➎
治療のための出血シーンがあります。苦手な方は、とばしてください。
アスワド王子を探して歩く。
騎士団の鍛錬場にも執務室にも居なかった。
いつもならば自室にいる私に一日何回も会いに来るというのに、今日に限ってまったく来ない。
どう、したのだろう。
こんな事で不安になるなんて馬鹿げてる。
そう、きっと、仕事中なのだ。私の知らない場所で。(それは、何?)
それとも、何か用事が出来て出掛けているのかも。(私に内緒で?)
今頃は私の部屋に来ていて………単にすれ違っていただけとか。(何度も往復したのに?)
強い焦燥感に突き動かされて、無意識に辿っていたのは、植樹のための場所を探して二人で歩いた場所だった。いつしか私はうら寂れた北の一角に来ていた。いけない。ここは、立ち入り禁止と言われた北の塔のある場所。
引き返そうとした私の目に、見慣れた黒衣が飛び込んできた。
アスワド王子だった。
思わず名を呼ぼうとして気付く。彼が出てきた建物が、件の北の塔だという事実に。
そして、額から血を流している愛しい黒の王子の姿に。
「ア………!」
叫びかけた私の口を押さえたのは、白皙の王子。ヴァイス王子だった。
「いけません、姫」
耳元に低く囁く声。
「今のアスワドに近付いてはいけない。あれは、手負いの獣」
背後から引き留められた私に気付かず、アスワド王子は立ち去って行く。遠見でも分かる。酷く悲しそうに。足を、引き摺るように。
――泣いて、いるのかもしれない。
「………どうして………っ!?」
漸く自由にされた口で、最初に発したのは涙声での疑問。何も出来なかったことが、酷く辛い。
泣いていた。傷つけられて、泣いていたのに。
「彼は私の夫です!どうして近付いてはいけないのですか?」
不意に既視感に襲われた。この言葉を、前にも言った事がある。
あの時、そうだ、アスワド王子本人に近付くなと言われた時だ。答えは確かこうだった。
「貴女が傷付くからですよ」
記憶の中のアスワド王子の答えと、今現在のヴァイス王子の答えがシンクロした。
そして、現実のヴァイス王子の言葉は続く。残酷に。
「あの塔の中には、アスワドの母親が幽閉されています。―――死んだ事にされている、気の狂った元王妃が」
***
泥のように疲れた身体で自室に戻ると、キャメルがドアの前に立っていた。
「姫様!良かった………」
安堵の息をつくキャメル。この子を振り切って出てしまったのだわ。アルハイムから私に附いて異国にまで来てくれた侍女に、心配を掛けてしまった。
「………アスワド様は?」
「先刻戻られて、今はお部屋に。なんだか酷く気落ちなされたご様子で。あの………お怪我をされている様なのですが、姫様以外誰も立ち入るなと強く言われて」
「分かったわ。私が看ます」
消毒と包帯を手に、扉を開けた。
室内の明かりは消されていた。
リビングには居ない。私は寝室に向かった。
アスワド王子は、顔を伏せて両手を膝で組み、ベッドに腰掛けていた。
額の血はそのまま茶色く乾いてこびり付いていた。手を伸ばして私が触れると、王子は弾かれた様にビクリと顔を上げた。私は宥める様に優しく話し掛けた。
「手当を……しましょう」
布を濡らして固まった血を拭き取っていく。付着した細かい破片を取り除く必要があった。傷痕に再び血が滲んでくるのを丁寧に消毒し、包帯を巻いた。
コップか何か、陶器を投げつけられて出来た傷のようだった。
「………訊かないのだな、何も」
王子の声は、乾いて、ひび割れていた。
瞳は、夜の深い沼の色をしていた。
「―――見てたのか」
私は肯く。
「アスワド様をお探ししていて………北の塔から出てくる所を偶然」
「そうか……」
ハ、と彼は自嘲の声を上げた。
「気配を感じたが………やはり気の所為では無かったか」
アスワド王子は立ち上がり、私をそっと抱き寄せた。壊れ物を抱くように優しく。
「貴女には知られたくなかったが………仕方無い」
「アスワド様……」
私は両手を王子の背中に回した。
彼は、話してくれようとしている。
彼の言葉を、その過去を、全部そのまま受け入れよう。そう思った。
無言が続く。
「?」
不自然なその長さを怪訝に思っていると、アスワド王子の指が、そろりと動いた。私の肩に付いた何かを恐る恐るつまんで持ち上げた。
王子の指にあるのは、一本の白金の髪だった。
「これは………ヴァイス………の?」
そうか。あの時。北の塔で引き留められた時に付いたのだろう。
弁明しようと顔を上げて王子を見た私は、予想外に強張った彼の貌に、言葉をなくした。
「ヴァイスと逢っていたのか………俺の知らない所で………?」
「いえ、これは」
「ヴァイスに触れられたのか。あいつを………受け入れたのか。今俺にしているように?」
「っアスワド様、聴いて下さい!」
「貴女も―――貴女も、俺を捨てるのか」
その瞬間王子の眼に光った絶望の色。それが、鋭利な刃物に刺された様に、私の心に突き刺さった。予期せぬ痛みに私は反射的に怯む。
「違う――違います王子、私は」
一拍遅れた私の言葉は、もはや彼には届かなかった。瀕死の獣のように王子が叫ぶ。
「駄目だ!」
アスワド王子は私をベッドに押し倒した。両手で私の手首を縫いつけ、馬乗りになって身動きを封じる。
「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だだめだ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だだめだ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だだめだだめだ駄目だだめだ駄目だ駄目だだめだ」
かつて愛しんだ黒曜石の瞳には狂気が宿っている。
いえ―――正直に言おう。今でも変わらず愛しい。そして同じくらい怖いとも………思っていた。
愛した人が見知らぬ貌をしている。何がいけなかったのか。
打ちのめされた私には、悲鳴を上げることすら叶わない。
「貴女は俺のものだ。誰にも渡さない!」
寝台に押さえ付けたまま悲痛な声でそう叫ぶと、アスワド王子は性急に私の唇を奪った。
それは、思いやりも愛情も無い、ただ喰らい尽くそうとするだけのキスだった。




