第1話「よし、決めた」
机の上のランプを消すと、カーテンの向こうに丸い船窓がほんのりと浮かび上がっているのが見えた。
空が白み始めているらしい。
わたしは、左手に持ったままだったマグカップを口元に運び、半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
いったい、いつから口をつけていなかったのだろう……
すっかり冷めきった苦い液体が、喉元にへばりつくように流れて行った。
まさか、このジュスティーヌさんの日記……
というか物語が、こんなところで終わっているなんて。
わたしは、薄明りの中で、読み終えたノートを観察してみた。
ノートには、まだ3分の1以上の余白がある。
彼女が船長のために書きなおした「物語」だとしても、船長に見せた後、せめて東大陸へ到着するシーンは書き入れたかったのではないだろうか。
いや……これは、作家志望であるわたしの、ただの想像だ。
作者である彼女があえて余白を生かし、ここで完成とした可能性だってある。
しかし、だとするならば……
彼女は今、どこにいるのだろう。
「……」
わたしは、椅子の背もたれに身体を預けて、大きく伸びをした。
ずっと同じ姿勢で読んでいたせいか、身体が立て付けの悪いドアみたいに、ミシミシと音を立てている。
彼女……
名前は、ジュスティーヌ。
ノートをびっしりと埋め尽くす小さな丸い文字からも、彼女が年相応の可愛らしい少女だったことがわかる。
ソニード王国の歌姫、ジュスティーヌ。
船長ことジークさんに自分の歌を聴いてもらうことが、なによりの幸せだったジュスティーヌ。
わたし以上にジークさんが大好きでたまらなかった、可愛い女の子……
ああ、そうか……
ここで思い出すことではないのに、あの日の出来事がわたしの脳裏をよぎった。
あの日、豪雨の中を傘もささずに激走し、家に帰って風邪を引いたわたしに、船長が持ってきてくれたお見舞いの品。
それが高級プリンだったのは、ジュスティーヌが大のプリン好きだったからなんだ。
『そうですね、嫌いな人はいないと思います。風邪を引いた日なんかは、とくに』
船長はジュスティーヌさんの言葉を思い出して、風邪を引いたわたし(というか、心の折れたわたし)に、高級プリンを届けてくれたようだ。
別に、高級じゃなくてもいいのに。
ね? ジュスティーヌさん。
心の中で彼女に話しかけながら、口の中では甘くてほろ苦い高級プリンの味が蘇り始める。
と同時に、
『ジークさんは、船に乗っていた頃に大切な人を海で亡くしてるんです』
あの日、お見舞いに来てくれたポモさんの言葉が勝手に脳内で再生された。
海で亡くしている……
ああ、そうだった、彼女はもう……
そう思いかけた矢先、
『違います、亡くしたわけじゃない。まだ行方不明の状態です』
ポモさんの言葉に必死に反論した、エフクレフさんの姿が思い浮かんできた。
行方不明。
それはつまり、まだ亡くなったわけじゃないってことで……
ということは、船長は彼女のことを探し続けているのだろうか。
でも、そんな気配は微塵もない。
『違います、亡くしたわけじゃない。まだ行方不明の状態です』
声を荒げないエフクレフさんにしては、珍しく語気の荒い反論……
もしかして、彼女が生きていると信じているのは、エフクレフさんだけ……?
でも、どうして?
それほどまでに彼女は、もう二度と会えないほどの、何もかも諦めざるを得ないほどの消え方をしたというのだろうか……
「……」
わたしは、開いたままにしていたノートを閉じた。
美しい装丁が目に留まる。
あの日、ジュスティーヌさんの船室で、船長も目を奪われて足を止めたノートだ。
「……」
よし、決めた。
わたしはノートを抱えると、ランプを手に船室を後にした。
早足で向かうのは、船内最深部にある船長室。
数日間の船旅でわかったことだけれど、船長は雑用係のわたしより何倍も早起きだ。
このくらいの時間に船長室へ押しかけたって、迷惑にはならないだろう。
あれから、ジュスティーヌさんの身に何が起こったのか……
わたしは、彼女のいちばん近くにいた船長から、直接話を聞いてみたくなったのだった。
★彡☆彡★彡
船室の外には小さな窓が付いているものの、今は夜明け前だからか、ほんのりと薄暗かった。
そこを足早に駆け抜け、船長室を目指す。
そういえば、モンターニャ号の造りって、イスパーダ号とほぼ同じなんだなぁ……
なんて思いながら、ふと通り道にある食堂を覗いてみた。
なんとなく、本当になんとなく。
ただの気まぐれだったけれど、でもそのおかげで、わたしはお目当ての人物に会えたのだった。
「船長……」
窓際の大きなテーブルについている人物の横顔は、薄暗い中でもすぐに船長のものだとわかった。
こげ茶のロングコートを椅子の背もたれにかけて、自分はテーブルに頬杖を突き、薄青い窓の外を眺めている。
もう一仕事終えて休憩中かぁ、船長は早起きで、相変わらず仕事も早いなぁ。
と思ったものの、テーブルの上に目を向けて、すぐに違うとわかった。
船長の目の前のテーブルには、食堂中のコーヒーサーバーが集結しており、そのどれもが空だったのである。
「そろそろ来る頃だと思ったよ、シーナ」
船長は、明らかに徹夜明けだった。
眼の下にできたクマが、なんとも痛々しい。
けれども眠そうなそぶりはひとつも見せずに、食堂の入り口に佇むわたしに手招きしている。
まさか……
「船長、わたしがジュスティーヌさんのノートを読み終わるまで、ここでコーヒー飲んで待っててくれたんですか……?」
「エフクレフから、シーナにジュスティーヌのノートを渡したと報告されてね。おそらくシーナは、続きが気になって徹夜してまでノートを読み切るだろうと思って、待っていたんだ」
船長はそこで言葉を切ると、
「このあと何がどうなったのか、聞きに来るだろうと思ってね」
と、重々しく付け加えた。
「……」
ああ、やっぱり……
椅子に腰かけたわたしに、船長は「何もかもお見通しだ」と言わんばかりに、瞳をキラリと光らせた。
それは、彼女の……
ジュスティーヌさんの大好きな木賊色の瞳……
その瞳に向かって、わたしは尋ねていた。
「教えて、もらえるんですか……?」
もし、思い出すのも辛いほど悲しい記憶だったら……
そうだったら、諦めようと思っていたのに。
「もちろん。シーナが心から知りたいと望むのなら」
船長は、なんの躊躇もなくそう言った。
木賊色の瞳が、わたしの決意を確かめている。
この物語の続きを聞く勇気があるのか、と。
「……」
そんな大それた勇気なんて、わたしは持ち合わせていない。
でも、聞かなければならないと思う。
だって、これは義務だから。
船長のことをもっと知りたいと思った者の、これは立派な義務だ。
だから、わたしの答えは最初から決まっている。
「知りたいです。このノートを書き終えたジュスティーヌさんの身に、いった何が起きたのか……どうして、ここにいないのか」
じっと船長の瞳を見つめる。
仄暗い、寂しい色をした瞳……
その瞳に、義務という名の好奇心を携えつつ、初めての徹夜で寝不足になり眠くてたまらない、目つきの悪いわたしが映りこんでいた。
船長は、そんな今にも目を閉じて眠ってしまいそうなわたしから目を逸らすことなく、ゆっくり深呼吸すると、
「わかった。どうしてジュスティーヌがここにいないのか、彼女の身に何が起こったのか、すべて話そう」
そう言って、歌姫の物語のその後……
歌姫の身に降りかかった事件と、勇敢な歌姫の行方を、白み始めた空に合わせるように、滔々と語り始めたのだった。
つづく




