第十六話:月夜の晩餐会
深夜、古の水路橋。
ひんやりとした、石畳の上に月光が、青白い筋を描いていた。
その中心に、ジュリアスは一人で現れた。彼の白銀の鎧は月光を浴びて、冷たい輝きを放っている。その手には抜身の剣が握られている。
彼の張り詰めた視線の先。
闇の中から、ぬうっと一行が姿を現した。
「……何の、茶番だ」
ジュリアスの声には、鋭い警戒の色が浮かんでいた。
「このような場所に私を一人誘き出し、闇討ちにでもするつもりか?」
その声は、皮肉に、満ちていた。
だが、レオンは剣を抜かず静かに彼に語りかけた。
両手を広げ、自らに敵意がないことを示しながら。
「ジュリアス。我々は戦うために、ここに来たのではない。あなたと対話をするために来たのだ」
「対話、だと?」
ジュリアスは鼻で笑った。
「反逆者と帝国の聖騎士団長が何を話すというのだ。……大人しく投降しろ、レオン。さすれば、命だけは助けてやろう」
「我々は反逆者ではない」
レオンは静かに、しかし、力強く言った。
「我々が、戦っているのは、帝国ではない。この世界そのものを、蝕む見えざる悪意だ」
レオンとクラウスは、禁書庫で知った、世界の歪みのこと、そして、それを修復するという自分たちの真の使命について、包み隠さず全てをジュリアスに話した。
「……世界の理が歪んでいる?1000年前の勇者の代償だと?」
だが、ジュリアスは、その、あまりにも荒唐無稽な話を鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。世界の歪みだと?そんなおとぎ話、誰が信じるものか。お前たちは、自らの反逆を正当化するために、そんな妄想をでっち上げたのか。……お前たちの戯言に付き合う気はない」
彼の心は帝国の正義という硬い鎧で完全に閉ざされていた。
彼は剣の切っ先を、レオンへと向けた。
「―――それが、貴様らの最後の言葉か」
一触即発の空気。
それを打ち破ったのはコノハだった。
「……では」
その時、コノハがそっと、前に進み出た。
彼女は、湯気の立つ一皿のカツレツを持っていた。
揚げたての黄金色の衣から、抗いがたいほど香ばしく、そして、どこか懐かしい優しい香りが立ち上っている。
「……何だ、それは」
ジュリウスが訝しげに、眉をひそめる。
「……とりあえず、お話の前にこれを召し上がってみませんか?きっと、あなた様もお腹が空いているでしょうから」
コノハの場違いで平和な提案。
だが、ジュリアスはそのカツレツを見た瞬間、息をのんだ。
少しだけ不格好な形。少しだけ焦げた衣の端。そして、この鼻の奥をくすぐる、懐かしいハーブの香り。
それは彼が幼い頃大好きだった、あの年老いた料理番が作ってくれた、思い出のカツレツそのものだった。
「……なぜ……。なぜ、お前がこれを……。そのレシピは誰にも……」
彼は戸惑いながらも、まるで魔法にでもかかったかのように、その一切れを口に運んだ。
サクッ、という、心地よい音。
そして、口の中に広がる肉の旨味と、衣の香ばしさ、そして、あの優しいハーブの香り。
忘れていたはずの、記憶の扉がこじ開けられていく。
厳格な祖父母の前では、決して弱音を吐けなかった孤独な少年時代。
父も、母もいない、広い屋敷。
誰もが、自分を「次期皇帝」としてしか見てくれない。
そんな彼に唯一、あの年老いた料理番だけが、「坊ちゃまは、よく頑張っておられますな」と、言ってこのカツレツを黙って出してくれた。
それは、彼にとって唯一の温かい家族の記憶だった。
ジュリアスの、鉄のように硬かった聖騎士の仮面が崩れ落ちた。
その青い瞳から、一筋、また一筋と、涙がこぼれ落ちていった。
「……美味い……。ああ……美味い……」
彼は剣を取り落とした。
そして、その場に膝から崩れ落ちると、子供のように、ただ泣きながら、そのカツレツを食べ続けた。
しばらくして。
泣き腫らした、顔を上げたジュリアス。
彼はもはや聖騎士団長ではなかった。ただの一人の、傷ついた青年だった。
「……すまない……」
彼は言った。
「……分かっていたんだ。……本当は君たちが正しいということも。……そして、帝国が腐敗していることも……」
彼は自らのどうしようもない状況を吐露し始めた。
「……だが、私にはどうすることもできなかった。……私は皇帝候補であり、聖騎士団長だ。法と秩序を守らなければならない。だが、その法そのものが腐敗した、貴族たちに利用されている。……私はただ、この巨大な帝国の歯車の一つとして、心を殺して生きるしか、なかったのだ……」
その悲痛な告白。
レオンは、静かに彼の前に膝をついた。
そして、その震える肩に、そっ手を置いた。
「……ジュリアス。……お前はもう一人ではない」
コノハが差し出した、たった一皿のカツレツ。
それは凍てついていた、一人の孤独な王の心を確かに、溶かし始めていた。
そして、それは腐敗した帝国に本当の「夜明け」をもたらすための、小さな第一歩となった。
帝都での本当の戦いは、ここから始まるのだ。




