していることを自覚する。ちゃんと話せるだろうか?
楽しみと同時に不安が押し寄せる。
ふと、杉坂の言葉を思い出した。
「好意があればアクション起こすかも」「次遊ぶ時がチャンスかも」
たしかに坪川さんから好意があれば、今日は絶好のチャンスだろう。しかし、よく考えてみれば、彼女からのアクションは今日しかないのだ。つまり、今日がラストチャンスということだ。
さらに緊張が増してきた。そんな不安定な心情の中、彼女は現れた。
女の子からすればいい言葉ではないのかもしれないが、小柄な体型に丸顔のショートカットがとても良く似合っている。
遠くからでも彼女が来たと、すぐにわかったが、近くに来るまで気づかない振りをしてしまった。
「どうも。こんにちは。待った?」
「いや、僕もさっき来たとこですよ」
どうでもいい嘘が出た。緊張するとつまらない嘘が出るのは癖なのだろうか。
「じゃあ行きましょうか!」
「はい。お願いします!」
坪川さんを助手席に乗せ、車を出した。
助手席に坪川さんがいる。それだけで気持ちが高まる。嬉しさと緊張の混じり合う、不思議な感覚だ。
こんな感覚は高校以来かもしれない。
坪川さんが好きだと言っていたバンドの曲を流しながら車を走らせる。
会う前までは緊張で話もできないかと思っていたが、会ってしまえばなんとかなった。
ジムのことから話が始まり、次第にプライベートの話になる。
好きな食べ物の話、オススメのお店、学生時代の思い出。ジムでは聞いたことのない話で盛り上がることができた。
このままずっと車で走り続けていたいと思うような時間が流れる。
ただ、やはり彼女が俺のことをどう思っているのかが気になる。
ラストチャンス……。彼女と話せて嬉しいという気持ちが大きいことは確かなのだが、心の隅に押しやった不安な気持ちが牙をむいている。今にも再び押し寄せて来そうだ。
杉坂は坪川さんからのアクションと言っていた。しかし、奥手な俺でも、彼女の反応を待っているだけというのは出来なかった。
「そう言えば、……聞きました?」
「ん?あー。もしかして、なつみのこと?」
やはり話は聞いているようだ。
もし坪川さんが俺に少しでも気があるなら、あの2人の話を出せば何か反応するかと思ったのだ。
「うん。やっぱ聞いてたんだね」
「まあね。そんなに詳しく知らないけど、なつみがガンガンだったらしいよ」
「僕もそれくらいしか知らないんですよ。でも、急だったからびっくりしましたね」
「ハハッ、ホントだよね。私も聞いた時、びっくりし過ぎて笑っちゃった」
その後も話は盛り上がった。だが、僕が期待していた何かは得られなかった。
それからはただ楽しいだけの時間が流れた。
事前に調べていたお洒落なカフェでしばらく過ごすことにした。終始笑顔でいたが、ラストチャンスかと思うと、心から笑えているような気がしなかった。
良い印象を与えたくて、笑顔を心掛けていたが、何故かスタジオでインストラクターをしている時の自分を思い出した。
『不安な気持ちを抱えつつ、笑顔を意識する』そんな状況が似ていたのだろうか?それなら一種の職業病だな。
カフェでくつろいでいると、坪川さんからある提案を持ちかけられた。
「この後どうしようか?特に行くとこ無かったら、行こうかと思ってたとこあるんだー」
これは?2人きりで行きたいとこがあるということか?
会う直前まで感じていた緊張が再び襲ってきた。
さっきまで牙を剥いていた不安ではなく、期待から来る緊張だ。
杉坂のアドバイスでカフェ後の予定ももちろん考えていた。しかし、彼女の提案を潰してまで押し通すほどのものではない。
「そうなんだ!どこに行きたかったの?」
必死に冷静を装って質問した。
「実は今日ね、なつみも渡辺君と遊んでるらしいんだよね」
……膨らんでいた期待ごと不安に飲み込まれた。
悪い予感がする。
「そうなんだ」
心無い返事しかできなかった。
「なつみには言ってあったんだけど、よかったらこれから2人と合流しない?」
悪い予感は当たるものだ。
「そうなんだ……」
女心はわからないくせに、自分にとって都合の悪い事ばかり感が鋭い。大輔達遊んでいると言い出した時から、この展開は予想できてしまった。
了承すれば2人きりの時間が終わる。そんなことはわかっていても、自分の気持ちを押し通す勇気はなかった。
「そうだね。合流しようか」
その話をした後、坪川さんはすぐになつこちゃんと連絡を取っていた。
やけに嬉しそうにしている、と感じてしまった。
仲の良い友達と会うのだ。嬉しいに決まってる。
早々と会計を済ませ、約束のカフェへ向かう。
車中の雰囲気は先ほどと変わらない。変えないように意識した。
ただ一つ違ったとすれば、いつもよりアクセルの踏みが浅かったことくらいだ。
1時間もせずに店に着き、2人に会うことができた。
満面の笑みを見せるなつこちゃんの隣にはぎこちない笑顔の大輔が座っていた。
いつものようなテレパシーを送ったつもりは無いのだが、俺の気持ちを察したらしい。
この日は大輔となつこちゃんの馴れ初めについて、大変盛り上がった。