第二十八話:獣人王国と混沌を癒す一皿
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』が獣人たちの国『大地の盟約』の港町『獣の牙』にその美しい姿を現した時、一行はこれまでにない重苦しい空気に包まれた。
大地と木々と、獣の匂いが混じり合う野性的な活気に満ちた街。だが、そこに住まう獣人たちが一行に向ける視線は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く冷たかった。
オアシス連邦のコノハ、スミレ、アイ、シオリや、森の民であるアリアに対しては、まだ遠巻きに様子を窺う好奇の色が混じっていた。「黒曜の民」は友好国であり、アリアの身にまとう自然の気配が彼らの警戒心を少しだけ和らげているのかもしれない。
だが、レオンとガルムが船から降り立った瞬間、その空気は明確な『敵意』へと変わった。
レオンが纏う帝国の騎士鎧。ガルムのウルク連邦の戦士を思わせる屈強な肉体。
それらは、獣人たちにとっては長年にわたり自分たちの土地や誇り、同胞の命を奪ってきた憎しみの象徴そのものだった。
「……チッ。帝国の犬が何の用だ」
警備をしていた狼の獣人兵士が、レオンの足元に侮蔑を込めて唾を吐きかけた。
レオンはその場に縫い付けられたように動かずただ黙って耐えた。その兜の下で彼がどんな顔をしていたのか誰にも分からない。
「母ちゃんあの人たち怖いよ……」
小さな熊の獣人の子供が、母親にしがみつく。
「しっ!近寄るんじゃありません!ウルクの蛮族に食われてしまいますよ!」
母親が子供の目を覆い、ガルムから隠れるように足早に去っていく。
向けられる剥き出しの憎悪。ガルムは怒りに震える拳を強く強く握りしめた。その指の関節が白くなるほどに。
大議会場――世界樹の巨大なウロをくり抜いて作られた荘厳な広間――で開かれた代表者会議は、もはや裁判と呼ぶべき様相を呈していた。
「なぜだ!なぜ我らの聖なる地に、この者たちを招き入れたのですか!」
猪の牙を持つ過激派の代表が、議長である老いた獅子族の長であるボリーを睨みつけた。
「この騎士の民は我らの森を焼き、この戦士の民は我らの同胞を狩ってきた!その罪を忘れたとでも言うのですか!」
「そうだ!奴らを森に入れるくらいなら、この場で八つ裂きにしてくれる!」
怒号が飛び交う。
「お待ちください!」
コノハが必死に仲間を庇おうとするが、その声は憎悪の渦にかき消されてしまう。
誰もが交渉の決裂を覚悟した。その時だった。
「……静まれ」
議長である老いた獅子族の長ボリーがその重い口を開いた。その声は静かだったが、議会場の隅々まで響き渡り全ての怒号を沈黙させた。
「……お前たちの言い分は分かっている。その憎しみも痛みも、このわしが誰よりも理解しているつもりだ」
彼は一行に、その黄金の鋭い眼光を向けた。
「……だが、言葉はもうよい。我ら獣の民は行動を信じる」
彼は一行に、最も過酷な試練を与えた。
「北の平原で暴れる悪夢の魔獣『キメラ』。……それを鎮めてみせよ。さすれば、お前たちの言葉を信じてやろう」
それは事実上の死刑宣告にも等しい任務だった。
北の平原は死の大地と化していた。世界の歪みから生まれた『キメラ』はその苦痛に満ちた咆哮で大地を震わせ、そこに生えるもの全てを喰らい尽くしていた。
獅子の頭、山羊の胴体、蛇の尾そして鷲の翼。複数の生物が歪に融合させられたその姿。
「……なんという、哀れな姿なのでしょう……」
コノハはその姿を見て胸を痛めた。それは悪意の塊ではなかった。ただひたすらに苦痛と飢餓にもがく生命の叫びだった。
戦闘は始まった。
「うおおおおおっ!」
ガルムの剛撃がキメラの肉体を抉る。だが、その傷は瞬く間に泡立つように再生してしまう。
レオンの剣が蛇の尾を断ち切るが、その断面から新たな二本の尾が瞬時に生えてくる。
アリアの矢は、その分厚い鱗に弾かれてしまう。
「くそっ!キリがねえ!」
「このままではジリ貧だ……!」
仲間たちが消耗していくその中で。
コノハは決意を固めた。
「皆さん!この子を倒すのはもうやめましょう!」
彼女は叫んだ。
「この子は、ただお腹が空いてそして体が痛くて苦しんでいるだけです!私がこの子のお腹と心をいっぱいにしてみせます!だから……」
彼女は仲間たちを見回した。
「私に世界で一番危険で、世界で一番美味しい料理を作らせてください!」
前代未聞の作戦が始まった。
まず、コノハが厨房から船で一番巨大な寸胴鍋を取り出した。
「ガルムさん、お願いします!私が料理をするための最高の舞台を作ってください!」
「おうさ任せろ!」
ガルムはキメラの猛攻をその巨大なハルバードと鋼のような肉体で、真正面から受け止める。彼が不動の壁となる。
「アリアさん、レオンさん!私の周りの安全確保を!」
「承知した!」「君の背中は我々が守る!」
アリアとレオンがその俊敏な動きでキメラの攻撃をいなし、逸らし、コノハに一撃たりとも近づけさせない。彼らが揺るぎなき剣と盾となる。
「クラウスさん!あの子が今一番欲しがっている栄養素を分析してください!」
「任せろ!」
クラウスは魔法の単眼鏡で、キメラを分析する。
「……驚いたこれほどの魔力欠乏状態とは!タンパク質ミネラルそして何よりも安定した生命エネルギーが必要だ!」
クラウスがパーティの頭脳として、瞬時にレシピの方向性を導き出す。
そして『深淵の福音団』の三人も、自分たちができる手伝いを始めた。アイが闇の結界で余計な衝撃を防ぎ、シオリが土のゴーレムを操って鍋の土台を作りスミレが必要なハーブの絵を描いてコノハに渡していく。
戦場のその中心で、コノハは神がかり的な集中力で調理を開始した。
鍋に巨大なバターの塊が溶けていく。そこに滋養強壮に効くエデンの薬草、生命力に満ちたロック・バッファローの干し肉、そしてウルク連邦で手に入れた岩塩が次々と投入されていく。
最後に、彼女は自らの掌を鍋にかざした。
「―――癒えなさい」
自らの清浄な治癒の魔力を惜しみなく鍋の中へと注ぎ込んでいく。
それは、もはや料理ではなかった。混沌とした生命をその根源から癒し再構築するための神聖な儀式だった。
やがて、鍋から立ち上るそのあまりにも豊潤で優しく、力強い香りが戦場を満たしていく。
飢えと苦痛で暴れ狂っていたキメラの動きがぴたりと止まった。
その全ての頭が一つの方向――コノハの鍋へと向けられていた。
その瞳からはもはや憎悪の色は消えていた。
ただひたすらに純粋な「食べたい」という生命の輝きだけがそこにあった。
「―――さあ、できましたよ。世界で一番優しいシチューです」
コノハはにっこりと笑った。
その小さな料理番の、その一皿が今憎しみの連鎖を断ち切ろうとしていた。




