第35話 境界の内と外
舞の翌朝、女神アカデミーの内門で声が上がりました。
外縁の見張りをしていた若い男が、足を傷めた少年を抱いています。
「治療だけでいい。中へ入れてくれ」
門を守る女は首を振りました。
「男はここまでです。少年は預かります」
男の腕が固くなりました。
「守る時だけ仲間で、決める場所では外か」
少年は二人の間で、不安そうに目を動かしていました。
制度の説明より先に、千歳は、その言葉で境界を見ました。
門の内側から、冬の食料札を抱えた女が出てきました。
何日も眠っていない顔です。
「中へ入りたいなら、入ればいい。その代わり、この冬、どの家へ少なく渡すか、お前が決める?」
男は答えられませんでした。
女も勝った顔をしません。
「こっちだって、決めたいから決めてるわけじゃない」
外へ置かれた寂しさと、中で背負う疲れが、同じ門の両側に立っていました。
千歳には、どちらかだけを悪いとは言えませんでした。
そこへ、南から来たという旅の男が口を挟みました。
「役目を白と黒に分ければ揉めない。前へ出る者と、座って支える者だ」
言葉は親切そうでした。
けれど男が指で拍を刻んだ瞬間、近くで朝の稽古をつけていたウズメ先輩の鈴が止まりました。
聞き覚えのある拍に気づいたような顔でした。
一、二、三。
千歳には、三つ目だけが、昨日見た舞の冷たい跡へ重なって見えました。
バキ教官は旅の男ではなく、その指先を見ました。
「誰に、その分け方を教わった」
男は笑ったまま、答えませんでした。
旅の男は追い出されませんでした。
ただ、バキ教官は門の外へ立たせたまま言いました。
「問いは間違っていない。外にいる者が決定へ加われない。それは日高見の穴だ」
若い男が顔を上げます。
「なら変えろ」
「変える。だが、お前の寂しさを使って、誰かを二つの箱へ押し込む手には渡さない」
長い制度の説明はありませんでした。
男たちが決める場所へ入りたいという声と、その声を白と黒へ押し込もうとする者は、同じではない。
千歳にも、それだけは分かりました。
昼前、南から流れ着いた家族が門へ来ました。
母親は焦げた土器片を胸に抱き、父親は子ども三人の名を何度も確かめています。
ハニチュウが土器片を見て、声を落としました。
「南の焼き方です。高い熱を、一度に浴びてる」
母親は、遠い山が空ごと燃えたことを話しました。
土地も墓も失い、海を渡った時、家族の名だけが散らばらないための縄だった。
だから子どもを集落全体へ預けると言われても、すぐには手を放せないのです。
カミムスヒは、家族を離すよう命じませんでした。
「今夜は一緒に眠りなさい。明日から、できるところだけ混ざればいい」
父親は深く頭を下げました。
朝、少年を抱いてきた若い男が、小さく言いました。
「家に縛るのも、守るためだったのか」
バキ教官は焦げた土器を見ました。
「最初は盾だった。二度と失わないための形だ」
それから、門の内側を見ます。
「盾を他人へ押しつければ、鎖になる」
チホの社会は、善か悪かだけではなく、傷から生まれた形なのだと、千歳は目の前の家族を通して理解しました。
母親は、奥に立つイザナミを見つけました。
「国を一緒に生み直す、と言った女神を知っています」
イザナミの指が、褪せた赤い紐の結び目で止まりました。
「忘れていません」
「では、なぜ私たちは、まだ帰る土地を持てないのです」
答えはありませんでした。
イザナミが黙ったためではなく、短い言葉で返せる問いではなかったからです。
バキ教官の左には、やはり半歩の空きがありました。
イザナミはそこへ近づかず、家族の前へ膝をつきました。
その日の訓練で、バキ教官は説明の代わりに役目を交換させました。
男たちは火のそばで食料札を読み、女たちは門の外で一刻、警戒に立ちます。
若い男は、冬の分配札を前に何度も手を止めました。
札を抱えていた女は、外の暗さに肩を強ばらせました。
一刻で理解し合えるわけではありません。
それでも、自分には見えていなかった重さだけは、互いの手へ移りました。
千歳は、それを正解ではなく、話を始めるための配置だと思いました。
訓練が終わる頃、南の旅人はいつの間にか姿を消していました。
門の脇には、小さな白石と黒石が一つずつ残されていました。
バキ教官が五色石盤のそばへ置くと、二つの石だけが強く光りました。
「白か黒へ分けろ、か」
バキ教官が白石を指で弾きました。
奥で、ウズメ先輩の顔が強張ります。
イザナミも、石盤へ伸ばしかけた手を止めました。
二人の反応だけが、その白い明滅が初めてではないことを告げていました。




