第6話「……なんですと?」
「……?」
ジュスティーヌさんが、生まれる前から……?
はて……
そんなに遡る必要があるんだろうか。
そこは、ジュスティーヌさんが生まれてから、の間違いでは?
……いやいや、何も知らない人間が口を挟んじゃいけない。
いけない、けど……うーん。
何かが引っかかる。
これは……何か「すれ違い」が起こっているのかもしれない。
わたしが、アッチェレさんが当たり前に話している話の内容を……
その本質が何かを、わかっていないんじゃないだろうか。
「……」
アッチェレさんはというと、何て答えたらいいのかわからないため、複雑な表情をしているであろうわたしに構わず、グラスを置いて立ち上がった。
「ここからは、とんでもなく長い話になるよ。だから、やっぱり何か飲みながらのほうが良いだろうね。シーナサンには、コーヒーでも淹れてあげよう」
とんでもなく長い話……
え、そんなに?
まだ首を傾げているわたしに、アッチェレさんは弾むような軽やかさで、かなり重たい内容の言葉を、いとも簡単に口にした。
「だってジュスティーヌは、まだ赤ちゃんだった頃にアイツに一度会っているからね」
「……え」
「だから、それ以前から教えてほしいっていうなら……そりゃあ、とんでもなく長い話にもなるさ」
「……は」
わたしは、喉から出かかったいつもの「はあ!?」を、危ういところで腹筋の奥底へと押し込めた。
……なんですと?
赤ちゃんだった頃のジュスティーヌさんと、出会っていた?
まだ若かりし……というか、当時は少年だったであろう船長が?
そ、そんな話……
そんな話……!
「あれ、アイツから聞いてないのかい?」
目を見開くわたしに、今度はアッチェレさんが首を傾げていた。
わたしは、驚きのあまり声も出せずにいた。
仕方なく、
聞いてません、聞いてません。
と言うように、黙ったまま首を横に振ると、アッチェレさんは心底呆れたと言うように顔をしかめて、
「アイツ……自分が恥ずかしいことは何も話さないつもりだね、まったく。そんなことばっかやってたら、シーナサンが書きたいことなんて何も書けないじゃないか。ったく、馬鹿だねぇ!」
アッチェレさんは怒りに満ちた呟きを、間違って口に入れてしまった飴玉の包み紙みたいに吐き捨てると、怒りが収まらないとばかりに大股でバーカウンターの後ろへと下がっていった。
しばらくして聞こえてきたコーヒー豆を挽く音の中で、わたしはひとり腕を組んで考え込んでいた。
まさか……
船長が赤ちゃんだった頃のジュスティーヌさんに会っていたなんて。
でも、それって……
どういうことだろう?
いったい、いつのことなのか。
どこで出会っているのか……
そして、それが本当なら……
どうして船長は、そんな大事なことを教えてくれなかったのだろう。
『アイツ……自分が恥ずかしいことは何も話さないつもりだね』
「……」
先ほどのアッチェレさんの言葉を思い出しながら、わたしはカバンの中から愛用の筆記用具たちとメモ帳を取り出しながら、ひとり黙々と思案を巡らせた。
そういえば……
この前のエフクレフさんから聞かせてもらった、船長の人として終わっている言動の話といい、先ほどのアッチェレさんの言葉といい……
もしかして、船長には自分が恥ずかしかったことを話さない悪癖があるのかもしれない。
……悪癖は言い過ぎかもしれないけれど。
でもなぁ……
格好つけてないでちゃんと話してくれないと、わたしみたいな書き手は困るんだよなぁ。
まあ……それは後で船長に直接言えばいいか。
ジュスティーヌさんが赤ちゃんだった頃だから、それは今から21年前の出来事で……
船長は、当時13歳の少年だったはずだ。
13歳……反抗期……?
船長は、お母様を早くに亡くされているという話だったから、お父様への反抗期かな。
何か、穴があったら入りたくなるほどの「しくじり」でもやらかしたか、少年時代の船長……
「……」
うーん、これ以上考えても、何も思いつきそうにない。
まあ、それもそうか。
何を隠そう、わたしには反抗期というものがなかったので、そういう思春期の感情といったものが、いくら考えてもよくわからないのである。
……決して威張って言うことではないけれど。
ああ、早くアッチェレさんに答えを教えてもらいたい。
そう思っていた矢先、バーカウンターに淹れたてのコーヒーの香りが漂いだし、わたしの意識はバーカウンターの高い椅子へと戻された。
目の前に、美しい漆黒の飲み物が差し出される。
「砂糖とミルクもあるから、必要なら遠慮なく言っておくれ」
そう言いながら、アッチェレさんがバーカウンターの客席側へと戻ってきた。
わたしは「ブラックも好きですから、お構いなく~」とお礼を言ってから、コーヒーを一口すすった。
……うん、ブラックならではの苦みと酸味が喉に心地良い。
コーヒーの種類には疎いわたしだけれど、これはいつも飲んでいるエフクレフさんの淹れたものとは違う種類のコーヒーらしい。
いや……エフクレフさんのコーヒーは真っ黒くてブラックじゃ飲めないから、味の違いがわからないだけかもしれないけれど。
「さて……それじゃあ、長い話でも始めようかね」
アッチェレさんは、わたしがテーブルに広げた筆記用具やメモ帳を一瞥すると、2杯目のウイスキーを傾けた。
窓の外から差し込む夕日に照らされて、テーブルと丸椅子たちが長い影を伸ばしている。
涼しい風の中から、どこかのお家の夕食の匂いだろうか、香ばしいお肉の焼ける匂いが漂ってきていた。
「うーん、途中で夕飯休憩を挟むとして、夜明け前に全部終わればいいけどねぇ……シーナサン、長くなりそうだなと思ったら、割愛するからいつでも声をかけておくれよ」
アッチェレさんの申し訳なさそうな口調に、わたしは慌てて口を開いた。
「え、そんな! 割愛なんてしないでください! もったいないです! せっかくの機会なのに……!」
「でもねえ……長いんだよ? 本当に」
「構いません! わたし、いつまででも聞いていたいですから!」
この機会、手放してなるものか。
せっかく何でも話してもらえるんだから、ここで今までの疑問を解決させなきゃ、絶対後悔する。
というか、いざ物語を書こうとしたときのわたしに怒られる!
「……いつまでも、ねえ。それはちょっと、あたしが疲れるね、ははっ」
必死に懇願していたわたしは、そんなアッチェレさんの呆れたような笑い声に、あっと口元を押さえた。
わたしってば、自分のことしか考えてなかった!
「あ、ごめんなさい! アッチェレさんがお疲れにならない程度の長さで構いませんから……」
「え? ああ、ごめんごめん、冗談だよ。実はあたしも、だれかに話を聞いてもらいたくてウズウズしていたくらいなんだ。今まで、だれにも聞いてもらったことのない話だから」
アッチェレさんは謝るわたしに軽く微笑んで、まるでお喋りが楽しくてたまらない少女のように瞳をキラリと輝かせた。
ああ……
きっとこの人の「いつもの表情」は、怒っているような顔じゃなくて、こっちの明るい笑顔なんだろうなぁ。
そう思わせるほど、アッチェレさんの瞳は美しく澄んでみえた。
「ところでシーナサン……徹夜とか夜更かしは平気かい?」
「はい! ……むしろ、早起きより得意です」
「ははは、早起きよりねぇ。あたしと一緒だ」
早起きより夜更かしが得意なんて、何の自慢にもならないわたしの返事に、アッチェレさんは楽しそうに笑ってくれた。
ふと視線を向けた東の空は、ほんのり薄青に染まり始めていた。
第7章 おわり




