もうすぐ
旅行鞄は、あの日から一度も動いていなかった。
旅行が中止になって三日。
玄関の横に置かれたまま、まるで自分の役目を忘れたかのようにそこに立っている。
正直に言うと……
少しだけ尊敬してしまった。
人間は三日もあれば「いつもの日常」に戻ろうとするのに、この旅行鞄だけは頑固だった。
ディランは仕事へ行き、アイリーンは家で仕事をする。
夜になれば二人で夕食を食べ、息子たちの話をしたり、アンドレアが送ってきたくだらない画像で笑ったり、天気や夕食の話をしたりする。
どうやら人生というものは、心が揺れていても止まってはくれないらしい。
本当に空気が読めない。
…
水曜日の夕方。
玄関のドアが開き、ディランが紙袋を二つ抱えて帰ってきた。
「今日は夕飯を買ってきたよ。」
パソコンから顔を上げたアイリーンが笑う。
「最近、ずいぶん甘やかしてくれるのね。」
「まだ嫌われてないうちに頑張ろうと思って。」
「ずいぶん控えめな目標ね。」
「達成できる目標のほうが好きなんだ。」
……ほら。
こういうところなのよ。
人生を複雑にする相手は嫌いになればいい。
でも、その前に笑わせてくる人は、本当に困る。
二人はリビングでテレビをつけながら夕食を食べた。
昔のコメディ映画が流れていたけれど、どちらもほとんど見ていない。
それでも、ときどき笑い声が聞こえる。
映画がおもしろいからじゃない。
相手が笑ったから、自分も笑っているだけだ。
二十五年という時間は、他の誰にも分からない笑い方まで作ってしまうらしい。
私でさえ置いていかれることがある。
…
夕食が終わると、二人は食器をキッチンへ運んだ。
私は見なくても分かる。
この流れは、もう何百回も見てきた。
アイリーンが洗い、
ディランが拭く。
お皿は同じ棚へ。
グラスは同じ場所へ。
「これどこだっけ?」
そんな質問は一度もない。
二人の手は、長い年月で覚えた動きを静かに繰り返していた。
途中で二度、同じ皿に手が伸びた。
二度、肘がぶつかった。
二度、「ごめん」と言って、
二度、笑った。
私はため息をつく。
「本当に困るわね。」
アイリーンは聞こえないふりをした。
私が正しいときほど、そうするのよ。
最後の皿を片づけ終えると、ディランは布巾をたたんでカウンターへ置いた。
「終わった。」
アイリーンは小さくうなずく。
「ありがとう。」
ディランが笑う。
「皿を拭いただけだけど?」
「……いてくれて。」
その一言は、とても静かだった。
でも、そのあとの沈黙はもっと静かだった。
ディランも、それに気づいた。
「ここ数日、ずっと考え事をしてるね。」
「うん。」
「旅行のこと?」
アイリーンは布巾をもう一度たたみ直した。
きれいにたたまれているのに、もう一度。
「旅行だけじゃない。」
ディランは椅子を引いた。
「座ろう。」
アイリーンも向かいに腰を下ろす。
私はそのまま二人を見ていた。
誰かがこの場を見届けなくちゃいけない。
ディランは両腕をテーブルに置く。
「聞かせて。」
アイリーンは少し考えてから口を開いた。
「旅行が中止になった日から、ずっと考えてた。」
ディランは何も言わない。
「最初は、旅行に行けなかったことが悲しかったんだと思ってた。」
彼女は静かに首を振る。
「でも違った。」
視線が廊下へ向く。
そこには、まだ旅行鞄が置かれている。
「あの旅行鞄を見ていて気づいたの。」
ディランも同じ方向を見る。
「私はずっと、自分の番が来るのを待ってた。」
彼は少し眉を寄せた。
「どういうこと?」
「ずっと『この仕事が終わったら』って思ってた。」
アイリーンは小さく笑った。
「子どもたちが大きくなったら。
仕事が落ち着いたら。
次のプロジェクトが終わったら。」
少し息をつく。
「いつも"そのあと"があった。」
ディランは視線を落とした。
「ごめん。」
アイリーンは静かに首を振る。
「謝ってほしくて話してるんじゃない。」
「分かってる。」
「あなたを責めてるわけでもない。」
「分かってる。」
彼女はテーブル越しに手を伸ばし、そっと彼の手に触れた。
「本当にそう思ってる。」
ディランもうなずく。
「信じるよ。」
二人の間に、また静かな時間が流れた。
重たい沈黙ではない。
お互いが、本当のことを受け止めようとしている時間だった。
やがてアイリーンが、小さく息を吸う。
「少しの間、別々に暮らしたほうがいいと思う。」
その瞬間だけは――
私は何も言えなかった。
皮肉も。
冗談も。
一つも浮かばなかった。
ディランは彼女を見つめる。
「……少しの間?」
「うん。」
「もう決めたの?」
アイリーンは静かにうなずいた。
「決めた。」
ディランはしばらく黙っていた。
そして、とても静かな声で尋ねる。
「それが君の望みなの?」
アイリーンはつないでいた手をゆっくり離した。
「違う。」
ディランが顔を上げる。
「違う?」
彼女はまっすぐ彼を見る。
「望んでいることじゃない。」
少しだけ微笑んだ。
その笑顔は、とても切なかった。
「でも……私には必要なの。」
私はずっと待っていた。
誰かが怒るんじゃないか。
誰かが責めるんじゃないか。
「そんなの間違ってる」って言うんじゃないか。
でも、誰も言わなかった。
だからこそ、こんなにも苦しかった。
長い沈黙のあと、ディランが尋ねる。
「いつ?」
アイリーンは旅行鞄を見る。
「……もうすぐ。」
ディランも、その旅行鞄へ目を向けた。
私も見る。
三日間、私はあれが次の旅行を待っているんだと思っていた。
違った。
あれは、この言葉を待っていたんだ。
勇気を出して口にされる、その瞬間を。
……それでも私は、湖へ行く結末のほうがずっと好きだった。
そっちのほうが、ずっと救いがあったから。




