第二日目(1) 失踪、そして出現
「参ったなあ」
僕は登校して下駄箱に靴を収めながら、つい呟いた。
何が参ったのかというと、昨日のことである。
結局昨日、津名さんと生死を賭けた大一番をする羽目になってしまった。冗談に耐性が少ないのか、あの人は勘違いしたらブレーキが利かないのだ。
最終的に争いが続いたまま、津名さんの家まで行ったのだった。そこでやっと津名さんの錯乱は治ったのだけど、今度は津名さんの母親に捕まりかけた。
津名さんの母親は津名さんの外見と裏腹に、とても日本人らしい奥ゆかしさを持つ女性だった。私服が着物の時点で、それは窺えるだろう。まず着物が私服の人なんて、叔母さんしか見たこと無かったけどね!
しかし奥ゆかしさの反面、押しの強い人だったな。「せっかくですからゆっくりしていってください」と引き止められてしまい、断るのに苦労したものだ。最後は何とか、夕食の買い物を口実に逃げ出せた。
口実とは言ったものの、別に嘘をついたわけじゃない。花園高校の寮はワンルームのアパートのようなもので、食事に関しては希望者が代金を払って食堂で食べている。食事代は安い方だが、料理のできる僕ならさらに安く一食を済ませることは可能なので、自炊しているのだ。
昨日はちょうど冷蔵庫内の食料が尽き果ててしまっていて、一昨日の時点で若干焦っていた。普段の僕ならこんなことにはならない。いつもなら日曜日に食料をまとめ買いしておき、それを予定通りの献立で作るのだ。
しかし一昨日に限って、そうはならなかった。深刻な事態が発生しやがったのだ。
というかぶっちゃけ、梗さんの仕業だったんだよな。
一昨日、つまり日曜日に梗さんが何故か僕の部屋を訪ねてきた。
「実は冷蔵庫の中身がスッカラカンでさー。頼むよ恋華くん何か作って!」
というのが彼女の第一声だった。そして勝手に上がりこみ、その日に僕が計画性を持って調達した食材の中身を平らげやがったのだった。
訊いた話によると、土曜日に七不思議の調査の際、宮崎先生に聞き込みを行ったのだとか。家庭科室絡みの七不思議があったかどうかは知らないが、宮崎先生がその聞き込みのときに僕の事を漏らしたようだ。それを訊いた梗さんが駆け込んできたという流れらしい。
そんなわけで僕の冷蔵庫内は一昨日の時点でスッカラカンであり、昨日は食材を調達しないと断食決定だった。そこで僕はそれを口実に、津名さんの母親の誘いを断ったのだ。
はい、回想終了。で、結局何が参ったのかというと――。
「今週は食費が無いぞ」
そりゃそうだ。今週の食費は食材に変わり、日曜日に梗さんのお腹へと消えている。昨日はとりあえず適当な惣菜を買ってみたものの、これってピンチだった。
お金が足りないわけではない。四月に貰った仕送りの余りはあるし、今月の食費を全体的に削れば捻出も可能だ。でも僕が一番恐れているのは、再び梗さんが襲撃してくることだ。
対策を講じるべきか。いろいろと、あの人には命を脅かされている気がする。もしかしたら、津名さんより危険かもしれない。
それは放課後にスーパーで考えるとしよう。僕は気持ちを切り替えて教室へ向かった。何で僕が貧乏な主婦みたいな悩みを抱えなくてはならないんだ。
教室へ行くと、不思議なことに誰もいなかった。ドッキリ企画にでも嵌められたのかと思案してしまったが、すぐにそれは無いと頭が否定した。
じゃあどうして教室に誰もいないのかというと、単に僕が早く登校してしまっただけの話だった。朝食も自分で作るから、いつもならもう少し登校が遅いはずだけど、前述の理由で朝食が作れなかったので今日は登校が早くなってしまったのだろう。
思えば、昨日も早めに登校していた。まったく、梗さんには生活ペースを乱されてばかりだ。まあ、人と関わるということは少なからず自身のペースを乱されるということだよな。
「あ、おはよう優さん」
それと、教室には誰もいないと思っていたけど誰かいた。学級長の優さんが、僕より先に来ていた。
「……おはよう」
しかし、優さんの様子が少し変だった。上の空というか、茫然自失というか。正常な状態でないことは明らかだった。
僕は、そんな状態の要因を察した。六年前も、優さんのような状態になってしまった人はたくさんいた。
「誰が失踪した?」
「え、何で?」
優さんは、まるで心の中を見透かされたかのごとき表情をしていた。
「いや、何となく。もしかしたら、誰か失踪したんじゃないかって」
昨日は、月曜日だったから。月曜日が終わって憂鬱になっている人の原因なんて、僕にはひとつしか思いつかない。
「……実は、有加ちゃんが」
重い口をやっと開いて、優さんは喋った。目には涙が浮かんでいて、少しでも何かの力が加わればこぼれてしまいそうだった。
「有加ちゃんが、昨日から家に帰ってないらしくて。たぶん、神隠しなんだと思う」
「……そう」
青田有加が失踪した。その事実は、思いのほか僕の心を抉った。神隠しで誰かが消えることなんて、六年前にもう慣れたはずなのに。それなのに、少しショックだった。
まさか、知っている人がこんなに早く失踪するとは。
「警察も、四月の事件があるから警戒して動いてるけど……。見つかるかな、有加ちゃん」
「僕からは、何とも言いがたいな」
「絶対に見つからない」と、僕は傲慢に自信満々に言うことができる。でもここでそれを口にするほど、僕は冷酷な人間じゃないつもりだ。
優さんは携帯電話を取り出しながら、話を続ける。
「それで、有加ちゃんの失踪を千穂ちゃんに言おうかどうか、悩んでて。ほら、千穂ちゃん、臆病だから」
「…………」
今のあいつが、友達の失踪を聞いたらどんな風になってしまうだろうか。僕とは違って、千穂はまだ知っている人が失踪することに慣れていない。さすがに今回ばかりは、精神的にもたないだろう。
「伝えた方が、良いと思うよ」
ここで優さんが伝えなくても、どのみち千穂は有加さんの失踪を知るのだ。だったら今、優さんの言葉で伝えた方が、千穂もショックが少ないはずだ。
「どうせ伝わるだろうし、優さんの口から言ってあげた方が良いんじゃない?」
「そう、だよね。分かった。電話してくるね」
そう言って、優さんは教室を出てった。えーっと、電話って当然ケータイだよね? なんで教室を出る必要があったんだろう。
ともかく、正真正銘、教室には誰もいなくなってしまった。誰もいない教室にひとりきりとは、中々体験できないシチュエーションだ。
『いくじなし』
「…………なっ!」
体験しがたい状況に僕が満足していると、突然声が聞こえた。
地下倉庫でも聞こえて、同好会室でも聞こえた声が。
今まで以上に、はっきりと聞こえた。
『くすくす』
教室には、間違いなく僕ひとりだ。誰もいない。つまりこの声は、誰のものでもない。言うまでも無く、僕の声でもない。
「どこに……いるんだ」
『こっちこっち』
聞きなれた声だった。六年ぶりに聞いた声だった。その声は、まるで手招きをするように囁く。
僕はぐるりと教室を見渡し、そして見つけた。
見つけてしまった。
教卓の上に、透き通るような少女が座っているのを。
「う、うわあああ!」
思わず叫んでしまった。体から汗が噴き出して、足が震え始める。
『おどろかないでよ』
透き通るように白い肌なのではなく、透き通るように高い声なのではなく、また透き通るように半透明だったわけじゃない。
杉下無垢の、六年前の姿がそのまま姿を現していた。ただ、透き通るような存在感で、しかしはっきりと明快に、そこにいた。
目を閉じた。耳を塞いだ。無垢の姿は見えなくなったが、声は変わらず頭に響く。テレパシーでも使っているかのように、僕の頭に直接響いてくる。
「な、何で……」
『また始まっちゃったね、神隠し』
無垢は、今まで以上に具体的な言葉で、僕に語りかけた。本当に空耳なのか疑わしくなってくる。
『ゆかちゃんだっけ? 消えちゃったね。次は誰が消えるのかな。ゆうちゃん? つなちゃん? きょうちゃん? それとも、ちほちゃん?』
「やめろ……」
言うな。それ以上、何も喋るな。
『本当は全部、知ってるくせに。神隠しがどうして起きるのか、知ってるくせに。はなくんはいくじなしなんだから』
「…………僕が、知っている?」
何を知っているというのだ。僕が六年前の神隠しの、何を。
『忘れちゃったの? 違うよね。忘れてるふりしてるだけだよね。早く思い出してよ』
その言葉を最後に、無垢の声が聞こえなくなった。
何分が経ったのか分からない。けっこう時間が過ぎたと思う。僕はやっと、目をゆっくりと開けた。
教卓の上には、誰もいなかった。




