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確実に歴史に残る大事となった時代、教科書ならば挿絵としてつけられるであろう現場にいたとしても、所詮は下っ端一兵士。
国がひっくり返るような大騒動であろうと、日々の業務内容は何一つとして変わらない。
国がひっくり返ろうが返らなかろうが発生する戦後処理に加え、通常業務に終われる日々である。
「うーん……」
出勤と同時に机に突っ伏した私の額が、がいんと鈍い音を立てる。
徹夜組も出勤組も、そんな音は気にもとめない。何せ奇行は日常茶飯事の二課だ。この程度の奇行、奇行とも呼べない日常の柔軟体操みたいなものである。
だから皆、朝の挨拶以外に追加で声をかけたりしない。人付き合いに難がある二課なので、相手の悩みが深刻なものだった場合、適切な対応を取れるわけがないという自信の元から生まれた、暗黙の了解というやつである。
だが、二課最年少はひと味違った。
「なあなあ、ミント。どうしたんだ?」
「はーい……?」
机に突っ伏した私の背中をべんべんと叩いて揺するラクーシャは、そんな暗黙の了解など知ったことではないのだ。彼もまた二課であり、他の面子も本当に気になったのならば躊躇なく聞いてくるであろう。
何せ全員二課である。
「結婚してからのミント、なんでいつも朝に疲れてるの?」
「ああ……それはですね」
「うおぁあああああ!?」
私が答えるより先に、あちこちでむせ込みが多発した。驚いて周囲を見れば、さっきまで連日の徹夜やら疲労やらでぐったりしていた面々が、派手にむせ込みながら椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったところだった。
奇行のみならず雄叫びに近い奇声を発した面々が、一斉にこちらを向いた。私も驚いたが、ラクーシャはそれ以上に驚いたらしく、椅子に座った私を押しのけ、私の机の下に潜ってしまった。
「ラクーシャー! さすがに新婚の朝は突っ込んじゃ駄目だぜ!?」
「それはな!? さすがにな!?」
「子どもでもな!? 触れちゃ駄目な領域がだな!?」
帰宅組、夜勤組、徹夜組。皆似たり寄ったりなよれよれ具合であったが、ラクーシャに言いつのる気迫は凄まじい。とても二課とは思えない。
研究対象以外にこんな鬼気迫る顔をできたらしい。
「な、なんだよ……」
皆の気迫に押されたラクーシャは、私の片足に抱きついた。
「だってミント、結婚する前はあんたらより朝も元気だったのに、今はあんたらよりちょっと元気くらいなことが多いだろ……」
私の足にしがみつきつつ、有耶無耶にはしない。それぞ二課。
「そうですか? ……いや、まあ、夜な夜な防音魔術強化と精査に努めているからですかね」
心当たりを口にすれば、二課に緊張が走った。
「おまっ!」
「赤裸々はよくない!」
「ラクーシャさーん! 大人になったら分かるから、今はその話題流しておかない!?」
「気になること放置できないのも分かるけど! 痛いほど分かるけども!」
「それでこそ俺達だけれども!」
「クレスからも言ってやってくれよぉ! お前が適任だって!」
困ったときのクレスさん。
我ら二課の中、比較的常識人に分類されるクレスであったが、まだ出勤していなかったはず。
そう思っていたが、どうやらまさに今この時出勤してしまったらしい。
未だ荷物を机に置いてすらいない状態で、よく分からない事態の収拾を懇願されたクレスは、うんざりとした顔で二課をぐるりと見回した。
そして最終的に、私の足にしがみついているラクーシャを見た。そうして最後の最後に私を見て、ひょいと片眉を上げた。
「ミントの場合、まずミントの答えを聞いてからにしたほうがいいと思うぞ」
「お前っ……! それはさぁ……なんというか、さ?」
「酷、だろ? な? なんかこう、ふんわりと、いい感じに、さ?」
皆がもごもごしている。ラクーシャは首を傾げ、クレスは面倒くさそうな顔をしている。たぶん私もラクーシャ寄りではあるが、皆の反応が面倒くさい気持ちもあるのでさっさと答えることにした。
「防音魔術強化に努めているのは、なかなかに夜が過酷だからですね」
「お前ぇ――!」
数多の声が重なり、響き渡った。そんなに絶叫される内容だろうか。
私が答えずとも、大方予想がついているものと思ったが。
何せ終戦した現在、私の家庭環境が大幅に変わった事実は、隠されるどころか大々的に宣伝されているのだ。
「お父さんの鼾、めちゃくちゃ煩いんですよね。家中に轟く破壊力です。防音魔術壁貼ってても貫通するので、お父さんが家で寝るときは毎晩防音魔術の強化特訓してる状態で、猛烈に疲れるんですよね……」
アンの手紙で知っていたつもりだったけれど、実際耳にするととてつもなく煩い。煩いで表現できる音を越えている規模で、煩い。
私がお父さんと一緒に眠った夜は片手で足りるほどであり、それさえもお父さんは夜に発つため眠っていなかったり、眠ったとしても熟睡するには至っていなかったのだろう。
流石に、普段一人きりで眠る静かな家にあの轟音が轟いていたのなら、気がつかなかったはずがないのである。
「まさか戦場帰りの父に、魔術師として持ち得た細やかな誇りを打ちのめされることになるとは思いませんでした……」
魔術としては初歩も初歩。本当に簡単な防音魔術すらろくに扱えない自分を自覚し、落ち込んだものだ。だが、すぐに思い直した。
これは絶対父の声量がおかしいの、だと。
そうなると父の調査をしなければならないのだが、父ほど興味のない存在もそうはいない。
とりあえず健康状態だけ検査しておき、後は放置している。正直、父の鼾が大きかろうと小さかろうと、全く興味を引かれない。
防音魔術精査を行い、式を根本から見直し強化に繋げる方向へ興味を全部割り振った結果、父が家で眠る日は大体疲れているのである。
「……意図的でない無意識下で放たれる鼾が防音魔術を…………反射は試したか?」
「真っ先に。ですが、本人が睡眠下にあるためか自身が聞き慣れているかは分かりませんが、反撃としての効果は皆無でした」
父は無傷であった。代わりに、先に隣室で寝ていたアンが敵襲と勘違いして私の部屋に飛び込んできた。真っ先に私を守ろうとしてくれたのは嬉しかった。
だが、お父さんの鼾をお父さんに返したら、殺気しかないアンが部屋に飛び込んでくると思っていなかったので猛烈に驚いものだ。心臓が止まるかと思った。
私が一課向きの魔術師だったら、反射で即死級の魔術を放っていたかもしれないほどには、驚いた。私が二課向きでよかった。本当によかった。
「無意識下で防音魔術を貫通する鼾……これ何かに活用できないか?」
「そもそも鼾ってのは基本的に聞いてるほうも睡眠に入ろうとしている状態だから、通常状態より煩く感じるものなんじゃないか?」
「でもミントだぞ? ミントの観測なら間違いないだろ」
「そりゃそうか。これさ、意識化だとどうなるんだ?」
「そもそも、意識化でかく鼾は鼾と呼べるのか?」
「これさ、魔術防壁を貫通する鼾の周波数は測定結果徴収ものじゃね?」
私とラクーシャへ向いていた二課の興味は、すぐにお父さんの鼾へと移行していった。
皆の意識が自分から外れたと判断したラクーシャが、それでも慎重に私の足下から顔を覗かせる。
「…………訳分かんない」
「ですよね」
防音壁を貫通するお父さんの鼾に興味が移行したのは分かる。だが、その前の盛り上がりは何だったのだ。
クレスに聞きたいけれど、自分がお父さんみたいな鼾をかいていたら妻に害悪だと、本腰入れて防音壁強化に乗り出してしまったので聞けずじまいだ。
私とラクーシャは顔を見合わせた。
不満が顔一杯に現れているラクーシャのように不機嫌ではないが、疑問が消化されず不完全燃焼を起こした。
今度機会があったら聞いてみよう。機会がなくても聞いてみよう。機会なんてなければ作ればいいのだし、作れなければ作るだけだ。なければ作る。二課の習性だ。
二課は好奇心を忘れず、興味も不思議も忘れない厄介な性質を持っているから二課なのだ。ちなみに、礼儀礼節、予定と常識はすぐに忘れるか、最初から持ち得ないかのどちらかである。
機が熟すまで眠らせる予定となった疑問を自分の中に仕舞っていると、ラクーシャは既に復活したようだ。流石若人、立ち直りが早い。
私達から始まったはずの盛り上がりは、私達の手を離れ二課を釘付けにした。最初は不満げな顔をしたラクーシャは、すぐに暇を持て余したらしく、私の腕を引っ張って遊び始めた。
「なあー、ミントー。なんで結婚したの?」
気がついたらしていたと、他の誰に言えてもラクーシャには言えない。彼の教育に悪すぎる。
なんか、そういう流れだったと言っても過言ではないが、こっちのほうが教育に悪い気もする。
「好きだったからですね」
「何が?」
「アンがです」
「……ふーん」
結婚にそれ以外の好き要素があるだろうか。結婚自体が好きな人も中にはいるかもしれないが、どう考えても二課にはいないはずだ。
「オレのお父さん達みたいじゃないのに、結婚できるんだな」
「まあ……そういうのは人それぞれですよ」
ラクーシャのご両親は、穏やかで優しく、大変仲睦まじいご夫婦だ。人目も憚らず愛を語らっているわけではないが、目線が合えばふわりと微笑み合うような、静かな慈しみで愛を交わし合っている素敵なご夫婦である。
ラクーシャにとって、そういう穏やかな関係を互いに築いていける環境が結婚なのかもしれない。
「そういった関係になったから結婚するのか、そういった関係をこれから築いていけると思った相手と結婚するのか、そういったもの含めた全てが人それぞれだ」
いつの間にか席に着き、こちらの話題に加わっていたクレスが言うと説得力がある。
なんか気がついたら婚約していて、なんか気がついたら外で待たされていた哀れな司祭に見守られながら婚姻届が目の前に差し出されたからだった私では、同じ既婚者であっても重みが違う。
そもそも重みを持ち得ない結婚を果たした私は、属性だけが既婚者で、実績が伴っていない。名ばかり既婚者だ。
……既婚の実績って何だろう。
既婚の定義を受けるに当たって必要な条件と最低最高平均基準値をだれか教えてほしい。
「へぇー」
実績ゆえにその立場にいる人から頂いた、重みあるありがたいお言葉に対する少年の返事はとても軽い。
「なんかミント全然変わんないし、他の奴らが言ってた、きらきら? して、ふわふわして? とかな雰囲気でもないし、結婚ってそんないいもんでもないんだな」
私のせいで、健全なる若者の夢を奪ってしまったらどうしよう。
「あんたの護衛だったやつ、なんか告白されたって聞いたし。最近の流行は離婚っていうのほんと?」
私のせいで健全なる若者の倫理観を奪ってしまったらどうしよう!
「…………え? 最近の流行って離婚なんですか?」
それにしても、そこは初耳である。
今は終戦が叶い、王位と主流組織交代という大きな節目が起こった直後だ。なんとも夢がなく、現実味溢れる悲しい流行である。
「まあ……色々と我慢する必要がなくなったという側面もあるのかもな。だが、流行っていると言っても離婚しない勢のほうが大多数であり、日常だ。そうでないからこそ目立っているという面も大いにあるから、お前達……特にラクーシャは鵜呑みにしすぎるなよ。とりあえず統計学をやっておけ」
「う、鵜呑みになんてしてないからな! ばーかばーかばぁーか!」
ちょっと鵜呑みにしていたらしい。
こういうラクーシャは分かりやすくて大変助かるが、本人のためを考えると、少しずつ隠していけるように練習したほうがいいだろう。
私達の前ではずっと、分かりやすい、つまり素直なままいてほしいと思うけれど。それは私達にとって都合のいい子であるのと同時に、ただ可愛いからという理由でしかない。よってラクーシャは、私達の希望など完全無視して、好きな方向へ向かって成長していってほしいものである。
「というわけだミント。仲良くやれよ。何かあれば相談くらいは乗ってやる。既婚者の先輩としての平等さと、大いなる身内贔屓による裁きと、お前への信頼から絶対的な味方になってやる」
「喧嘩したら胸をお借りしますね。……まだ喧嘩したことないので、どのくらいの惨事になるか想像つきませんけど」
「喧嘩はちょくちょくしておけよ。そのほうがお互い許し慣れるからな。仲直りも慣れだぞ、慣れ」
愛妻家としてしか知らないクレスでも喧嘩するらしい。
そりゃそうだろうなと思う常識ぶった自分も確かにいるけれど、クレスが妻と喧嘩するという事実に驚いたことで認めざるを得なくなった事実がある。
私は人と喧嘩をしたことがほとんどないので、仲直りの仕方も知らないぽんこつであると。
つい先日エーヴァとの間に巻き起こった泥沼れペガサス合戦も、喧嘩と呼んでいいのかはいまいち分からない。あれ以来エーヴァと会っていないので尚更分からない。
そもそも、示し合わせて会う関係性を築けていない時点で、私の人間関係形成能力はお察しである。
軍の大幅な人事移動に伴い、ご両親と友に中部を離れていったエーヴァとはあれ以来会っていない。
会おうと思い立ち、会うための理由を携えなければ会えない。他人とはそういうものだ。
理由なく会える。会いたいと思わなくとも会える。会っていい。俗に言う、家族や身内と呼ばれる人々への距離感に、未だ戸惑う。
孤独のほうがよほど馴染み深く、ほっと安堵してしまうほどに。そんな私にとって、当たり前のように私との時間を取ってくれる人々の笑顔はいつまで経っても眩しかった。
まるで、私以外で形成されてい家々の明かりが、私に振り向いてくれたように思うのだ。
エーヴァがアンに告白したとかしないとか、風の噂で聞いた。本人からは聞いていない。けれどそれでいい。本人が言わないのであれば聞く必要はない。
軍人の家族は、聞かないことには慣れっこなのだ。
「今日のお昼何食べたの? 私は食堂の、死ぬほど塩辛いハムが挟まったサンドイッチ」
「隊に潜り込んできてたレギネが持ってきたサンドイッチ。ミントに用事があるって言ってた」
聞かないことには慣れっこだけど、聞かなければならないことを聞かないと話さないこの人との相性を時々考える。
否、わりと毎日考えている。
「……陛下とは、三日に一回くらいの高頻度で会ってるんだけどね…………」
「邪魔だね。無視したらいいと思う」
呼び出される内容はあなたの健康診断を知りたがってのことです。
それはアンも知っている。国王命令であれば全情報開示する義務が発生するものの、一応アンの許可は取っているのだ。
「教えていい?」って聞けば、「どうでもいい」って返ってくる。うん、分かってた。
それでも確認は取る。何せ私は、身内贔屓がお家芸の二課である。
身内の失敗は、さらなる失態によって打ち消す。それが二課。
ちなみに、どんな失敗も許すから意気揚々と重ねてくるのだけは勘弁してくれと本部から懇願されている。
それも二課。
「それができるのアンくらいだと思う」
「隊は全員、君に対してそう思ってるよ」
「何が?」
私は殿下に対し、非常に丁寧に接している。はずだ。
雑なのはお父さんに対してくらいである。
今日も今日とて、会議があるのに夕飯を一緒に食べたがってぐずったお父さんを、魔術で弾き出したばかりである。
弾き出したのは比喩ではなく、文字通り弾き出した。魔術の構成上、会議でも椅子の上で少々弾んでいるかもしれないけれどまあいいだろう。お父さんだし。
おそらくお父さんは、あのまま軍部に泊まりだ。今日は時々しか来られない遠方の軍人、それも要人達がやってくる日だからだ。東西南北全て手薄にするわけにもいかないので、一堂に会するわけではない。こういう日は、これからも度々あるはずだし、これまでもあった。
だから今日は泊まるのだろうと想像がつくのだ。
よって、今日の夕食は私とアンの二人である。
仕事帰りに買ってきた鶏肉に適当な香草を掏り込んで焼いた、適当焼き。明日のパンもついでに買ってきたから、固くなってきて今日中に食べきりたいパン、傷み警戒情報を発している野菜を全部適当にぶち込んだ証拠隠滅スープ。
以上だ!
アンと二人で作った、二人の責任ご飯である。
忙しすぎてなかなか家のことが回っていないし、結局お父さんが家にいる時間は夜だけだったり、数時間だけだったりするけど、なんとか生活を頑張っている。
忙しいと真っ先に削減してしまうのは生活にかける労力だ。今まではサシャが行ってくれていたからこそ、それ以外に全てを向けられた。
それは純粋な、時間や手間の問題ではない。それらをこなすために頭の容量配分を変更しなければならない。選択とは即ち消耗である。
これまで割かずにいられた労力を、戦後処理に追われるいま改めて使い始めるのは大変だ。慣れていないので尚更である。
アンやお父さんは、私よりも掃除や洗濯ができる。軍では当番制で行われるからだ。料理は大勢の分をまとめて作ることが多いので、逆に少人数分だとやりにくいらしい。
私もある程度はできるけれど、やはりこれまでサシャに甘えてしまっていた部分が大きく、一番効率性は落ちている自覚はあった。掃除や洗濯、料理や名もなき家事といった分野に魔術活用が叫ばれ続けている理由がよく分かるというものだ。
二課にも度々開発の要請があるけれど、同じ人が一人としていないように、個々人の要求する平均値算出が難しく、なかなか万人に向けた魔具の開発には至っていない。
魔術師が扱うのであれば微調整は容易だが、火事を円滑に行うための魔具使用に高額な魔術師を雇う人間はいないのである。
少し焦げた鶏肉、固くなったパン。塩加減が足らず、素材の旨みのみが全面に押し出された野菜スープ。
この辺りのさじ加減は経験と偶然がものを言うので、魔術でどうこうしようとするほうが難しい。
魔術はもっと、直接的な場所に使用するほうが簡単だ。
そう、お父さんの鼾完全遮断を目指すように。
「アンはさ、お父さんの鼾煩くない?」
「煩い」
「…………どうやって寝てるの?」
「慣れ」
慣れるのか? あれに?
だが、私が不慣れなだけで、あれを日常的に聞いていたら慣れる可能性も確かにある。可能性も何も、慣れた人が目の前にいるのだ。私もいずれ慣れるのかもしれない。
防音魔術強化を急がねば。慣れてしまえば研究に支障が出てしまう。
「その上、異変があれば索敵より早く飛び起きる」
「お父さんの耳、どんな測定してるんだろう。してるのは脳かな…………嫌だなぁ。調べたくないなぁ……」
お父さんが隠し事をしていたら腹が立つけれど、お父さんのことを知りたいとは別に思えない。何だろうこの気持ち。お父さんのことを知っても全く嬉しくないことが原因か。
「私も慣れるのかな」
これに関しては慣れたくないぁ……という気持ちが強いが、いずれ慣れるのかもしれない。
いつのまにか、アンと食べる食事に慣れてきた自分がそう思う。
慣れてきたというべきか、慣れてしまったというべきかは、よく、分からないけれど。
渇望することすら意識外へ追い出していた願望が、毎日当然のような顔でそこにいる。
毎日、眩暈がするほどの幸福に違和感を覚えながら、当たり前のように受け容れ始めた自分が恐ろしい。
失ったらどうなるか。
今は考えないほうが、きっといい。
「ミントは慣れたいの?」
「慣れ……たくはないけど、慣れたほうが楽だろうなとは思う。煩かったら弾き出すほう優先しちゃいそうで、防音魔術強化が進まなくなりそうだし」
「それができるのはミントだけだよ」
「魔術師だからねぇ」
「ミントは鈍いままがいいと思う」
「今の流れで心外すぎる評価に辿り着いた理由を聞いてもいい!?」
鶏肉に擦り込んだ香草がまばらで、味が濃いところと薄いところがあるから!?
スープはアン作なので、私は関係がないはず。
ちょっと、いやかなり心外な流れではあるが、こんな何でもない会話も楽しいものだ。
身のない、オチもない、聞く人によっては何の価値もない言葉の応酬。
たぶん私はずっと、一日の終わりにこんな会話がしたかった。
相手の些細な情報を、感情を、自分の中に収集する。収集し合う作業。
お父さん達が守る人々の灯す、町を彩る明かりの中で繰り広げられていたであろう、家族や身内だけが知る会話。
それがいま、私の手元にある。その不思議に慣れ始めた自覚はあれど、いつまで経っても根本的に慣れることはないのかもしれない。いつだって、夢を見ているようなふわふわとした心地が心の奥で揺れているのだ。
「ミントは鈍いほうがいいと思う」
「流れは!?」
その結論に至った流れは一切説明されないまま、アンの中だけで完結してしまったらしい。
「ミントが鈍いと、平和が保たれる」
「えぇ……」
「ミントはモテるって」
「とんでも誤報の発信源聞いていい?」
「上官」
「二度と鼾がかけないよう、あの口縫い付けとくね」
アンはいい加減、お父さんの言うことは軍務以外一切合切信じないほうがいい。
目の前で静かにスープを飲み、「薄かった……」と呟くアンを見て苦笑する。
アンの言うことも一理ある。アンは鈍いままが世界は平和だ。
アンのさりげなさによりアンの既婚は知れ渡り、彼が陛下の弟である事実が秘密裏な状態であろうと、アンは普通にモテた。
何せこの顔であり、寡黙であり、実力がある。
少し話せばこの不思議な価値観は知れ渡るが、それならば逆に御せそうだと判断されてしまうらしい。
顔、実力、利用価値。あらゆる側面でモテる理由しかない。しかも配偶者が私だ。私程度が相手なら、ちょっと突っつけば別れると思われている。
「あ、そうか。アンと別れると思われてるから、お父さんに関わり持ちたい人達が今から声かけてるのかも。確かに私、立場としては利用価値あるからなぁ」
それ以外で二課の既婚者がモテる理由は皆無である。あのクレスがモテていないのだから、見れば分かるというものだ。
しかし今のところ、私の中で離婚への危機感は薄い。
何せアンの引っ越し荷物の八割が、私の手紙だったからである。アンの人生を私が浸食しすぎていて、猛烈な申し訳なさを抱いた日はつい昨日のようだ。
「ミントが傷つくと、上官が怒る」
別に今更、利用価値があると思われて怒る幼さは持ち得ない。私だって軍人だ。
それに、この家で一人過ごす時間に比べたら、大抵のことは怖くなくなるものだ。
「そういえば、お父さんが怒ったところあんまり見たことないなぁ」
昔一度、アンへの手紙を見て飛んで帰ってきてくれたことがあった時に見たくらいだ。あの時も大変だったけど、別に怖くはなかった。お父さんって、静かに話せたんだなと思ったくらいである。
むしろ大人しくなってよかった気がする。泣きながら、お前が世界で一番大切なんだぞぉと私の頬を髭でぞりぞりし続けるのを止めるのが大変だったけれど。
「ミントは一生見ないと思う」
アンは、焼きすぎて少し固くなった鶏肉を器用に噛み千切った。
「ちなみに、僕も怒る」
「アンが怒る姿も見たことないなぁ」
怒る姿どころか、今の今まで姿を見たことがないから当たり前である。
私も、すっかり固くなったパンを割った。千切るなんて器用な真似ができる硬度ではなかった。
固くて柔らかくて。ざりざりでどろどろ。濃かったり薄かったり、へたくな料理が頻繁に上がる食卓。
よく分からない会話。意味のない会話。ただの予定確認。
こんな時間が、本当に幸せで。毎日が楽しくて堪らない。
アンもそうだといいと願う。願っている。
だから、アンの様子を日々観察していた。その結果、少なくとも嫌そうではないと判断している。
どれだけ観察しても、アンが何を考えているかは何一つ分からないので、彼の中でどういった結論が出てくるのか全く予測はつかないけれど。
それもまた楽しいのだ。
手紙のようにじっくり精査する時間はなく、次から次へと疑問も感情の入れ替わり立ち替わりやってくる。だからこそ楽しいし、人は親しくなっていくのだろうと、当たり前のことを改めて実感した。
へたくそな料理も、いずれは上手になっていくのだろうか。サシャのように手際よく、本も見ず量りも使わず美味しくできるようになるかは未知数だけれど、今よりは多少効率よく作れるようにはなるはずだ。
同様に、会話もしっくり来るようになるのだろうか。会話がなくたって、上手に時間を過ごせるようになったら。
それはもう、文句の付け所のない家族でいいのではないだろうか。
世界で一番美味しいへたくそな料理を噛みしめていると、同じ料理を黙々と食べていたアンが私を見ていた。じっと見ていた。本当に見ていた。
そんなに見る理由がどこにあるというのか。
「あの、アン? どうかした?」
「僕がミントに怒ることはないよ」
「私が悪いときは、ちゃんと怒ってね?」
片方に傾いた天秤は、どんな関係性であろうと歪である。
私もアンに怒る姿は想像つかないけれど、怒るときはきっと怒ると思うのでアンも怒ってほしい。
お父さんには怒る。雑に怒る。それはもう致し方ない。
そうアンに伝えると、アンは思案するかのように動きを止めた。そうして手元に視線を落とし、改めて私を見る。
「上官が本当に怒ったら、敵部隊は壊滅するし、それに見合った損害も軍部に出る」
「そ、うなんだ」
いつもあんな感じのお父さんだけれど、立派な軍人だと分かっている。分かっているのに、身内からその情報を聞くと、やはり少し躊躇ってしまう。
自分が浮かべた感情に躊躇う滑稽な様を、アンに知られる日は来るのだろうか。
「その上官から、僕は怒らないようにと言われてる」
「……………………へぇー」
二課の興味を引くとはいい度胸である。
私は一生、怒ったアンを自分の頭に記録したいなという気持ちと、お父さんがそう言うなら本当に怒らせてはならないんだろうなという気持ちを鬩ぎ合わせる必要がありそうだ。
それもまた、人間関係の醍醐味だろう。
手紙では、記録はできても目視での観察はできない。もしもアンが怒る事態に陥った場合、私は是非ともこの目でそれを記録したいと願っている。
突飛な人生を歩んできたアンの経過観察と研究と健康管理は、私が生涯かけて行うべき責務だ。それは二課としても魔術師としても、軍属としても課せられた責務であると自覚している。
けれど同時に、家族には長く平和に生きてほしいと願う。
それは、幼い私には口が裂けても言えなかった願いの具現化だった。
幼い私が、今の私を見たら何を思うだろう。予想だにしていなかった未来を羨むのが、不審がるのか、怯えるのか。
幸せに怖じる情けない自分を自覚しているからこそ、自分でも分からない。
だが。
「ミント」
「ん?」
「後で日記渡すね」
「あ、はい」
同じ家に帰るようになった今、手紙が交換日記に返信した事実に驚くことだけは分かるのである。




