朱筆の処刑人は、ポンコツ騎士団長を差し押さえたい
グラン・ドール王国財務局、特別査察部。分厚いマホガニーの扉の向こう側は、今日も死神たちの静かな戦場だった。
「あなたの主張する『見えざる大金庫』ですが、魔力査定レンズを通せば裏庭の噴水の下に三千万ゴルド相当の魔力残滓がはっきりと視認できます」
「第七条三項違反により、あなたの邸宅、馬車、そしてその無駄に豪華なカフスボタンまで、すべて王国の資産として没収します」
ゼノビア・クレイン特別査察官は、艶のない漆黒の髪をタイトにまとめ、銀縁の丸眼鏡の奥で一切の感情を交えずに言い放った。
手元の革張りバインダーに挟まれた書類へ、純銀製の万年筆が滑る。血よりも赤い魔力インクが一筋の線を引いた瞬間、目の前で丸々と太ったゴルディッシュ伯爵の顔から血の気が完全に失せた。
「おのれゼノビアめ、次こそは完璧な脱税ルートを構築してやるからな!覚えておけ!」
泣き叫びながら連行されていく伯爵を視界の端から追い出し、ゼノビアは冷めた紅茶で喉を潤した。
泣く暇があるならインクの無駄を省くべきだ。計算が合わない事象、とりわけ人間の不合理な感情や無駄遣いほど、彼女の胃袋を冷たくするものはなかった。
「ひっ、主任……お疲れ様です……」
背後から、ひどく遠慮がちな声がかけられた。
新人査察官のシリル・ノックスだ。
色素の薄い亜麻色の髪を揺らし、サイズの合わない大きな鞄を抱えた彼は、今にも倒れそうな顔で数種類の胃薬を水なしで飲み込んでいる。
「シリル。次の案件の帳簿ですか」
「はい……。ですが、これは……その、心してご覧ください。私の胃がすでに破裂寸前です」
シリルが震える手で差し出した分厚いファイルを開き、ゼノビアは丸眼鏡の位置を中指で押し上げた。そこに記されていたのは、王国最強にして美貌の第一騎士団長、イグナート・ヴァルデリオン公爵令息の財務状況だった。
ページをめくるたび、ゼノビアの端正な顔立ちが能面のように凍りついていく。
孤児院への過剰すぎる寄付。
部下全員への高級レストランでの奢り。
極めつけは、実用性ゼロの無駄に光る魔剣の度重なる購入記録。
負債総額は、控えめに言って小規模な国家予算を揺るがすレベルに達していた。
「彼は、算数ができないのでしょうか?」
ゼノビアの極寒の声に、シリルがヒッ、と短い悲鳴を上げて一歩後ずさる。
「このまま放置すれば、第一騎士団の予算枠はおろか国庫にまで深刻なダメージを及ぼします。ただちにイグナート団長の身柄と今後の給与、そのすべてを差し押さえます。シリル、執行同意書の準備を」
朱筆の処刑人が、ついに王国最大の不良債権へとメスを入れた瞬間だった。
***
第一騎士団の兵舎は、王都の中心部にありながらどこか浮世離れした空気を漂わせていた。
だが、ゼノビアとシリルがその堅牢な門をくぐり、執務室の扉を開けた瞬間、その空気は一変した。
「ああ、神よ!ついに財務局が動いてくださったのですね!」
執務室の床に両手をつき、ほとんど五体投地に等しい姿勢で出迎えたのは、第一騎士団副団長のレオンハルト・ヴィント男爵令息だった。
きっちりと撫でつけられた濃茶の髪の下で、実年齢より老けて見える鋭い三白眼が歓喜の涙で潤んでいる。
「ゼノビア査察官、どうかあの馬鹿を一生差し押さえておいてください。慰謝料なら私の給料から天引きで構いませんので」
「レオンハルト副団長、お立ちください。制服が汚れますし、私は処刑人であって廃品回収業者ではありません」
ゼノビアが淡々と応じ、執行同意書を机に置いたその時だった。
「おお、愛しのゼノビア!君のその冷ややかな視線は、今日も私の心を貫く聖槍のようだ!」
鼓膜を揺らすような朗々とした声と共に、執務室の奥から太陽が歩いてきたかのような錯覚に陥った。
無造作な金髪と琥珀色の瞳を輝かせ、無駄に宝石が埋め込まれた特注の鎧をガチャガチャと鳴らしながら現れたのは、第一騎士団長イグナート・ヴァルデリオン公爵令息その人である。
シリルがその眩しさと鎧の総額を瞬時に計算し、ひゅっと息を呑んで胃薬の瓶を握りしめた。
「イグナート団長。本日はあなたに重要なお知らせがあります」
「私への愛の告白だろうか?君の口から紡がれる言葉なら、どんな罵倒でも甘露の響きだ!」
「あなたの現在の負債総額は、我が国の小規模な防衛予算に匹敵します」
ゼノビアの抑揚のない声が、イグナートの熱烈な台詞を冷ややかに一刀両断した。
「さらに、あなたが身に纏っているその悪趣味な鎧の代金も、いまだ支払われていないことを確認しています」
「よって、王国財務局特別査察部の権限に基づき、あなたの給与、全財産、ならびにあなた自身の身柄を、この瞬間をもって差し押さえます」
ゼノビアが純銀の万年筆を抜き、同意書を指し示す。
レオンハルトが背後で「やれ!もっとやれ!今すぐサインさせろ!」と声にならない声で祈りを捧げている。
「抵抗や逃亡は無意味です。大人しくこの書類にサインを」
冷徹な宣告。誰もがイグナートの絶望と抵抗を予想した。
だが、当のイグナートはなぜか目を極限まで輝かせ、ゼノビアの前に恭しく跪いたのである。
ゼノビアの前に跪いたイグナートは、その大きな手で彼女の隙のない手をとろうとした。
「触れないでください。差し押さえ品の価値が下がります」
ゼノビアが分厚いバインダーでその手を物理的に叩き落とす。
しかしイグナートは痛がるどころか、琥珀色の瞳をさらに輝かせ、恍惚とした表情を浮かべた。
「私の全財産、給与、そしてこの身柄さえも君の管理下に置くというのか。ああ、ゼノビア!それは実質的なプロポーズだな!」
「直ちに脳の検査をお勧めします。これは王国法に基づく強制執行です」
「待ってくれ。王国財務法第十五条にはこうあるはずだ。『重債務者の身柄は、法的な身元引受人が現れた場合、その厳格な監督下に置くことで労役による返済を許可する』と」
イグナートは立ち上がり、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「つまり、君が私の妻という名の身元引受人になれば、私は地下牢行きを免れ、魔獣討伐の高額報酬で借金を全額返済できる。国庫の損失は防がれ、君も私という愛の奴隷を手に入れられる。完璧な計画だ!」
「ちょっと待ってください、団長!何を言い出すんですか!」
シリルがたまらず悲鳴を上げたが、ゼノビアの脳内ではすでに高速で計算が弾き出されていた。
イグナートをこのまま投獄し資産を差し押さえたとしても、彼の現在の資産価値では到底負債をカバーしきれない。
彼はただの無給の囚人となり、莫大な負債は完全に焦げ付いて国庫の損失となる。
だが、彼を合法的に管理し、その規格外の武力で高難易度の任務を強制的にこなさせれば、数年で負債の回収は可能だ。
ゼノビアは丸眼鏡を中指で押し上げ、万年筆のペン先を書類に走らせた。
「……極めて合理的な提案です。借金完済までの期間限定、かつ財産権の完全放棄と私の絶対的な管理下に入ることを条件に、婚姻契約による身元引受を承諾します」
「主任!?正気ですか!相手は歩く巨大不良債権ですよ!」
「これは国庫を守るための回収業務です。シリル、役所への特例婚姻届の提出と、団長の二十四時間強制労働スケジュールの作成を」
ゼノビアが淡々と書類にサインをする横で、シリルはついに三種類目の胃薬を致死量すれすれまで飲み込んだ。
一方、執務室の隅ではレオンハルト副団長が「神よ、この慈悲深き死神に圧倒的な祝福を……!」と床に突っ伏したまま、天に向かって咽び泣いていた。
***
ゼノビアの私邸は、王都の一等地にあるにもかかわらず、生活感が完全に欠落した無機質な空間だった。家具は必要最低限、装飾品は皆無。そこにイグナートが持ち込んだ荷物が運び込まれようとしていたが、玄関先で即座に検閲が行われた。
「その純金製の傘立ては没収、競売へ。無駄に宝石が埋め込まれた靴べらも没収。こちらの絵画は……趣味が悪すぎるので燃やした方がマシですが、一応査定に回します」
ゼノビアは一切の容赦なく、次々と夫の私物に朱筆で差し押さえの札を貼っていく。
「ああ、君に私のすべてを剥ぎ取られるなんて最高の気分だ!もっとだ、ゼノビア!私の魂まで査定してくれ!」
怒るどころか恍惚とした表情で両手を広げるイグナートに、ゼノビアは冷たい視線を浴びせた。
「魂には市場価値がありません。明日からあなたは北の山脈でSランク魔獣の討伐任務です。報酬はすべて国庫とあなたの返済口座に直行します」
「君への愛を証明するためなら、魔獣の百匹や二百匹、瞬きする間に屠ってみせよう!」
大型犬のように尻尾を振るイグナートを無視し、ゼノビアは順調に減っていくはずの借金返済シミュレーションを見て、わずかに口角を上げた。この調子で強制労働させれば、三年で完済し、綺麗に離婚できる。
しかし翌朝、出勤したゼノビアの執務室に、シリルがこの世の終わりのような顔で駆け込んできた。
「主任……!だ、ダメです……!奴は、イグナート団長は正真正銘の化け物です……!」
「落ち着きなさい、シリル。魔獣にでも食われましたか。労災は下りませんよ」
「違います!昨日、主任が特例婚姻届にサインした直後、あの馬鹿……いえ、団長が悪徳商人から法外な値段で買い物を!」
シリルが差し出した新たな請求書を見て、ゼノビアの銀縁眼鏡がカチャリと音を立ててズレた。
流石に冷徹な彼女も指先がわずかに震えて、万年筆のインクが紙にポタリと落ちる。
「……特注の魔力インク、一瓶で一千万ゴルド?どういうことですか」
「君の美しいサインを支えるインクだぞ!あの歴史的瞬間に立ち会った万年筆のインクは、もはや国宝級の価値がある!」
いつの間にか執務室に現れたイグナートが、胸を張って堂々と宣言した。ゼノビアは静かに万年筆を置き、極寒の視線を突き刺す。
「そもそも、なぜあなたはまだ王都にいるんですか。今日の魔獣討伐任務はどうしたんですか」
「愛する妻を残して辺境へなど行けるはずがないだろう!」
「なぜ借金が増えているんですか。インクなど経費で落ちませんよ」
「経費などという無粋な枠に、我々の愛を押し込めるつもりはない!私は君の愛の重みを、借金という形で背負い続けると決めたんだ!」
呆れ果ててため息をつこうとしたゼノビアだったが、ふと請求書の発行元に目を留めた。
「……黒フクロウ商会。ここは確か、ゴルディッシュ伯爵の不正な資金移動の経由地として、我が部が以前からマークしていたダミー商会の一つですね」
ゼノビアの声音からわずかに温度が消えた。単なる任務放棄と無駄遣いに対する怒りではなく、点と点が線で繋がる気配を察知したのだ。
「団長。あなたはなぜ、わざわざこの特定の商会から、この特定のインクを買ったのですか?」
「ん?店先で最も魔力が強く、君の瞳のように深く怪しい輝きを放っていたからだが?」
「つまり、全くの偶然で、伯爵の息がかかった商会から意味ありげな魔力インクを購入したと」
「愛の導きと言ってほしい!」
ゼノビアは冷たく言い放ちながらも、一切の感情を交えずに机の上の小瓶を手に取った。
「一千万ゴルドの魔力インク……。何度見ても胃がせり上がってきます。主任、本当にこれを競売にかけるんですか?」
シリルが青ざめた顔で小瓶を指差した。美しい装飾が施されたガラス瓶の中には、どろりとした深紅の液体が揺れている。
「当然です。少しでもあの不良債権の補填に回さなければ、我が国の未来が傾きます。まずは成分と魔力波長を特定し、適正な開始価格を設定します」
ゼノビアが銀縁の魔力査定レンズを指で押し上げ、小瓶に視線を落とす。レンズの奥で、インクが発する特有の魔力波長が赤い数値となって網膜に投影された。
その瞬間、常に一定のリズムを刻んでいたゼノビアの万年筆の動きが、ぴたりと止まった。
「……主任?」
「シリル。証拠品保管庫から、先週ゴルディッシュ伯爵の屋敷から押収した白紙のノートを持ってきなさい。今すぐにです」
シリルが慌てて持ってきたのは、強力な隠蔽魔法がかけられ、これまで物理的にも魔力的にも解読不能だった厄介な裏帳簿だ。
ゼノビアは迷うことなく、一千万ゴルドの魔力インクの蓋を開け、純銀の万年筆のペン先を浸した。
「ひっ!?主任、何をしているんですか!一千万ゴルドが減ります!」
「黙って見ていなさい」
ゼノビアが白紙のノートに一滴、深紅のインクを垂らす。
すると、インクは紙に染み込むどころか、まるで意志を持っているかのようにノートの上を走り出し、隠蔽されていた文字の輪郭を赤く縁取り始めた。
「こ、これは……!」
「ビンゴです。このインクの魔力波長は、ゴルディッシュ伯爵の裏帳簿にかかっていた隠蔽魔法と完全に一致しました。つまりこのインクは、文字を視認するための専用の鍵だったということです」
「じゃ、じゃあ、団長の無駄遣いが……捜査の最大の突破口に……?」
「結果論に過ぎませんが、極めて有益な無駄遣いでしたね。さあシリル、胃薬を追加で飲みなさい。これから徹夜でこの帳簿をすべて解読し、伯爵の隠し資産を丸裸にしますよ」
***
夜明け前、特別査察部の執務室には、万年筆が紙を走る音だけが響いていた。
「主任、計算が終わりました……。ゴルディッシュ伯爵の隠し資産総額、およそ五十億ゴルド。王都周辺に散らばるダミー商会と、地下の秘密金庫の場所がすべて判明しました」
血走った目でシリルが報告書の束を机に置く。彼の傍らには空になった胃薬の瓶が転がっていた。
ゼノビアは丸眼鏡を外し、目頭を軽く押さえた。
「ご苦労様でした。これで伯爵とその裏組織を完全に社会から抹殺できます」
「おお!我が愛のインクが、ついに君の役に立ったというわけだな!」
いつの間にか執務室のソファで熟睡していたイグナートが跳ね起き、無駄に輝かしい笑顔を浮かべてゼノビアの前に立った。
彼は昨日没収されかけた特注の鎧をまたしてもフル装備している。
ゼノビアは冷ややかな視線を向け、バインダーで彼の胸当てを軽く叩いた。
「勘違いしないでください。あなたがこの魔力インクと無駄に光る魔剣を買うために費やした金額で、国境の村に強固な防衛施設が三つ建ち、孤児が五百人救われました。あなたの浪費はそれほどまでに罪深く、国庫を蝕む重罪です」
具体的な数字と機会損失を突きつけられ、イグナートの笑顔が少しだけ引きつる。
ゼノビアは純銀の万年筆を彼に向けた。
「その罪深さを、今から物理的な労働で清算しなさい。魔獣討伐任務はキャンセルです。こちらの制圧を優先しなさい。場所は王都東区の廃倉庫群にある裏組織のアジトです」
「ただし、差し押さえ予定の資産に傷をつければ、修繕費はすべてあなたの借金に上乗せします」
「任せておけ。君の美しい帳簿を汚す害虫どもに、私の剣の錆となる栄誉を与えよう」
数時間後、王都東区の廃倉庫群。
五十億ゴルドの隠し資産を守る裏組織の精鋭部隊は、突如現れた一人の騎士を前にして完全に凍りついていた。
「な、なんだこいつは……化け物か……!」
傭兵のひとりが震える声で呟く。
彼らの足元には、すでに数十人の仲間が血を流して倒れ伏していた。
そこに立つイグナート・ヴァルデリオンは、ゼノビアの前で見せる愛の奴隷のような顔を微塵も残していなかった。
琥珀色の瞳は極寒の氷のように冷たく濁り、一切の感情を排した絶対的な捕食者の目をしている。
無駄に装飾が施された魔剣から滴る血を無造作に振り払い、彼はただ静かに、そして圧倒的な恐怖の化身として一歩を踏み出した。
「動くな。それ以上ゼノビアの資産価値を下げるような真似をすれば、四肢を切り落としてから財務局に引き渡すことになる」
地を這うような、絶望の底に引きずり込まれるような低い声。
王国最強と謳われる第一騎士団長の真の姿がそこにあった。
一切の無駄がない剣さばきで、残る傭兵たちの武器だけを正確に弾き飛ばし、瞬きする間に全員の意識を刈り取っていく。
安全が確保された後、悠然と現場に足を踏み入れたゼノビアとシリルは、無傷の金塊の山と、恐怖に顔を歪めたまま白目を剥いて倒れる悪徳商人たちを見下ろした。
「素晴らしい制圧速度と、完璧な資産保護です。イグナート団長、あなたを差し押さえ物件として手元に置いた私の判断は、極めて正しい投資でした」
「おお!ゼノビア!君のその冷たい褒め言葉だけで、私は三日三晩戦い続けられるぞ!」
一瞬にしていつものポンコツな笑顔に戻った夫を無視し、ゼノビアの純銀の万年筆が次々と押収品目録に朱色のチェックを入れていく。
彼女の借金まみれの夫がもたらした最大の成果が、今、完全に王国財務局へと回収された瞬間だった。
***
ゴルディッシュ伯爵とその裏組織の歴史的な大摘発から数日後。
ゼノビアの生活感のない私邸のダイニングテーブルには、二枚の真新しい書類が並べられていた。
「ゼノビア!今日も君の冷徹な美しさは、朝露に濡れた氷の薔薇のようだ!」
無駄に爽やかな笑顔で現れたイグナートが、椅子に座るゼノビアに向かって両手を広げる。
しかし彼女は一瞥もくれず、純銀の万年筆で書類の端をトントンと叩いた。
「お座りなさい。あなたに重要な通達があります」
「おお、ついに愛の営みの時間か!」
「五十億ゴルド規模の隠し資産摘発という未曾有の功績により、王国財務局から私に対し、莫大な特別報奨金が支払われました」
ゼノビアは抑揚のない声で事実だけを告げ、テーブルの上の書類を一枚、彼の方へ押し出した。
「私はその報奨金をもって、あなたの抱えていた負債を全額、国庫へ一括納入しました」
「……ん?全額?」
イグナートの琥珀色の瞳がパチクリと瞬きをする。
「はい。あなたの負債は現在、完全にゼロです。よって、借金完済を条件としていた身元引受契約、すなわち特例婚姻はこれをもって終了となります。こちらの『借金完済証明書』と『離婚届』の確認をお願いします」
ゼノビアが純銀の万年筆を差し出した瞬間、イグナートの顔からスッと表情が抜け落ちた。
「契約通り、あなたは自由の身です。第一騎士団の予算も正常化されるでしょう。短い間でしたが、債権回収へのご協力に感謝します。ごきげんよう」
完璧な事務処理を終えたゼノビアが席を立とうとした、その時だった。
「嫌だァァァァァァ!!」
イグナートが鼓膜を揺らすほど絶叫し、ダイニングテーブルに突っ伏して号泣し始めた。
「借金が!君と私を繋ぐ愛の鎖が!自由なんていらない、私は永遠に君の債務者でありたいんだ!」
「近所迷惑です。大人しくサインをして出て行きなさい」
「サインなどするものか!そうだ、今すぐ王都の裏路地に行って、怪しい商人から『絶対に呪われる壺』を三千万ゴルドでローン払いしてくる!いや、騎士団の兵舎を純金で建て替える契約を結んでこよう!」
狂乱した王国最強の騎士が、本気で新たな借金を作るべく、開け放たれた窓枠に足をかけて飛び降りようとする。
新たな借金という名の自由へのダイブを試みた第一騎士団長の顔面を、分厚い革張りのバインダーが物理的に叩き落とした。
「ぐはっ!」
「無駄な足掻きはやめなさい。網戸の修理費が嵩みます」
床に転がったイグナートを見下ろし、ゼノビアは静かにため息をついた。
そして、手元のバインダーからもう一枚、真新しい書類を抜き出して彼の目の前に突きつける。
「これを読みなさい」
「……『特別査察部・専属護衛官の終身雇用契約書』なんだこれは? 書式がどう見ても王国の正式な婚姻届と同じじゃないか」
鼻を押さえながら書類を見上げたイグナートに対し、ゼノビアは銀縁眼鏡の奥で極めて冷静な光を放った。
「今回の一件で証明された通り、あなたのその異常な悪運と暴力…… いえ、武力は、私の査察業務において極めて有益かつコストパフォーマンスが良いと判断しました」
「よって、財務局の権限ではなく、私個人の意志として、あなたを生涯の専属護衛として再契約します」
ゼノビアは抑揚のない声のまま、純銀の万年筆をイグナートの胸元へ放り投げた。
「今後の小遣いは月額銀貨五枚に増額します。ただし、一ゴルドでも無駄遣いをすれば即座に契約破棄です。サインを」
それは朱筆の処刑人が下した、事実上のプロポーズだった。
イグナートの琥珀色の瞳から、大粒の涙が滝のように溢れ出した。
彼はゼノビアのその冷徹な態度とは裏腹に、耳の先だけが真っ赤になっているのを見逃してはいなかった。
「ああ、ゼノビア!君のその合理的で冷酷な愛の形、一生かけて返済し続けてみせる!」
感涙にむせび泣きながら、イグナートが立ち上がってゼノビアを力強く抱きしめようと飛びかかる。
しかしゼノビアはそれを無駄のない動きであっさりと躱し、空を切った最強の騎士は再び床へと盛大に突っ伏した。
「触れないでください。ジャケットにシワが寄ります」
「その冷たさも最高だ!今すぐサインしよう!」
「……利息は高くつきますよ。覚悟しなさい」
少し開いたドアの隙間では、一部始終を見守っていたシリルが「借金ゼロ……本当に借金ゼロの平和が来た……!」と真新しい胃薬で祝杯を挙げていた。
その横では、第一騎士団副団長レオンハルトが「どうか、どうか一生その馬鹿の面倒を見てやってください!」とこの日三度目となる五体投地を決めている。
借金完済という最大の危機を乗り越え、無駄遣いを禁じられた浪費家夫と、彼を合法的に飼い慣らした冷徹妻。
朱筆の処刑人とポンコツ騎士団長の、今度こそ終わらない、そして計算の合わない新婚生活が、ここに真の幕を開けたのだった。
(完)










