避難訓練
午後の空に、非常ベルが鳴り響く。
音が鳴っているのは野球場だ。
この野球場、今日は試合の予定がない。
けれども、地元チームの選手たちが練習していた。
スタンドにはお客さんたちもいる。その数はちょうど五〇〇人だ。
非常ベルが止まると、
「ホットドッグのお店から出火しました」
野球場にアナウンスが流れる。
と同時に、野球場の一か所から、白い煙が上がった。
「くり返します。ホットドッグのお店から出火しました。球場スタッフのみなさんは、お客さま方の避難誘導を開始してください」
それを聞いて、球場スタッフたちが動く。
「こちらのゲートから、外への避難をお願いします。あわてないで、さわがないで、おちついて避難してください」
まじめな顔で、避難誘導を開始した。
一方で、お客さんたちはにやにやしている。
なぜなら、最初から知っているのだ。これが本物の火事ではなく、避難訓練だと。
とはいえ、プロのカメラマンがこの様子を撮影していることだし、球場スタッフの指示にしたがう。
「あわてないでー! さわがないでー!」
球場スタッフの一人が声を張り上げている。
それに対して、お客さんの一人が、
「むちゃ言うなー♪」
他のお客さんたちから、どっと笑い声が起こる。
というのも、「あわてないでー! さわがないでー!」と声を張り上げているのは、地元チームのOB選手だ。
現役時代はチームの危機をたびたび救い、昨年の引退試合では球場の外にまでファンがあふれた。
そんな名選手が、自分たちのすぐ近くにいるのだ。
ファンにとっては、それこそ「むちゃ言うなー♪」である。あわてたいし、さわぎたい♪
他にも、球場スタッフの中にOB選手がちらほら混ざっている。
けれども、今日は避難訓練だ。OB選手たちに握手かサインをねだりたいのを、ぐっと我慢する。
グラウンドでは、現役の選手たちが練習を中断していた。そっちでも避難を開始するらしい。
十秒ほどして、最初の煙から少し離れた場所で、別の煙が上がった。
「ポップコーンのお店に燃え移りました」
アナウンスが流れる。
さらに十秒ほどして、
「現在、消防車が野球場に向かっています」
この避難訓練、消防署の全面協力だ。
一か月前にさかのぼる。
市長は悩んでいた。
最近、この街で火事が増えている。
その被害を減らすために、市民の「火事に対する意識」を高めたい。
そこで、野球場に協力を頼むことにした。
避難訓練をしてもらって、その様子を撮影する。
そして、市のホームページで、「野球場の避難訓練」、その映像を公開するのだ。避難訓練が大切なことを、市民たちに伝えたい。
うまくいくか不安はあるものの、何もやらないよりかはいいだろう。
そう思って、野球場に頼んだのだ。
市長からの要請を受けて、野球場のスタッフたちは考える。
普段から年に二回、避難訓練を行っていたけれど、スタッフだけで行っていた。
でも、それだと不十分だ。
本当に火事が起きた時のことを考えると、お客さんたちにも参加してもらった方がいい。本番に近い訓練ができる。
そういうわけで、地元チームのファンクラブに呼びかけた。「野球場での避難訓練」に参加しませんか?
こうして五〇〇人の「参加者たち」を集めたのだ。
さて、時間を元に戻そう。
野球場での避難訓練、その真っ最中だ。
球場内にいたお客さんたちが、続々と外に出てくる。
駐車場にはすでに、救護用のテントが完成していた。
「ケガをした方、体調が優れない方は、こちらへどうぞ」
球場スタッフが呼びかけている。
「そうでない方は、こっちに集まってください」
別のスタッフが、駐車場の端へと誘導する。
そこがゴールだ。今回の訓練において、「避難完了」である。
一息つくお客さんたち。
ところが、ほとんど全員の避難が完了した、そんなタイミングでアナウンスが流れる。
「避難場所のすぐ近くで火災が発生しました」
それと同時に、少し離れた場所にあったドラム缶が、いきなり燃え出した。
驚くお客さんたちだったが、こちらに消防車が向かってくる。
良いタイミングだ。
消防車が停止すると、隊員たちが飛び出してきた。消火器を持って、炎上中のドラム缶へと走る。
消防隊員の一人がさけんだ。
「火を消します!」
消火作業が始まった。
ついでに「消火器の使い方」をわかりやすく説明している。これも「今回の訓練」の一部だ。
至近距離での消火作業を、お客さんたちは見物した。
火が消えると、今度は選手たちが次々とやって来る。練習中だったこともあって、グローブやバットを持っていた。
球場スタッフたちが選手の名前を確認していく。
あと少しで全員というところで、野球場の中から一人のスタッフが飛び出してきた。
消防隊員たちに身ぶり手ぶりで伝える。
まだ中に誰か残っているらしい。
消防隊員たちが野球場の中へ突入した。
そのあとも選手たちが野球場から出てくる。
お客さんたちの一部が首をかしげた。
というのも、選手たちはこれで全員だ。逃げ遅れた者はいない。
しかし、消防隊員たちがまだ戻ってきていない。
もう野球場の中には、誰もいないと思うけれど。
ひょっとして、行き違いになっちゃったとか?
そんなことを考えるお客さんたち。
三分ほどして、消防隊員たちが戻ってきた。
その一人が猫を抱いている。
お客さんたちの前に着くと、
「避難完了!」
猫を抱いているのとは別の隊員が、大声で告げる。
こうして本日の訓練は終了だ。
参加した五〇〇人には、『野球場避難訓練・参加証明書』が、選手たちから手渡された。
で、一週間後。
野球場での避難訓練、その映像は見やすく編集されて、市のホームページで公開された。
すると、なかなかの反響だ。
とはいえ、見ているのは野球ファンが多いようだ。
なので、市長は次の手を考えていた。
「今度はサッカー場に頼んでみようかな」
次回、敵に敗れた王さまのお話?




