第2話「公爵、老いましたな」
それは、ジュスティーヌが甲板を踏み抜いて落ちそうになった、3日後のことだった。
その日は、内海にしては珍しいことに、叩きつけるような強風が吹き荒んでいた。
船が煽られぬよう帆を畳むべきか、危険を承知で、このまま風の力を利用して前進するべきか……
午後の陽光を遮る厚い雲の下で、俺は甲板に出て風を読んでいた。
イスパーダ号には帆柱が3本あり、風向きに合わせて向きを変えることができる。
これで、微風の中でも風を受けて前進できるのだが、今は進むことではなく、風に煽られないように舵を切らねばならなかった。
船は、真横からの風に弱いからだ。
イスパーダ号の舵取りを担当していたのはトンスイさんだったから、俺は船首甲板を横切って船内へ入ることにした。
この強風で何が起こるかわからない。
エフクレフには、ジュスティーヌの傍にいるよう命令していた。
「……」
帆柱ばかり見て、風向きに気を取られていたせいだろう。
そのとき、すでに異変は起こっていたというのに、俺はまったく気がついていなかった。
船首甲板で視界の端に人影が映ったかと思うと、ひときわ強い海風が真横から吹き付けた。
思わず前のめりになった俺の頭上から、その声は降ってきた。
「……久しぶりだな、ジークレフ」
奴の声を聞いたとき、文字通り心臓が止まるかと思った。
そして同時に、頭の中は混乱状態に陥った。
なぜ、ここに……!?
どうやって……!?
どこから……!?
首筋を、嫌な汗が伝っていく。
恐る恐る顔を上げたその先に、あの男は不敵な笑みを浮かべて立っていた。
銀鼠色の瞳を細め、同じ色の髪を潮風になびかせている。
自らの爵位を返上し、ムーシカ王国を脱出した後、内海を移動して俺を追いかけてきた、執念深い男……
彼の名は、タイ。
「ここで追いつけて良かった。東大陸に到着されていたら、消息を追いにくくなってしまうからな」
タイのしわがれた声に混じって、船体を打つ波間から、何かがぶつかる音がしていた。
船の下を覗き込んでみると、そこにはなんと、小型の船が縄で結わえてあった。
まさか、こんな小さな船で!
俺は思わずあたりを見回した。
タイがここまでひとりでやって来るわけがないと踏んで用心したのだが、
「安心しろ、ジークレフ。ムーシカ王国を追放されてから、おれは常に単独行動をしている」
タイは、眉を寄せる俺に「なぜかわかるか?」と質問してきた。
こんな奴と口を利くのも馬鹿馬鹿しい。
何も言わずに黙っていると、タイは唇の端に歪んだ笑みを浮かべ、話し始めた。
「追放された身とはいえ、一国の公爵だ。俺を慕っていた者たちが何人か追いかけてくるだろう、と思っていたんだが……まったく、人望のない人間に仕える者たちは、使えない奴らばかりで困る」
自らを憫笑し、俯きがちに肩を震わせるタイを、俺は冷静に眺めていた。
傍に仕えていた頃は、何もかもが自分の思い通りになる、という自信に溢れていたタイ公爵……
しかし、今は違っていた。
タイは顔を上げると、眼光鋭く俺を睨みつけた。
自分の思い通りにならないものは、是が非でもこの世界から消滅させる。
そんな、憎悪に溢れた瞳……
俺は、タイを眺めながら、こんな男に何年もの人生を捧げていた自分に幻滅していた。
「すべて……すべて貴様のせいだ、ジークレフ……っ!」
いつの間にかタイの様子が豹変し、奴の俺を睨みつける両目は、真っ赤に血走っていた。
自分の思い通りにならないもの……
長年仕えていながら約定を違え、何もかもを台無しにした男……
すべての責任を彼に押し付け、この世界から抹殺する。
息まくタイの言いたいことをまとめるとそういうことになるのだが、タイは喋り続けていないと死んでしまう病気にでもかかったかのように、口角泡を飛ばしていた。
おれに良からぬことばかりもたらす貴様など、この世界に生きている価値などない……!
ひどい言われようだったが、俺はすでに真面目には聞いていなかった。
これがタイのやり方だと知っていたからだ。
わざと相手が激怒するような言葉を次々とまくし立て、相手が逆上したところを、その力を利用して始末する。
さすがに俺も、ジュスティーヌのことで何か言われていたらタイに飛び掛かっていただろうが、タイは俺を罵倒するのに忙しいらしく、そこまで頭が回らないようだった。
そんな簡単なことにも、思い至らないとは……
公爵、老いましたな。
今度は、俺がタイを憫笑するほうだった。
その間にも、タイの口は回り続けている。
俺自身をいくら罵倒しても埒が明かないということに、いまだに気がついていないらしい。
しかし、いつまでもこのまま、というわけにもいかない。
なんとかして、タイを捕縛しなければ……
「……」
どこかに隙はないだろうか……
だんだんと身振り手振りが大きくなっていくタイを、じっと観察していた、そのとき。
ひときわ強い風が吹き抜けたかと思うと、その風に乗って、柔らかな薔薇の香りが漂ってきた。
それは、昨晩この腕で抱きしめた香りそのものだった。
「やめてください! もうそれ以上、ジークさんのことを悪く言わないでっ!」
俺の後方から、良く響くヒールの音とともに現れたジュスティーヌは、金色に輝く長い髪を強風になびかせながら、甲板に背筋を伸ばして立っていた。
紫水晶のように美しい瞳は、まっすぐタイを睨みつけている。
ジュスティーヌ! なぜここに……!
危険な目に合わせないために、エフクレフを見張りに付けていたのに……!
慌てふためく感情を表に出さないように周囲を見回すと、ジュスティーヌのすぐ後ろに、言いつけを守れず(おそらくジュスティーヌに言い負かされたのだろう)後ろめたい顔をしたエフクレフが、船のオールを手に控えていた。
そして、さらにその後ろには、
「おおい、船長さん! ひとりで何とかしようなんて、水臭いことするんじゃねぇよっ!」
同じく船のオールを手にしたトンスイさんと、自分の顔より大きなフライパンを抱えたレンゲさんが立ち塞がっていた。
皆の気持ちが嬉しくなかったといえば、嘘になる。
だが、これは俺ひとりの問題だ。
ほかの船員を巻き込むわけにはいかない。
俺は、身振り手振りでエフクレフに彼らを安全な場所へ連れていくよう頼もうとした。
幸い、タイは突如として現れた伏兵に仰天したらしく、罵詈雑言を浴びせることも忘れて棒立ちになっていた。
この隙に早く、と思ったのだが……
気がつけば、ジュスティーヌはもう俺の隣にすっくと立っていた。
目の前で口をパクパクさせるタイを睨みつけながら。
「お、お前らごときに、何ができるっ!」
ようやく言葉を話せるようになったらしいタイは、明らかに動揺していた。
しかし、それは一瞬のことで、すぐに逆上寸前の、今にも飛び掛かってきそうな血走った目で俺たちを睨みつけた。
しかし、ジュスティーヌはいたって冷静沈着に、
「ジークさん。私、言いましたよね」
普段の歌声とも話し声とも違う、俺にしか聞こえないような小さな声で囁いた。
「次は、私がジークさんを守るんだって」
「……」
昨晩は、ただの強がりだと思っていた。
だから、真剣には受け取らなかったのだが……
「ね? ジークさん」
どうやら、ジュスティーヌは本気だったようだ。
しかし、彼女はここで、いったい何をするつもりなのか。
「ジークさん」
ジュスティーヌに呼ばれて振り向くと、彼女は紫色の瞳を輝かせて、俺を見つめていた。
その瞳に吸い込まれそうになりながら見つめ返すと、ジュスティーヌは漲る緊張感の中で、にっこりと微笑んだ。
つづく




