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それは魂が千切れるような叫びだった。
深夜の悲鳴。
寡黙なアスワド王子から出ているとは思えないほどの、慟哭。
「アスワド様………っ!!」
自分の無力さに泣きそうになりながら、私は寝台の王子の躰を揺さぶる。
早く。早く起こしてあげたい。どんな闇が彼の心を侵食しているのか。一秒でも早く、その悪夢から救い出してあげたい。
「………っ!!」
身体を大きく震わせて、アスワド王子が跳び起きた。ヒュッ。断ち切られた呼吸を再開する音。現状が認識出来てないらしく、怯えた瞳が何かを求めて空中を彷徨う。私は、汗でしとどに濡れた彼の身体を抱きしめた。
「アスワド様、大丈夫。大丈夫ですから……!」
「………ロ、ザヴィ………?」
もつれた言葉。
徐々に瞳の焦点が合ってくる。
強く、強く縋り付く腕。一回り以上も小さい私に、溺れた子供のようにしがみ付くアスワド王子。
「そうですロザヴィーです。大丈夫ですよ、アスワド様。夢です。唯の、夢ですから」
「………ゆ、め………」
虚ろに繰り返す言葉。滴る汗が、シーツに濃い染みをつける。
荒い呼吸が段々と落ち着いていく。
「姫様、大事ありませんか……?」
侍女が扉の向こうから抑えた声を掛けてきた。
アスワド王子を抱きしめたまま、私は閉じた扉の向こうに返事をした。大丈夫、何でもないと。
そう。こんな事は何でもない。ただ夢にうなされただけ。それだけの事だ。
王子の震える身体を抑えながら、私は自分にそう言い聞かせていた。
「………悪い。久々に悪夢を見た」
しばらくして、王子は低い声で謝ってきた。顔色はまだ悪いものの、震えは収まっている。
「――アスワド様、夜着を着替えましょう」
そう言って、彼の濡れた衣服を脱がせた。
無駄な肉の一切無い引き締まった躰を、優しく拭く。アスワド王子は大人しく身を任せていた。
「………姫まで起こしてしまったな」
私を気遣う王子。私は、かぶりを振った。
「恐ろしい夢だったのですか」
「………ああ。そうだな。―――昔の夢だ」
それは、グリ王女の人形と関係があるのだろうか。
そう考えたが、私には聞けなかった。
王子の瞳からは未だ癒えていない傷口が覗いているように思えたからだ。
私は、この人を追い詰めるような真似はしたくなかった。
口付けをして、シーツを替える。眠りに誘うと、王子は私の頭の下に腕を差し込んできた。共に抱き合いながら布団を被る。
「………貴女は、温かいな」
アスワド王子の言葉は柔らかい。
「お傍にいます」
腕枕されながら、私は繰り返し王子にキスを贈った。
貴方の心まで、抱きしめてあげられればいいのに。
夢の中でも貴方の傍に居られるのなら、何も惜しくはないのに。
「傍に………そう、傍にいてくれ、ロザヴィー。………愛している」
王子のその切ない囁きは、眠りにつく間際まで私の耳の中に木霊していた。
***
翌朝、私はフェセク王妃の部屋を訪ねていた。
先日のお茶会でのアスワド王子の暴挙を改めて詫びる為だ。
「もういいのですよ、ロザヴィー姫」
穏やかに微笑む王妃。今日は王女は手習いで別棟にいるという。
「グリースも、自分が何かアスワド様のお気に障る事をしてしまったのかも、と申しておりました。幸い、修理も簡単に済みましたし。お気になさらぬよう」
王妃の温情に感謝しつつ重ねてお詫びをし、グリ王女が好きだと言っていたタルトを手渡して、私は退室した。こんなことが贖罪になるとは思わないけれど。
王女の無邪気な笑顔を想う。
そして、自分の行動に誰より傷付いた様子のアスワド王子を。
ふう、とついた吐息は重かった。
「溜息をつくと、幸せが逃げてしまいますよ」
背後から聞こえてきた美声の持ち主は、ヴァイス王子だった。
相変わらず隙のない美しさ………でも、少し痩せられたような気がする。王子は、私の顔を見て眉を顰めた。
「憂い顔ですね。―――ロザヴィー姫、何かお悩みでも?」
「いえ、なんでもありませんわ。………ヴァイス様は、フェセク王妃様にご用事ですの?」
私は誤魔化した。流石に、ヴァイス王子に夫の事を相談するほど、厚顔にはなれない。
「ええ、たまには義母のご機嫌を窺いませんとね」
さすがヴァイス王子、そつが無い。私は彼の完璧なエスコートを思い出して、微笑した。
王子は私の巻き毛に手を伸ばしかけて途中で気付き、苦笑してその手を引っ込めた。
「人妻に触れては、アスワドに怒られますね」
微笑みが切ない。
「………姫、幸せですか?アスワドは………貴女を愛せているでしょうか」
「………はい」
私の返事は決まっていた。
アスワド王子は私を愛してくれている。それだけは間違いない。問題は………そこではない。
「姫。悩み事がおありなら、いつでも相談して下さいね。私に出来ることがあれば何でもしましょう。私は姫の………」
言い掛けて、ヴァイス王子は一瞬躊躇ったようだった。
「―――義兄、なのですから」
優しい人だ。
「有難う、ございます………」
私には、そう返すのが精一杯だった。それ以上を言葉にすれば、泣き出してしまいそうだったから。
これ以上気付かないふりをしていてはいけない。アスワド王子の事を、ちゃんと知ろう。例えそれが、アスワド王子の古傷を抉る行為であったとしても。
私は、そう決意した。




