第十五話:思い出のカツレツを君に
ジュリアス率いる聖騎士団の追撃を、深淵の福音団の奇策によって、かろうじて振り切った一行。彼らはクラウスが、幼い頃に使っていたという、今はもう誰も知らない帝都の地下水路に繋がる古びた書庫の隠れ家へと、身を潜めていた。
ひんやりとした黴の匂いが鼻をつく。滴り落ちる水の音だけが不気味に響いていた。
「……さて、どうしたものか」
レオンが壁に背を預けながら、重々しく口を開く。状況は最悪だった。
「街には我々の手配書が、既に回り始めている頃だろう。帝都の警備網は世界一と言われるほど、厳重だ。このままではネズミ一匹、外へ逃げ出すことはできない」
「正確に言えば、既に五つの検問所と、二つの魔法障壁が、主要な街道に設置されているのを確認した。正面突破は自殺行為だ。だが、このまま隠れていてもいずれは見つかる……。我々は完全に詰んでいる」
クラウスの冷静な分析が、一行に重くのしかかる。
その絶望的な空気を、打ち破ったのは深淵の魔女だった。
「フン。ならば、我がこの帝都に混沌の夜をもたらすまでよ!」
アイが物騒なことを言い出した。彼女は不敵に笑うと、壮大な(そして、あまりにも迷惑な)作戦案を高らかに、露し始めた。
「良いこと?まず、わたくしが固有魔法『ウロボロス・ゲイズ』で、あの聖騎士団長を、夜の闇に誘い出し、その心を魅了し傀儡と化す!」
「次に、スミレが帝都の天を覆うほどの巨大な暗黒竜を描き、シオリがそれに命を吹き込む!帝都が阿鼻叫喚の地獄と化した、その隙に我らは堂々と目的を……!」
「待て待て待て!」
ガルムが、慌てて彼女の口を塞いだ。
「「却下します(だよ)!!」」
彼女のあまりにも過激で迷惑な作戦はコノハ以外の全員から即座に却下された。
アイが、心外だという顔をする。
「なぜですの!?完璧な作戦ではありませんか!名付けて、『オペレーション・ナイトメア・ドラゴン』!」
「却下だ!我々は、ジュリアスと、敵対したいわけでは、ない。話し合いたいのだ!」
レオンが、きっぱりと言った。
「そうですよ、アイさん!あたし、そんな怖い竜よりも、もっと可愛いユニコーンさんとか描きたいなー!」
スミレが、無邪気に言った。「
「ぐぬぬ……!あなた方は、ロマンというものが、分かっていませんわ!」
作戦は完全に行き詰まっていた。
重苦しい沈黙が、隠れ家を支配する。
沈黙を破ったのは、コノハののんびりとした一言だった。
「……皆さん、お腹、空きませんか?」
その場違いな問いに、全員がきょとんとして彼女を見た。
彼女は、皆の深刻な顔を不思議そうに見回した。
「だって、皆さん、朝から何も召し上がっていないでしょう?それに、さっきのジュリアス様、すごくお疲れのようでした。きっと、ちゃんとしたご飯を毎日食べていないんですよ。お腹が空いていると、なんだかイライラしちゃいますからね。まずは、美味しいものをご馳走してさしあげたら、少しはお話を聞いてくれるかもしれませんよ?」
そのあまりにも平和でズレた提案。
だが、その一言はクラウスの脳内に、天啓の如き閃きをもたらした。
「……食事……。そうだ、食事だ……!」
彼は何かを思い出したように、目を見開いた。
「コノハさんの言う通りかもしれない。……いや、彼女の言う通りだ!ジュリアスには弱点がある。いや、弱点というよりは……『思い出の味』があるんだ」
クラウスが語り始めたのは、彼らがまだ幼い騎士見習いだった頃の話だった。
「君たちも知っている通り、ジュリアスは貴族の出ではあったが、幼い頃に両親を亡くし厳格な祖父母に育てられた。食事も礼儀作法も、常に完璧を求められる、息の詰まるような毎日だった。そんな彼が、唯一、心を許していたのが彼の家に仕えていた、年老いた料理番の作る素朴なカツレツだったという。」
「カツレツ……?」コノハが興味津々で聞き返す。
「ああ。それは、宮廷で出されるような豪華なものではない。だが、その料理番だけが、彼の唯一の話し相手であり、彼の寂しさを理解してくれる家族のような存在だった。彼にとって、そのカツレツは唯一の温かい家族の記憶の味だった。……その料理番が亡くなって以来、彼は二度とあのカツレツを口にすることはなかった」
「……その味を、再現する、と?」
レオンが息をのむ。
「ああ。コノハさんなら可能だろう。そして、その一皿こそが我々が彼の頑なな心の扉を開く、唯一の『鍵』となるかもしれない」
こうして、前代未聞の、外交作戦が、始まった。
作戦名『思い出のカツレツを、君に』。
まず、アイがその厨二病センスを最大限に発揮し、一枚の挑戦状のような招待状を書き上げた。
「フン。わたくしの、芸術的センスが、火を噴きますわよ!」
彼女は黒い羊皮紙に銀のインクで流麗な文字を走らせる。
『――過去の亡霊に囚われし白き騎士よ。もし、汝が失われし温もりを再び、その手にしたいと願うのなら。今宵、月が涙を流す刻、古の水路橋にて待つ――深淵の料理番より』
「どうです?この完璧な一文!彼の心を鷲掴みにすること、間違いなしですわ!」
「……アイ殿。……素晴らしい、と思う」
レオンが少しだけ、引きつった顔で言った。
アイの意味深な手紙をシオリが操る。一羽の黒い折り鶴が誰にも気づかれずに、ジュリアスの私室へと届けた。
そして、コノハは厨房に立った。
隠れ家の古びた、しかし、手入れの行き届いた厨房で。
クラウスが語る、断片的な記憶――
「肉の叩き方は、確か、剣の柄でリズミカルにだったな」
「衣の厚さは、雪のように薄く、しかし、決して剥がれない」
「揚げ油の温度は、赤子の頬のように優しく、しかし、情熱的に……」
「そして、隠し味に使われていたという素朴なハーブの香り。確か、彼の故郷の丘にだけ咲くという……」
朧気な情報を頼りに、彼女は神がかり的な味覚と、料理人としての全ての経験を総動員させ、その「思い出のカツレツ」の完璧な再現に挑んだ。
ジュージューという、心地よい油の音と、香ばしい香りが、絶望に満ちていた隠れ家を少しずつ、温かい希望の光で満たしていく。
一行の運命は、この一皿のカツレツに託されたのだ。




