第8話 リュバ教授
「――人類は取り返さなければならない。魔獣たちに奪われた大地を。そのために、生徒諸君のこれからの活躍に期待するものである」
壇上に立っていたベネルフィ学院長が頭を下げ、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。緊張していたのか、壇から降りたベネルフィは息を吐き出す。魔法によって音を増幅、拡販させているため、声を張り上げる必要はほとんどないのだが――それでも、大勢の人の前で話す、という行為は緊張する。
「お疲れさまです、学院長」
渡された水筒から一気に水を煽る。エールでも飲みたいところだが、出回っている酒はまだそう多くはない。娯楽や嗜好品の類は、『天姫』ミリによって流通量が厳重に制限されている――との噂だが、実際は黙認状態だ。ベネルフィは無言で水筒を返し、天幕の中に入る。
必要以上の嗜好品の生育は禁止されているが、ではどれくらいが『必要量』なのかというと、その基準は決まっていない。要は『贅沢するなよ、人が餓えないのが最優先だぞ』ということである。
「調子に乗った茶畑がまるごと畑に変えられてからは、そういうのもなくなったな……やはり、あれは見せしめだったのだろうな」
『天姫』ミリ。その頭脳に渦巻く智謀を理解できている者がどれだけいるのだろうか。隣にいるクノでさえ、彼女の意図を完全には読み解けていないように思える。
もし、彼女の考えを完璧に理解できる人間がいるとしたら、それは――
「学院長? 大丈夫ですか?」
覗き込んできた碧色の瞳に驚き、ベネルフィは顔を引く。いつの間にか、学院用の天幕の中に1人の少女が入り込んでいた。
「エルフィ……」
長い金髪を揺らし、少女は慎ましく笑う。微かに吹いた風が、少女の金の髪を散らした。
「『どうしてここに?』という顔をしてますわね、学院長」
「私は産まれた時からこの顔だよ。で、何の用だ?」
この天幕は一応、学院の教師以外は入れないように伝えてある。運動場に並んだ新入生や在院生たちも、この後はそれぞれ自分たちの講義に戻っているはずだ。
「彼女から言伝ですわ。『魔獣探索隊から目を離すな』、とのことですわ」
「……そうか」
精霊に愛されているエルフィをメッセンジャーに使える人間などそう多くはない。彼女に依頼すること自体は可能だ――なにせ、風の精霊が噂として拾ってきてくれるのだから。ただ、それを相手に伝えるかどうかはエルフィが決めること。気まぐれで不確かなメッセンジャーだが、エルフィが多少は労力を割いてメッセージを伝えようとする相手もいる。
「……そうだ、エルフィ。くどいようだが、風の噂にリーリルのことは――」
「その情報なら入ってきていませんわ。申し訳ありませんが」
本心から申し訳なさそうに頭を下げるエルフィに、ベネルフィは慌てて両手を横に振った。
「いや、いいんだ。そもそも噂にならなければ風の精霊たちも拾えないしな。構わない」
「……彼女のことは私も気にかけておきます。では、私は行きますね。学院長、あまり気に病むことのないよう」
「……ああ。わかっている」
彼女には私の悩みなんてお見通しだろうな、とベネルフィは心中で呟く。天幕を出ていくエルフィを見送り、天井を見上げた。
(精霊に愛された少女。魔獣と心を通わせる少年。植物に憧れを抱く青年。魔術を極めんとする一族――)
溜息がこぼれる。魔王という脅威が消え去り、女神という旗印が消え、人類は新たな可能性を探し始めている。知らずのうちにポーチに伸びていた手は、いくつもぶら下げられた魔獣たちの触媒を弄んでいた。
(【双頭の獣王】の牙は、炎を生み出す魔法の触媒に。【地に潜む大蛇】の鱗は、大地を揺るがす魔法の触媒に。【乱れ舞う飛竜】の角は風を吹き荒らす魔法の触媒に……)
全ての触媒には『適性』が存在する。どのような魔法を扱うかによって、適切な触媒を選ばなければ、威力の減衰どころか下手をすれば発動しないこともある。知識と確かな見識がなければ、魔法を自在に扱うことはできないのだ。
「……私は魔法の徒。魔法こそが人類を導く希望と信じた者」
魔獣という明確で強大な脅威に対抗するために、ベネルフィ――否、学生『ユアラ』が信じたもの。自分よりも成績がいい者も、強い者もいた。それでも、2代目ベネルフィに指名されたのはユアラだった。
「『私はちょっと勉強が人より好きなだけ』だし……」
触媒を弄りながら、ユアラは地面に視線を落とした。
「『それでいい。君のその人らしさを、私は信じる』、か……」
初代ベネルフィに言い残された言葉を思い出し、ユアラは目を閉じた。今でもくっきりと思い出せる、紫の長髪を持つ初代学院長。時に最前線へ赴き、時に天姫の相談に乗り、ある時は出版する本を執筆していた才女。
「よしっ。気合入った」
ああなるのは無理だ、と思った。
同時に、ああなりたい、と思った。
その諦めと憧れを忘れない限り――ユアラは学院長でいられる。
「この後は……リュバが用があるって言ってたわね……」
予定を思い出し、ユアラは顔をしかめた。偏屈な老人、リュバ・マギレイス。魔術理論を提唱し、『魔法も魔術の一形態でしかない』ことを主張する老人だ。仮定に推察を重ねた論理でしかないが、彼が提唱する理論には筋が通っている。まともに議論になるのがユアラくらいしかいないため、結構な頻度で彼の言説を聞く羽目になるのだ。
魔術科は魔法科と仲が悪い。だが、リュバという老人は例外だ。彼の中では理論は既に完成しており、揺らぐことはない。思考の整理のためにユアラに理論を語ることはあっても、意見を求めることはない。
「だから聞いてくれる人がいなくなるのよねぇ……」
勉強好きのユアラはその主張を聞くことができる。だからこそ、割と頻繁に呼び出される羽目になるのだが。
天幕を出たユアラは、差し込む光に目を細めた。入学の日に相応しい快晴だった。マークするように言われているティークという少年は、同世代らしき少女に引きずられていったが……まあ、微笑ましいコミュニケーションである。今回は乱闘騒ぎもなかったし、とあくびを漏らすユアラ。
「おお、こんなところにおったか、学院長!」
「あら、奇遇ですね、リュバ教授」
学院長としての仮面を被り直し、ユアラは笑顔で教授に対応した。目の前にいるのは、髪も髭も白く染まった老人だ。顔にはしわが寄っているが、外出を厭わないため、よく日に焼けている。今年で60歳を超えるというが、背筋は曲がっておらず、喋りもハキハキしていた。
「だいぶ探したぞ。今日は魔術要素を示す2つの方法についての仮説を聞いてもらおうと思ってな」
「魔術要素と言うと、あの『世界を構築する要素』というお話ですか。もう魔術科の生徒たちには話したので?」
「うむ、2人にはな。だが、あの2人以外は凡才よ。儂の後を継ぐのはまぁ、あの2人だろうな」
あの2人、という表現にはベネルフィにも覚えがあった。
魔術科の若き秀才、レアジア・マギレイス。
魔術科の若き異才、イルリル・マギレイス。
珍しく、兄妹で魔術師を目指す2人だ。
「それほどですか。レアジアとイルリルは」
「うむ。レアジアは基本に忠実。積み上げた仮説と論理を基に、陣をすでにいくつか発見しておる。彼ならば、着実に魔術の智慧を積み上げてくれるだろう。イルリルは――儂すら、予測ができぬ。まるでそうなることを知っているかのような才能には、恐怖すら覚える」
だからやはり、2人揃ってこそよ、とリュバは豊かな髭を撫でつけながら呟く。
「妹が実践してみせた思いつきを、兄が柔軟に受け止めて土台を組み立てる。教えることはもうほとんどない。今や、魔術に関しては儂のライバル――いずれ、儂すら超えよう」
たった1人で魔術を発見し、初代学院長にその有用性を認めさせたリュバ・マギレイスという男が認めた兄妹。1人は魔獣探索隊に所属し、その頭脳を奮っている。魔術に傾倒していなければ、クノとともに天姫のサポートに回っていただろうと言われるほどの男だ。
「次世代の人間が育つのはいいことですわ、リュバ教授」
「――うむ。まあ、そうなのであろうな。なにせ魔術の研究には終わりがない。強いて言うのであれば、この世界を構成する要素すべてを解き明かしたときが終わりになるのだろうが……そんなもの、何千年かかるのかわかったものではない。先代のベネルフィが遺した無数の魔導書の解析も、終わっておらんしな」
「ああ……」
彼女が『写し』と称していた数十枚に及ぶ紙。その正体は、『超巨大な立体魔法陣』らしいが、解析も分析も、発動すらできないブラックボックス。そもそも、それだけのサイズの魔法陣を起動できるだけの魔力を持っている人間などいない。
「……話していると、色々と試してみたいことが出てきたな。では、儂はこれで失礼するよ、学院長」
「ええ。また会いましょう、リュバ教授」
今日は短く済んだな、と息を漏らすユアラは、リュバ・マギレイスの姿が見えなくなるのを待ってから、彼女に声をかけた。
「シラハ」
「はっ」
一体いつからそこにいたのか――運動場に舞い上がる砂埃を散らして、黒装束の少女が跪いていた。ユアラがミリから引き継いだ隠密の少女だ。火傷の跡を隠すために黒布で顔を覆い、黄色く輝く右目がユアラを見つめている。
「魔獣探索隊はどう?」
「来月に探索に出かける予定を立てたようです」
「そう、じゃあ来週ぐらいには出ていくわね」
シラハがかすかに漂わせた困惑の気配を、ユアラは見逃さなかった。頭痛を抑えるように額を揉みこみ、自分の考えを説明する。
「今の隊長、ラディレは『楽しそうなことを我慢できない』子供と一緒よ。準備が終わり次第出発しかねないわ。そして副隊長であるレアジアは自分の研究時間のために面倒なことは先に終わらせるタイプ。チェガとローゼスは流されやすいし、入るかどうかわからないティークくんはストッパーにはなれない」
「……なるほど」
理解は示したが、納得がいっていない様子のシラハ。能力は高いのだが、いまいち精神にムラがある――その報告を思い出し、ユアラは内心やる気が出てきていた。そもそも、学院長になったのだって、『次世代の人間を教え導く』存在になりたかったからだ。迷う年若き少女を教育するのも、自分の役割である。
「まあ、結果は来週出るでしょう。引き続き監視しなさい、シラハ」
「はっ」
音もなく姿を消したシラハ。ユアラはこの後の予定を思い出しながら、運動場を後にするのだった。