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part.1



 私には前世の記憶がある。

 それを持って生まれるのは普通のことだ。ただ一般的に、子供時代の終わりには記憶は薄れてしまうため、大袈裟には捉えられない。


 ただ王族となると話は別だ。

 彼らの前世は過去の偉人、賢人であるべきで、間違っても得体の知れぬ名無しの者ではいけないとされていた。


 アルチェトリ王族の子供は伝統的に、ステラマリス教会から派遣された星見の術師に数日間の監察を受ける。その数日間で術師たちは母親が見栄で吹き込んだ嘘を見破り、子供たちの前世が誰であるかを特定した。その者がどのような身分で、どのような死に方をしたのかを調べ上げ、占星術書の重要な情報欄に書き加えた。


 紺地に金の刺繍の入った奇妙なローブを着ていた者たちと過ごしたその数日はよく思い出せる。彼らは子供に慣れていなかったが、優しかった。だがどんな質問にも私は答えなかった。答えられなかったのだ。私の前世の記憶はあまりにも強く、子供時代の私は自分自身とその人を切り離すことができなかった。自分の中にもう一人いたというのは正確ではない。私はあの人で、あの人は私だった。そのことが子供ながらにわかっていたし、これは口外すべきではないことだと理解していたのだ。


「マリア殿下、前世について語るのは決して恥ずかしいことではないのです」

「恥ずかしいから話さないのではありません」


 細身で長身の、なよっとした雰囲気の若い男が今日の私の担当であるらしかった。暖炉の前に彼と私は向かい合って座っていた。私はクマのぬいぐるみを抱えて膝の上に置いていた。彼は他の術師のように、困ったり嘆いたりするそぶりは見せなかった。ただずっと微笑んで、飄々と卓上の菓子をつまんでいる。


「わからないということも、恥ずかしいことではないのです」

「わからないのとも違うのです」


 そうですか、と言って、彼はローブから小さな飴を取り出した。包み紙にはステラマリスの星の紋章があった。それを卓に置くと彼は、


「あなたは強く気高い星のもとに生まれたのです。マリア殿下。みずから燃え盛り、他の星を照らす星です」

「太陽のほかにそのような星があるのですか?」

「おっと、これは教会の外で話してはいけないことでした。忘れてくださいますね?」


 彼は笑った。


「その飴はステラマリスの修道士たちが日々の労働として作っている飴です、おいしいですよ」

「これが私となにか関係があるのですか」

「この紋章をどうか忘れないでほしいのです、殿下。あなたの星はみずからを燃やす。その熱で自分自身を傷つけてしまうこともあるでしょう。そのときにこの紋章がきっと役に立ちます」

「……」

「殿下の前世は殿下と溶け合っておられる」


 私はぎくりとした。子供だったから顔にも出ていただろう。

 彼はマロングラッセの入ったケーキを頬張り、私を見ないふりをしていた。


「燃え盛る星の熱がそうさせたか……。まあなんとでも言えますな」

「そのような者は、珍しいのですか」

「生涯を前世の者とともに生きる人間はまずいません」


 私は下を向いた。


「殿下の一生に、その者はきっと大きな影響を及ぼすでしょう。ですから」


 術師は私の顔を覗き込んだ。敵意も、探る様子もなかった。といって案じる様子でもなく、ただ微笑んでいた。


「その者の名前がわかったら、かならず私たちのもとに来てください」


 かならずですよ、と言いふくめ、彼は私の手を自分の手で包んで飴を握らせた。

 数日後、星見の術師たちは帰っていった。ステラマリス教会は王権の及ばぬ強い組織であるから、私の前世が判明しなかったといって首を刎ねられるようなことはなかったと思う。

 私はその飴をすぐに捨てた。王族は毒味係が事前に試したもの以外を口にしてはいけない。ただ包み紙だけは丁寧に洗って乾かし、大事なものを入れる箱にしまっておいた。





『そう、名前だけがわからない』


 あの頃も今も、私は前世で誰だったかがわからない。わからないまま成長し、異国に嫁ぐことになった。ステラマリスの教会に出向くことはついぞなく、あの術師と顔を合わせることもなかった。

 歳を重ねるにつれ、私は私になっていった。私の肉体を動かし、思考しているのは私だと理解できるようになっていった。


『ただ、ここにいるのだ……。いつでも』


 胸の真中に、その人はいる。それをずっと感じていた。

 そのことは誰にも打ち明けなかった。もともと自分の前世の話はごく近い間柄でのみ交わされるものだが、私は家族にも、乳母にも、親しいものたちにも話さなかった。


『ジョン王子の前世は、誰だったのだろう』


 私はつい先刻、自分の手で命を奪った婚約者のことを考えていた。

 いや、元婚約者というべきだ。ことの発端は彼だった。


 私がパーティに現れたとき、きっと誰からも凛々しく気品よく見えていただろう。そうあれかしという態度をとり、所作も言葉も皆が望むものを差し出した。しかし実を言えば、私の胸の内は不安がうずまき、ドレスに隠れた脚は震えていた。そして、今思えばおかしなことに、これから初めて顔を合わせる婚約者にときめいてすらいたのだ。

 あの宣告には心臓を氷の杭で打たれた気がした。取り乱すまい、決して泣くまいと最初に思った。お父様に習った通りの長い呼吸を静かに繰り返し、やっとの思いで相手を見据えた。目の前にいるのは私の理想の伴侶などではなく、ただの愚か者だった。

 彼に憐れみを見出そうとしたそのとき、先ほどはあんなに冷たく動かなかった心臓がどくんと跳ねた。


『迷うな』


 もう一度心臓が跳ねた。もはや胸は燃えるような熱さで鐘を鳴らしていた。怒りを持て、とその人は言っていた。みずからの誉れを傷つけるものを決して許すな、と叫んでいた。その一方、私は計算をしていた。もしこの出来事が我がアルチェトリ王国に伝わったら、一体どうなるだろうか?

 最悪の場合を想定する。これをきっかけにグリニッジとアルチェトリは戦争を始める。そうなる可能性は非常に高かった。それほどまでにこれは前代未聞の醜聞であり、外交の失敗だった。王子の侮辱は我が身のみならず国にまで及んでいたことを、ここにいる私の従者全員が知っている。彼らの怒りは決して収まらない。アルチェトリは身内が傷つけられたことを絶対に忘れない。いくさが始まれば被害はどれほどになるだろう? 民が、子供が、どれだけ死ぬだろう?


『王子が死に、そのあと私が死ねば、ふたりで済む』


 あと王子のそばにいる女……何者かは知らないが、あれも無事では済まないだろう。こじれて戦火の火種になるよりは、ここですべてを絶ってやる。

 短絡的すぎる、とも思った。外交努力で着地点も見つかると。それでも、もう自分を止めることができなかった。私は踊り子に駆け寄り、剣を奪った。実剣でなくともよかった。斬れねば殴り殺すまで。柄を握ると、驚くほどそれは手に馴染んだ。この極東の剣を、私は確かに握っていたことがある。心臓が歓喜の鐘を鳴らしている。つま先までが明るい炎のように軽く感じた。私は王子に踊りかかった。





 石壁にもたれかかる。城内の地下にある簡素な牢獄だった。メイドや使用人の折檻などに使われるものだろう。もう夜も更けているはずだ。肌着のみでいるのは寒かったが、血のついたままのドレスを着ているよりはましだ。

 目を閉じて、これからを考える。牢の外には私の従者たちがいる。グリニッジの警備隊と衝突しているようだ。皆よく仕えてくれる働き者たちだった。私の行いのせいで何人かは死ぬことになるかもしれない。処刑されるよりもつらい目に遭うことだってあるだろう。私は自分の死は怖く感じなかった。私は自分が冷静な判断をして王子を斬り捨てたと今の今まで思っていた。ただ、あの者たちの行く末まで考えることはしなかった。耐えられない思いが込み上げる。

 投獄されてからはじめて涙が出そうになったとき、扉の向こうの騒音がぴたりと止んだ。

 重い鍵音がして顔を上げると、その場にいるすべての者が膝を突き、首を垂れていた。たったひとりを除いて。


「グリニッジ王国王妃殿下、ソフィア様である!」

「下がりなさい」


 ソフィア様━━私の義母になるはずだった王妃様━━は従者にそう告げた。私はすぐに立ち上がる。お姿の輪郭ははっきりしているのだが、牢の外の灯りが強いせいでお顔が全く見えない。


「しかし」

「聞こえませんでしたか、下がりなさい。この者のみに伝えるべきことがあります」


 従者は慌てて扉の後ろに回ると、鍵はかけずに軽く閉めた。牢獄が元の明るさに戻ると、やっとお姿が目に入った。

 その美しさに私は息を呑んだ。私のお母様も美しいが、この方はまったく別の、完全な美を持っている。黒い簡素なドレスに、黒豹の毛皮をマントにしていた。漆黒の髪が豊かに輝いて、腰まで伸びている。瞳は明るい橙色で、何一つ見逃さない強い光を放っていた。

 私はこの方によく似た花を、庭園で見たことがある……。あれは鬼百合というのだった。

 呆気に取られたままの私の前に、王妃は一歩進んでみせた。


「騒々しい夜ですね」


 私は誰に対しても、後ずさりをするような振る舞いは習ってこなかった。常に堂々と、アルチェトリア王家の者たれと。でもこの時ばかりは、後ろの壁まで背中を寄せて震えていたくなった。なんという威圧感だろう。何か言おうとしてみたが、口を開くことさえできなかった。


「プリンセス・マリア……、今はメアリーと呼びましょう。私は冗長が嫌いです」


 王妃様は見張り番の座る椅子に腰掛けて、私の眼をじっと見据えた。


「手短に、結論から話しましょう」


 私は生まれてはじめて、ここから逃げ出したいと思った。死の宣告は怖くない。でもこの方の瞳に射すくめられたまま動けないでいるのは、今まで経験のしたことのない緊張を強いられた。


「私はあなたを助けるためにここに来ました」


 脚に力が入らない。私は王妃様を見つめたまま膝を折り、その場に倒れ込んだ。息ができない。お父様に教わった呼吸。緊張したり、パニックになりそうな時は、ゆっくり吐いて、短く、吸えない、息が、息ができない。

 視界が霞み、暗くなってゆく。王妃が誰かを呼んでいる。行かないで、話の、続きを━━


 



続く

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