塗装工、足場から落ちたら異世界だった
大型プラントの外部足場、地上20メートルでの作業中――ほんの一瞬の不注意だった。
安全帯を掛け損ね、身体が宙に浮く。
真っ逆さまに落ちていく視界の中で、俺――黒金 匠は、職人としての未熟さを恥じながら意識を失った。
下地ばっかり気にして、自分の足場を疎かにしちまったな――。
それが、一級塗装技能士として15年現場を叩き上げてきた、俺の人生の終わりのはずだった。
◇◇◇
「――おい、大丈夫か? 生きているか?」
太い声に揺り起こされ、俺はガバッと跳ね起きた。
コンクリートの地面ではなく、柔らかな草の感触。見上げれば、これまで見たこともないほど澄んだ、異様に高い青空が広がっている。
「……ここは、どこだ?」
「おかしな格好をした男だな。街道の真ん中で倒れていたのだぞ」
声をかけてきたのは、鎧を着た筋骨逞しい男――兵士だった。その後ろには、豪華な装飾が施された大きな馬車が停まっている。
俺は自分の身体を見回した。
着慣れたシンナー臭い作業着のまま。腰には、使い込んだハケやローラー、スクレーパーが詰まった釘袋(工具袋)がぶら下がっている。道具も身体も、あの現場にいた時のままだ。
ただひとつ違ったのは、頭の中に、見知らぬ力がカチリとインストールされている感覚だった。
【固有能力:万物塗装】
あらゆる物質に魔力の塗料を塗り、特性を付与する力。
どうやら俺は、あのまま死なずに、塗装の能力を持たされてこの奇妙な世界へ放り出されたらしい。
「ああ、なんてことでしょう……。やはり、この『呪いの鉄格子』は破れないのですか……!」
馬車の陰から、悲痛な声が聞こえた。
仕立ての良いドレスを着た、美しい金髪の少女――リーゼロッテが頭を抱えている。
彼女たちの前には、山道のトンネルを完全に塞ぐように設置された、巨大な黒い『鉄格子』があった。格子からは、ドス黒い、禍々しいオーラが立ち上っている。
「リーゼロッテ様、危険です! 下がってください!」
「この『深淵の呪い』は、触れる者すべての命を吸い尽くす魔王軍の結界……! 我々結界術師の光魔法でも、中和しきれません!」
白装束を着た術師たちが、必死に杖を掲げて光を放っている。
だが、その光は黒い鉄格子に触れた瞬間、ジュウと音を立てて消滅してしまった。
「くそっ、この街への流通経路が遮断されたままだと、我が領地は完全に破産してしまいます……!」
リーゼロッテが涙を浮かべる。
俺は、その『呪いの鉄格子』の前に歩み寄り、じっとその表面を観察した。
顎をさすり、指先で黒いオーラに少しだけ触れてみる。
途端に、俺の脳内へ【万物塗装】を通じて『物体の正確なデータ』が流れ込んできていた。
「……おいおい、大層な名前がついてるが」
俺は、思わず呆れた声を出した。
「これ、呪いでも何でもねえよ。ただの『激しい赤サビ』と、魔力の『経年劣化』じゃねえか」
「は……? 何を言っているのですか, あなたは」
涙目を丸くしたリーゼロッテが、俺を見る。
「見てみろお嬢ちゃん。この黒いオーラ、一見禍々しいが、成分はただの酸化鉄だ。前に入った結界魔法の油分が紫外線でチョーキング(白亜化)を起こして粉を吹き, そこに雨水が溜まって中から腐食してる。要するに、下地処理をサボって何年も放置したから、こんなボロボロになってんだよ」
「ちょ、チョーキング……? サビ……?」
術師たちが呆然とする中、俺は腰の釘袋から、使い込んだ金属製のスクレーパーとワイヤーブラシを取り出した。
「お、おい! 触れたら呪いで肉が腐り落ちるぞ!」
「職人をナメんな。いくら禍々しい呪いだろうがな、浮いたサビを落とさなきゃ、どんな魔法(上塗り)も密着しねえんだよ。……だが、その前にだ」
俺は周囲を見回し、深くため息をついた。
鉄格子の高さは5メートルほどある。術師たちは地面から見上げるように魔法を放っていた。
「お前ら、こんな高所の作業を、足場も組まずに下からやってたのか? 届くわけねえだろ。ハケ目が狂うし、何より危ねえだろうが」
「あ、足場……? 我々は浮遊魔法で少し身体を浮かせて――」
「バカ野郎!!」
俺の怒声に、術師たちがビクッと肩を揺らす。
「浮遊魔法が何かの拍子に解けたらどうすんだ! 俺はな、高所から落ちて一回死にかけてんだよ! 職人の命を守るのは魔法じゃねえ、ガチガチに組まれた足場だ!」
俺は自身の魔力を練り上げ、地面へと叩きつけた。
塗装工としての執念が、固有能力を媒介にしてカタチを成す。
「――【安全第一】!」
ガガガガガンッ!!!と激しい金属音が響き、鉄格子の周囲に、頑強な鋼の『単管足場』が組み上がっていく。墜落防止のメッシュシートまで完璧に張られた、安全基準を完全にクリアした完璧な足場だ。
「な、なんだこれは……鉄の骨組みが瞬時に!?」
「よし、足場ヨシ! 安全帯ヨシ!」
俺は腰の道具袋をパチンと叩いて指差呼称すると、軽やかな足取りで足場を駆け上がった。鉄格子の最上部、呪いの特等席へと一瞬で到達する。
「行くぞ。――【超音速ケレン(ブラスト・バスター)】!」
ガリガリガリガリッ!!!
俺の手が残像になるほどの超高速で動き、ワイヤーブラシが鉄格子を削る。
スキルによって強化された摩擦力が、鉄格子の表面にこびりついた「黒い呪い(サビ)」を、ミクロン単位で完璧に削ぎ落としていく。
「なっ……呪いが、削られていく……!?」
「バカな、あらゆる聖魔法を弾いた『深淵の結界』だぞ!?」
数分後、あれほど黒く染まっていた鉄格子は、完全に一皮剥け、鈍い銀色の地肌を露出させていた。
「よし、一種ケレン完了。おいお嬢ちゃん、ちょっと場所を外せ。今から吹き付けるから、巻き添え食らいたくなきゃブルーシートの外に出ろ」
「え、あ、はいっ!」
リーゼロッテは気圧されたようにコクコクと頷き、後ろへ下がった。
俺は釘袋から、手元にあった適当な液体を1斗缶に入れ、脳内のスキルで『2液型エポキシ樹脂魔力塗料』へと一瞬で変換、主剤と硬化剤を素早く混ぜ合わせた。
「気温は22度、湿度は45%。絶好の塗装日和だ。可使時間は40分……一気に行くぞ」
背負った魔力コンプレッサーのスイッチを入れる。手にしたスプレーガンの銃口が、青白く輝く。
「いくぞ、これがプロの『上塗り』だ。――【一発隠蔽】!」
シューーーーーーーッ!!!
激しい噴射音と共に、純白の魔力塗料が鉄格子に吹き付けられていく。
ムラなく、ダレなく、規定の膜厚を完全に保った神業の吹き付け塗装。塗料が触れた瞬間、鉄格子に残っていた微細な呪いの残滓が、圧倒的な「隠蔽力」によって完全に窒息し、消滅していった。
さらに俺は能力を重ねる。
「――【完全硬化】」
本来なら数時間はかかる乾燥時間が、一瞬で凝縮される。
ツヤのある、美しい、陶器のような純白の門が、そこに完成した。
「……よし、指触乾燥(表面の乾燥)ヨシ。これで100年はサビねえし、いかなる闇属性の魔法も通さねえ『耐候性フッ素コート門扉』の完成だ」
足場をトントンと降り、スプレーガンを腰に戻して汗を拭う。
周囲は、静まり返っていた。兵士も術師も口をあんぐりと開けて固まっている。
「あ……あ……」
リーゼロッテが震える足で純白 of 門に近づき、そっと手を触れた。
先ほどまで命を吸い尽くす結界だったものが、今は心地よい、聖なる魔力を放つ強固な障壁へと生まれ変わっていた。
「素晴らしい……! 美しいだけでなく、王都の大結界を遥かに凌駕する魔力密度……! あなた、一体何者なのですか!?」
「俺か? 俺はただの塗装工だ」
首を傾げるリーゼロッテに、俺はニヤリと笑って言った。
「家、城、武器、結界。何でもござれだ。ボロボロの異世界なら、俺が全部綺麗に塗り替えてやるよ」
これが、後に『神のハケを持つ男』と呼ばれ、異世界のすべてを塗り替えることになる俺の、新しい現場の始まりだった。




