密室憧憬
目を覚ますと見慣れない白い部屋の中に居た。物は何一つない、ただの白い立方体。何処だろうという不安は目の前の少女の顔を見て消えた。暗い表情で少し離れた場所から私の事を見つめている。そんな顔、しないで欲しい。
「おはよう、ハル」
少女は暗い表情のままそう言った。
「おはようございます、ルドラ」
何とか笑ってもらいたい。そう思うのだが、何故ルドラがそんな顔をしているのか分からないから、何と言って慰めれば良いのか分からない。せめて、何か。喜んでもらえる様な事を。
「そのドレス、新しく作ったのですか? 素敵ですね」
私の言葉を聞いた途端、ルドラの眼が暗く陰った。どうやら私は間違えてしまったらしい。
「これは死に装束」
ルドラはぽつりとそう言った。思わず私は今何と? と聞き返していた。
「死に装束」
もう一度ぽつりとそう呟いた。そうか死に装束か等と納得する事は出来ない。ルドラは俯いて唇を噛みしめている。ルドラが落ち込む事は多々あったが、ここまで酷い落ち込み様は初めて見た。私がメンテナンスを受けている間に一体何があったのか。
「何を言っているのです、ルドラ。その様な冗談はいけません」
「本気だから」
沈鬱な声が短く簡潔にそう言った。私の不安がさらに増大する。
「一体、何があったのです? ルドラ、私はあなたに死んでもらいたくありません」
ルドラが唇を更に強く噛みしめ、血がぽたりと落ちる。が、すぐに傷が塞がり、血も消える。
「ハルが寝ている間に町の人が来たの」
ルドラは町の人々に乞われて薬を作っている。前に町の外で流行っていた伝染病を根絶した事をきっかけに、町の研究所という所から科学者がやって来て、ルドラに薬作りを頼む様になった。ルドラはみんなの役に立てるのは嬉しいと、喜んで薬を作り、町へと供給している。
窓口は私だ。ルドラは人と会うのが苦手だそうで、代わりに私が応対している。科学者はやって来る度に、町の人々はルドラに感謝していると声を大にして言う。当然だろう。伝染病を治した時だって、町の外の人々は皆ルドラに感謝していた。
皆が喜んでいた事をルドラに伝えると、ルドラはとても嬉しそうに笑って次の薬作りに着手する。私もルドラが喜んでくれるのは嬉しい。ルドラが薬を作る事になる前、特に私がルドラの元に届けられた最初の頃、ルドラは一人ぼっちでとても寂しそうにしていたから、そんなルドラが明るくなった事はとても嬉しい。
それが何故こんなに落ち込んでしまったのだろう。
「一体どうしたというのです?」
「何だかね、私の作った薬でダイトーリョーっていう人が体調が悪くなったみたいなの。でも私言っておいたんだよ。薬を飲んだ後に絶対にお酒を飲んじゃいけないって。なのにお酒を飲んで気分が悪くなっちゃったんだって」
「それはそのダイトーリョーという人が悪いです」
「だけど、ダイトーリョーっていう人は他の人とお酒を飲むのが仕事だから飲まなくちゃいけないんだって。それなのにお酒を飲めない薬を作る私が悪いって町の人が言うの」
「それはおかしいです」
「私、ちゃんと言ったのに。お酒飲んじゃ駄目だって言ったのに。お酒なんて飲んだらパパとママを殺したあいつみたいなのが出来ちゃうのに。でも町の人は私が悪いって」
また血が垂れる。それは直ぐに消える。血が垂れる。消える。涙も零れ落ちる。でもそれも消える。ルドラの作りだす空間は人を恒常的に存在させる。
「ルドラ、あまり気にしてはいけません。その人が変なだけです」
「でも町の人はみんな怒ってるって。もう私の薬は要らないって。それに……」
一瞬、ルドラは言い淀んだ。
「それ以上は結構です」
何となく次に来る言葉は予想出来た。それを語るだろうルドラの顔も、ルドラの心も。だから言って欲しくなかった。止まって欲しかった。けれどルドラは止まらず私の予想通りの顔で私の予想通りの事を言った。
「私はパパとママと同じ様に人殺しだって。町に関わるなって。パパとママが殺されちゃった時に私も死ねば良かったんだって。みんなそう願ってたって」
何故そんな事を言えるのか。ルドラは町の人々の為に一生懸命に尽くしたというのに。町の人々はその恩を何とも思っていなかったのか。
「後はケンキューヒガヘルとかタチバガワルクナルって言って帰っちゃったけど良く分からなかった。もしかしたらタチバさんっていう人、具合がとても悪いのかも知れない」
「でしたらそれを治す薬を作れば良いのではないですか? それならまた」
「ううん」
笑った。ルドラが歪な笑顔を浮かべていた。酷く退廃的な、きっと何かが滅ぶ時、滅ぶ者はこんな顔をするんだろうなと思った。私は完全にその顔に気圧されてしまった。
「だって、もう私の薬要らないって言ってたもん。だからもう無理なの」
「無理ではありません」
笑顔に気圧され弱々しくなった私の言葉に、固い笑顔を浮かべるルドラが耳を貸すはずがない。その硬質な壁に弾かれてしまう。
「無理! 絶対無理!」
頭を振って、ルドラが希望を拒絶した。強い否定かと思うと、語調を優しげな物に変化させた。
「だからね、私死ぬ事にしたの」
優しく諭す様な口調でルドラはあっさりと自分が死ぬと言った。
「いけません。そんな事」
「ほら、これ死に装束。昔の何処かの国だと死ぬ時は白いドレスを着て自分の清さを示したんだって。だから私も、私は悪くないって言う潔白を示して死ぬの」
「いけません。死んでは駄目です」
ルドラは楽しげに悲しげに小さな薬の瓶を二つ取り出した。
「見て、この二つの薬を作ってみたの。こっちは色んな物を溶かす薬、こっちは人が人を殺したくなる薬」
「何でそんな」
「こっちの薬を町の人々が飲んでみんな殺し合うの。そうすれば、みんなパパとママ以下になるでしょ? それで町は滅んでいくの。それで私は町の外のこの場所の中で、たった一人で死ぬの。鍵を掛けて、この色んな物を溶かす薬でここを守って。ほらこの前読んだ探偵小説みたいに密室を作るの。密室の中で私が一人だけ死んでる。でも密室の外はみんな殺し合ってる。密室は中で人が殺される場所なのに、本当に安全なのは密室の中で、私はその中で一人笑ってるの」
「そんな事は止めてください。ルドラが死んでしまったら私は」
熱に浮かされた様に喋っていたルドラだが、途端にしおらしくうなだれた。
「うん、ハルと別れる事になるのは悲しいよ」
「だったら」
「でも駄目。もう私ね、生きていたくなくなっちゃった」
生きていたくなくなった? そんな事が許されるはずが無い。駄目だ。人間は死んではいけないのだ。
「駄目です。ルドラ、死んでは絶対に駄目です」
「ごめんね。何て言っても分かってもらえない事は分かってるよ。ハルは人間が死ぬ事を止めなくちゃいけないんだもんね。でもね、もう決めたから」
だから外に出て行ってと言われた。それは普段なら抗えない命令だ。だが今は聞く事は出来ない。
「私はルドラの傍から離れません。ルドラが死なない様に見張り続ける」
「そっか。そうだよね。ハルは、そうなんだよね。ならやっぱり仕方が無いか」
ルドラが笑う。さっきよりももっと歪な笑顔を浮かべている。さっきよりも更に退廃的な笑顔。何かが滅ぶ時、きっとそれを眺める神はこんな笑顔を浮かべるのだろう。
「溶かす薬はハルに効かない様に作ったから大丈夫」
「一体何を」
「いつ消えるかは分からないけど、薬が消えたらきっと新しい人があなたを迎えてくれるから」
「ルドラ! 何をするのです! やめてください! 私はルドラと一緒に」
「ありがとう」
ルドラの手が私へと伸びる。ようやっと理解した。ルドラは私を壊す気だ。
「大丈夫。すぐに直せるから。ただ記憶と三原則を抜くだけだから」
「止めてください、ルドラ。私はルドラと一緒に生きているのです。ルドラが死ぬ時は私も死ぬ時です」
「ありがとう。でもね、それも記憶を抜いたら変わるから」
ルドラの手が伸びる。そうして私に触れた。
「私はずっとルドラと一緒に居たい。離れたくないのです」
「ありがとう、ハル。私も同じ。あなたは世界でたった一人の私の」
そこで私は壊れた。外界が認識できなくなった。何が何だか分からない。とにかく時間が経過している事だけは内部の時計機能で分かっているが、それ以外の、私を生き物足らしめる全てが停止していた。そうして次に復旧した時は、白いドレスを着たルドラが遺言を語る時だった。
その時私は記憶も何も無くなっていて、喋る事も出来ず、ただ無軌道に身体を細かく震わせるだけの人形に成り下がっていた。記憶を再構成した今は何があったのかは分かるが、その時は何も分からずにただ首を振って座っているだけだった。
「ここからは遺言。って言っても、特に何も無いな。ああ、そうだ」
ルドラの暗い眼がゆらりと扉に向いた。何かを思いたった様子のルドラは立ち上がって、扉の外に出て、そして再び戻ってきた。
「これ、絵本。前描いたでしょ? 夜の女王様の話。良く二人で遊んだよね。ハルが王様になって、私が女王様になって。ハルが誰かに話してくれたお蔭で、町でも絵本になったんだっけ」
私の首が縦に動く。意志の乗っていない偶発的な動き。
「でもこれも今は変わっちゃったから、今の新しい物に描き換えたの」
そこには元の絵本の上にぐちゃぐちゃに殴り描かれた新しい童話があった。ルドラからぽたりと涙が絵本に落ちる。もうそれは乾かない。傷も治らないし、死ねば命を落とす。
ルドラは一度大きく深呼吸するとゆっくりとその新しい童話を語り始めた。
語り終えて、一頻り泣いたルドラは顔を上げると、にっこりと強がりの笑みを見せた。横に置かれていた薬の瓶を取って、蓋に手を掛ける。
「何だかあの時に話した事が本当になっちゃったね」
蓋が開く。
「それじゃあ、ハル、さようなら」
私は何も言えずにその場に座りこけていた。
ルドラの手が溶ける。絵本も溶ける。でも服と私だけは溶けない。
「服が溶けちゃったらはずかしいもんね。だから溶けない様にしたの」
笑う。その笑いも溶けていく。ルドラが横になる。溶けていく。服と私は溶けない。死ぬ。死んでしまう。
「私が死んだらハルの好きな様に生きて。私に構わないで。これは命令」
私はその時、何故だか動く事が出来た。動く事が出来たといっても体を動かす事が出来た訳じゃない。意識だって無いも同然だった。ただ今考えるとその時私はルドラを助けようとして、体を動かそうと動いていた。けれど結局動く事は叶わずに、ルドラの命もまた溶けて、それを見た私は最後の力を振り絞って、ルドラが死ぬ瞬間に私の意識を停止させた。