第64話 戻ったもの、残った問い
千歳は机から持ち出した褪せた赤い紐を、カグ先輩へ差し出しました。
カグ先輩は腕布の下から、焦げた短い紐を外します。
二本を並べると、切り口と撚り方がぴたりと合いました。
ナミ教官が、震える指で結びます。
「あなたを包んだ布を留めていた紐です。奪われた時に切れ、片方だけが私の手に残りました」
カグ先輩は、結び直された一本を自分の手首へ巻きました。
「じゃあ、母さんが持ってた紐じゃない」
結び目を自分で締めます。
「あたしのだ」
千歳は何も説明せず、その手を見ていました。
── SYSTEM LOG ──
mother_child_thread(母子スレッド): stable(安定)
textile_pair_trace(対繊維痕跡): restored(復元)
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小牧野から運ばれた白黒石盤の破片が、女神アカデミーの前庭に並べられていました。
戦いから数日が過ぎても、誰も急いで片付けようとはしませんでした。
子どもたちが、恐る恐る破片を手に取っています。
白でも黒でもなくなった石は、ただの灰色でした。
「軽い」
一人の子が驚いたように言いました。
風が吹くたび、細かな石の粉が舞い、また地面へ戻っていきました。
カミムスヒ様は、集まった者たちへ言いました。
「戦は終わりました。でも、戦の前から私たちの中にあった問いは、終わっていません」
「俺たちは、決める場所へ入れないままだ」外縁の若い男が言いました。
「こっちは、決める責任を全部背負わされてる」年長の女が返します。
別の女が、灰色の破片を指しました。「だからって、誰かを座へ縛っていいことにはならない」
広場のあちこちから、違う声が重なりました。
カミムスヒ様は、止めずに聞いていました。
「白黒石盤を壊しただけで、私たちが正しかったことにはなりません」
誰も、すぐには答えませんでした。
戦いに加わった男たちの何人かが、広場の隅に残っていました。
その中の一人が、アラハバキへ深く頭を下げます。
「俺たちは、間違った理屈に乗りました」
アラハバキは、石盤の破片を拳で軽く叩きました。
「間違った理屈、とは少し違う。お前たちの問い自体は、間違っちゃいない。ただ、乗った船が悪かった」
別の男が、顔を上げました。
「でも、俺たちが傷つけた奴がいる。それは消えません」
「消すな。なかったことにもするな」
アラハバキは即答しました。
「抱えたまま、次を考えろ。問いを、誰かを座に縛る道具へ変えた瞬間、それはもう問いじゃない」
男たちは、しばらく黙っていました。
最初に頭を下げた男が、もう一度尋ねます。
「バキ様は、これからどうするんですか」
「境に立つ」
短い答えでした。
「外から来るものを見る。中から漏れている声も見る。どっちかだけ見てたから、こんなことになった」
男は、今度は少しだけ顔を上げたまま、頭を下げました。
広場では、まだ別の声が上がっていました。
返事はすぐに出ず、沈黙のたびに誰かが次の言葉を探します。
白黒石盤の破片だけが、誰の側にも寄らず灰色のまま残っていました。
けれど、遅くても戻れる道の方が、たぶん、長く歩けるのだと思います。
少し離れた土塁の陰では、カグ先輩とナミ教官が並んで座っていました。
カグ先輩の右手には、まだ火の残り香が燻っています。
指の腹についた煤を、何度も擦り落とそうとしていました。
ナミ教官は、それを見ても何も言いません。
ただ、隣に座っています。
二人の距離は、腕を伸ばせば届くほど近いのに、その近さの分だけ、言葉が出てこないようでした。
「教官」
カグ先輩が、小さな声で言いました。
「今だけじゃなくて、これからも、娘ってことでいいんすか」
ナミ教官は、一度だけ息を止めました。
「私が、そう呼んでもいいのなら」
「そこ、あたしに聞くんすね」
カグ先輩は、泣きそうな顔で笑いました。
「何回か聞かないと、まだ本当だって思えないんで」
ナミ教官は、カグ先輩の手首に結ばれた赤い紐を見ました。
「カグヤマビメ。私の娘」
「はい」
カグ先輩の手が、ナミ教官の袖へ少しだけ触れます。
一度の名乗りで空白は埋まりません。




