神の死
「狒神は死んだ。殺したのはわしだ」
月人は天気の話でもするかの様に、何事もない様子で語った。流れる様な仕草でこぽり、と傾けた瓢箪から酒が注がれる。反対に、マナカは月人の言葉から稲妻に打たれたような衝撃を受けていた。
(狒神様が、神が死んだと言うの?!)
マナカは誰に聞いた訳でも無かったが、神は人の理から外れた存在であり、不死性があると信じて疑っていなかった。マナカが生まれる遥か昔より祭が行われていた事を鑑みれば、それはある意味では正解であった。
今しがた聞いた言葉が信じられず、更には否定して欲しくて、必死に月人を見るが、月人がマナカを謀っている様子や冗談を言っている気配はちらとも見当たらない。自身の常識が覆される。それに、恐怖を感じていた。
「それでは、『祭』は、オチの村は、どうなるの?」
呟くように問えば、くく、と可笑しそうに笑みをこぼした月人が答える。
「それこそワシの知るところではないなぁ。あの狒神がどういった誓約で人間なんぞに加護を与えていたのか知らんが、まあ、あの頭の足りぬ狒々どもでは役に立たんことは確かよ。それどころか、首魁を失っていつ暴走するか知れぬ」
月人はちらと、マナカを見やって残酷な言葉を続ける。
「お前の村の女達は残さず攫われ犯され食われるかもしれんなぁ。男達は身体を引き裂かれ、戯れに生きたまま臓物をすすられ、見せしめに晒されるかも知れんなぁ」
見る間に青ざめていくマナカを肴に、月人はごくりと酒を呷る。
「そんな…貴方様が狒々神様の代わりに村を守ってくれるんじゃないんですか?」
マナカは余りに恐ろしい言葉の羅列に恐怖しながら、眼前の神に縋るが、神はそんなマナカを嘲笑うだけだ。
「何故ワシがそんな面倒くせえことをしなきけりゃならねぇ?」
「だって自分が狒神様を殺したって…」
「ワシはワシに喧嘩を売ってきた奴をぶっ殺してやっただけよ」
「そんな!祭の供物だって受け取ってるじゃないっ」
「間抜けな人間どもが勝手に置いていっただけじゃねぇか。自分達の神がとっくにぶっ殺されてるとも知らずになぁ」
月人は瓢箪に残った酒を逃すまいと、口を開けて舌を伸ばし、瓢箪を高く掲げて最後の一滴をすする。
「それに寄越したのがこんな小便臭え餓鬼一匹じゃ話にならねえ。ワシはあの狒神と違うからな。これじゃたつもんもたたんわ」
マナカは意を決して唐突にがばり、と土下座し、頭を下げた。
「お願い。私はどうなっても、私のこと食べていいから村を守って下さい!」
「ああ?」
「他に必要な事は何でもします!お願いします!」
月人は呆れたようにマナカを見下ろすが、当のマナカは額を地面にこすりつけていて、それに気づかない。
「餓鬼が。手前にそんな価値はねぇ」
「じゃあ、何で私の事手当てなんかしたのよ!」
下げた時と同様にがばり、と頭をあげてマナカは叫んだ。月人はその言葉を受け、少しだけ思案してから言を紡ぐ。
「……この祭にちいとばかし興味があったからな。だが、手前は大したこと知らねえみてぇだし、もう興味はねぇ。狒神の真似事も面倒くさそうだ。三年も気長に待ってられるか。この酒も三年に一度のお楽しみなら、ある分だけ呑み尽くして、後はまあ気が向いたら村を襲い、女どもを好きなだけ慰み者にしたら、また他所にいくだけよ」
マナカは月人の言葉に落胆し、俯いた。自分の無力さに目頭が熱くなってくる。心の何処かで期待していたのだ。自分を看病してくれたこの神は、『いい神様』なのではないかと。馬鹿だ馬鹿だとはわかっていたが、本当に自分は愚かだ。自分には食べるだけの価値も無いらしい。村人らがこの神に蹂躙され、その中にマナカの家族やリシンやオババがいるところを想像すれば、悔しくてじわりじわりと涙がこみ上げてくる。何のために自分はここに来たのか、ここ数ヶ月家族の仕打ちに耐えてきたのは何だったのだろうか。
その様子を見ていた月人は、ふむ、と瓢箪を脇に置いてマナカに近づいた。
マナカははっと、身を強張らせて身構える。咄嗟にやはり、食べられるのかと思って目をきつく瞑ればその眦をべろり、と月人の舌が舐めていった。
びっくりして、目を大きく見開けば、近くにある神がしげしげとその眼を覗いていた。
「アキよ、その目は何だ?」
マナカは、何のことか分からず、目?と手を目元に彷徨わせる。陽の光に耐えられないこと、夜目が異常に効くこと、カガメ様が黒々とした目、と言っていたことが思い返されるが、自分で自分の目を確かめる術を持たぬマナカは、やはり何かおかしいのだろうか、とただ混乱するばかりだ。
「まるで猫のように眼が開いておる。人間の中には手前のような者もいるのか?」
「いや、多分これは何かの薬で…」
「何のためにその様な薬を使った?」
マナカは、言っていいものかどうか迷い言い淀む。村人や狒神を謀るため、と告げて良いのだろうか。どう考えても目の前の神は、狒神や約定とは関係ないもののように思うが、それでも村や神を謀ろうとしていた事が知れることに本能的に抵抗を感じていた。
月人は言い淀むマナカの頤を掴んで上をむかせると、今度は先程とは反対側の眦をべろり、と舐めた。
「ひぃゃ」
マナカは短い声を上げる。突拍子もない月人の行動にただ困惑し、神が何かを吟味するように口の中で舌を転がした後、白い自身の唇をぺろり、と舌なめずりする様を呆然と眺めていた。
「…やはり、懐かしい味がする」
「はあ、」
「手前はまだ何かを隠しているようだな。くく、小娘の浅知恵も暇つぶしには丁度いい」
「……はあ」
マナカはもう、何が何だかんだ分からず間の抜けた返答を繰り返していた。
「手前はこのワシや狒々どもから村を守りたい、違うか?」
マナカははっとして、月人をまじまじと見つめた。金色の瞳の奥に隠された意図を必死で探ろうと目を凝らす。
「ワシは退屈なのは嫌いだ。今は酒もあるし、狒々どもと遊ぶのも暇つぶしに丁度いい。だが、酒が尽きたり、狒々どもに呆れば、早晩村を襲うて一通り楽しんでから他所へ行く」
マナカはこっくりと頷く。神の良心に縋る気はもうない。マナカが払える対価があるかどうか、それだけだ。
「ワシが女を襲うのは狒神のように種付け目的じゃねえ。ワシは女の涙を啜るのが酒の次に好きでな」
マナカは混乱しながらも再びこっくりと頷いた。とにかく今は機嫌よく喋る神の言葉を一言一句漏らすまい。
「特に絶望と恐怖を貼り付けた女子を無理矢理鳴かせる時の涙が好物でな。その為に番いの男や子供をわざと嬲り殺す事もある」
マナカの目が据わる。とっくに期待は裏切られていたが、それでもあまりに悲惨なその光景を想像して、静かな怒りと憤りを感じていた。
マナカは神の供物として食べられる覚悟があった。だが、そこにはマナカが何がしかを食べる時に感じていた自然の恵みに対する感謝の心があると、信じて疑っていなかった。現実の神はこんなにも簡単に、残酷に人の命を奪うと言う。ただ、涙を啜りたいが為に。
「だが、それを待ってやってもいい。手前がワシを楽しませろ」
マナカは神が自分に何を求めているか掴めず、ただぱちくりと目を瞬かせた。
「それは、その、つまり…」
男女の営みの事など、友人が一人しかおらず成人前であるマナカには殆ど未知の領域だ。ただ、先ほどの月人の言葉や乏しい知識から、目の前の神に無理矢理組み敷かれる自分を想像して、不安と恐怖と羞恥が綯交ぜになる。
だが、マナカの心を読んだのか、「図々しいぞ。餓鬼が、身の程を知れ」と月人に一蹴されれば、見当違いの、それも恥ずかしい方向に向かっていた自分に居た堪れず、身を縮こめた。
「じゃ、どうすればいいの?」
「そんなこたぁ手前で考えやがれ。……とまあ、言いたいところだが、取り敢えずワシは手前の涙が啜りたい。面白いし、懐かしい味がする。その正体が分かるまではそうだな、酒もあるし、退屈せんだろ」
まあ、飽きたらそれまでだがなぁ、と続けて不穏な事を呟く神に、マナカは心の中で悪態をつく。
(そんな事言ったって、涙なんて簡単に出てこないよ!)
それに飽きられたら終わるとあっては、毎日泣いていればいいという物でもない。
最後に泣いたのはいつだっけ?と過去に思いを馳せる横で、白い神はにたにたと笑った。




