第13話 名前の価値
風が、違う。
それが最初の違和感だった。
乾いている。
荒れている。
そして、どこか重い。
王都で感じていたものとは、明らかに違う。
「……ここが」
私は、小さく呟いた。
目の前に広がるのは、整えられていない土地。
石畳は途切れ、土はむき出しで、建物はどれも古く、歪んでいる。
人の気配はある。
だが、それは“管理されたもの”ではない。
ただ、そこに“ある”だけのもの。
「本当に来たんだな」
後ろから、声がした。
振り返る。
護送の任を終えた騎士が、腕を組んでこちらを見ていた。
「ここで終わりだ」
簡潔な言葉。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……そう」
私は短く答える。
もう、何も言う必要はない。
彼も、それを理解している。
「忠告だけしておく」
騎士が、少しだけ声を落とした。
「ここでは、その名前は通用しない」
――名前。
私は、わずかに目を細める。
「クラウゼンの名も、悪役令嬢も」
続ける。
「どっちも意味がない」
その言葉は。
静かに。
だが確実に。
私の中に落ちた。
「……分かっているわ」
私は答える。
声は揺れていない。
だが。
完全に理解しているわけではない。
まだ。
「ならいい」
騎士はそれだけ言うと、踵を返した。
振り返らない。
足音が遠ざかる。
やがて、完全に消えた。
――静かだ。
あまりにも。
王都では、決して感じることのなかった静けさ。
それは、落ち着くものではない。
むしろ。
何かを削るような。
そんな静けさだった。
「……さて」
私は、ゆっくりと周囲を見渡す。
ここが、これからの場所。
与えられた場所。
――いいえ。
選んだ場所。
そう思うことにする。
その方が、都合がいい。
歩き出す。
土の感触が、靴越しに伝わる。
不快だ。
だが、それを顔には出さない。
癖のようなものだ。
――しばらく進むと、小さな集落が見えた。
人がいる。
数人。
こちらを見ている。
だが。
近づいてこない。
話しかけてもこない。
ただ。
見ているだけ。
値踏みするように。
「……」
私は、その視線を受け止める。
逸らさない。
それが、これまでのやり方だった。
視線は、力だ。
先に逸らした方が、負ける。
――だが。
数秒後。
相手は、興味を失ったように視線を外した。
あっさりと。
何事もなかったかのように。
「……」
私は、何も言わない。
ただ、理解する。
ここでは。
その“勝ち負け”に意味がない。
そもそも。
相手は、競っていない。
「……あなた」
私は、一人の男に声をかけた。
作業をしていた、年配の男。
彼は、ゆっくりとこちらを見る。
表情は、変わらない。
「何だ」
ぶっきらぼうな返答。
敬意はない。
当然だ。
「少し、話を――」
「忙しい」
遮られる。
即座に。
「……そう」
私は一瞬だけ言葉を止めた。
だが、すぐに続ける。
「では、手短に」
「断る」
また、遮られる。
今度は、さらに短く。
そして。
完全に視線を外された。
――終わりだ。
会話が成立していない。
そもそも。
成立させる気がない。
「……なるほど」
私は、小さく呟く。
理解する。
ここでは。
私の言葉に、価値がない。
名乗っていないからではない。
名乗っても。
変わらない。
「……」
私は、少しだけ考える。
これまでのやり方。
それは。
通用しない。
では。
どうするか。
その時。
「ねえ」
別の声がした。
軽い。
遠慮のない声。
振り返る。
そこにいたのは、一人の少女だった。
年は、十代半ば。
服は質素で、少し汚れている。
だが、目だけは鋭い。
「何してんの?」
彼女は、まっすぐに私を見て言った。
遠慮も、敬意もない。
ただ。
疑問だけ。
「……」
私は、少しだけ沈黙した。
このタイプは。
初めてだ。
「話をしようとしたのだけれど」
私は答える。
できるだけ簡潔に。
「ふーん」
少女は、つまらなそうに言う。
「無理だよ」
即答。
迷いもなく。
「……なぜ?」
「だってさ」
彼女は肩をすくめる。
「何の役にも立たなそうだし」
――。
一瞬。
言葉が、止まる。
その言葉は。
これまで、一度も言われたことがないものだった。
「……役に立たない?」
「うん」
少女はあっさりと頷く。
「何ができるの?」
まっすぐな問い。
逃げ道がない。
「私は――」
言葉を探す。
だが。
出てこない。
王都では、いくらでもあったはずの答えが。
ここでは。
一つも、意味を持たない。
「……」
沈黙。
それが、答えだった。
「でしょ」
少女は、興味を失ったように言う。
「じゃあ無理だよ」
あっさりと。
本当に。
それだけのことのように。
そして。
くるりと背を向けた。
「待ちなさい」
思わず、声が出る。
少女が、振り返る。
面倒くさそうに。
「何?」
「名前は?」
なぜ、そんなことを聞いたのか。
自分でも分からない。
ただ。
このまま終わらせてはいけないと、思った。
「アメリア」
短い答え。
「あなたは?」
――。
その問いに。
私は、一瞬だけ迷った。
だが。
すぐに答える。
「リリアーナ・フォン・クラウゼン」
名乗る。
いつも通りに。
完璧に。
――だが。
「ふーん」
アメリアは、ただ頷いただけだった。
何の反応もない。
驚きも。
理解も。
敬意も。
何も。
「で?」
彼女は続ける。
「それで何ができるの?」
同じ問い。
逃げられない問い。
「……」
私は、答えられなかった。
初めて。
本当に。
何も。
言えなかった。
その沈黙が。
すべてを、表していた。
「……まあいいや」
アメリアは、興味を失ったように言う。
「そのうち分かるでしょ」
軽く手を振る。
そして。
「役に立てるなら、ね」
そう言い残して。
去っていった。
――静かだ。
また。
同じ静けさが戻る。
だが。
先ほどとは違う。
今度は。
はっきりと。
分かる。
「……なるほど」
私は、小さく呟く。
ゆっくりと。
理解する。
ここでは。
名前に価値はない。
立場にも。
過去にも。
何も。
意味がない。
必要なのは。
ただ一つ。
「……何ができるか」
それだけ。
それだけが。
すべて。
「……」
私は、立ち尽くす。
何もできないまま。
何も言えないまま。
初めて。
本当に。
理解する。
私は。
ここでは。
――何者でもない。
第13話まで読んでいただきありがとうございます。
ここでついに、主人公が「役割の外」に出ました。
そして初めて、“何も通用しない世界”に立たされています。
この先は、これまでのやり方が一切使えません。
ここからが本当の意味でのスタートです。
次話では、主人公が初めて「現実」にぶつかります。
そして、避けられない“失敗”が始まります。
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