18
宿に荷を置くと、すぐに夕食の準備が整えられた。
低い卓に並べられたのは、見慣れない料理ばかりだった。
香草で焼いた肉、宝石のような色の果物、香料を効かせた米料理。
湯気と一緒に甘く深い匂いが立ちのぼる。
「……すごい」
アナスタシアが思わず呟く。
一口運ぶと、味が幾層にも広がった。
甘さ、辛さ、酸味。
舌の上で順番にほどけていく。
ミレイユは目を丸くしている。
「お料理が……香りでできてるみたい」
「この国は香料が命ですから」
テトは誇らしげだった。
「料理も香りで評価されます!」
ルカは笑いながら頷く。
「なるほど。理にかなっている」
食事を終えると、テトが身を乗り出した。
「夜のマーケット、行きますか?」
断る理由はなかった。
港町の市場は、日が落ちてからが本番だった。
灯りが天幕に反射し、布が星みたいに光る。
香料、絨毯、宝石、果物。
色と匂いと音が混ざり合う。
歩いているだけで酔いそうなほどだ。
その一角に、人だかりができている店があった。
小さな瓶がずらりと並んでいる。
透明な液体が灯りを受けて輝いていた。
「ここです!」
テトが胸を張る。
「ゴドフロワ商会の店!」
ルカとバルドーが同時に足を止める。
「……もう展開しているのか」
バルドーが低く呟く。
店の前では客が次々と瓶を手に取り、香りを確かめている。
笑顔になる人が多い。
「精油です!」
テトが説明する。
「安いのに質がいい!
疲れた商人も、これでぐっすり眠れる!」
確かに値札は控えめだった。
高級品ではない。
だが粗雑でもない。
庶民が買える“贅沢”だった。
「雇用も増えました」
テトは誇らしそうに続ける。
「この通り、店の半分は見習いです!」
若い店員たちが忙しく動き回っている。
活気があった。
アナスタシアは小瓶を手に取る。
ふわりと広がる香りは、静かな森のようだった。
胸の奥がほどける。
「……素敵」
思わず呟く。
ルカはその表情を見て微笑む。
「一本買いましょう」
「いえ、そんな」
「旅行記念です」
即決だった。
テトは満面の笑みで店員を呼ぶ。
市場の喧騒の中で、小さな瓶が包まれる。
遠い国で成功している二人の影を感じながら、
四人は灯りの下を歩き続けた。
夜の港町は昼より静かで、香りだけが濃く残っていた。
宿の廊下で男女は自然に足を止める。
部屋は別々だ。
テトが気を利かせて先に消え、バルドーとミレイユも少し距離を取る。
灯りの薄い廊下に、ルカとアナスタシアだけが残った。
言葉がすぐには出てこない。
一日中一緒にいたのに、別れる直前になると急に惜しくなる。
「……楽しかったですね」
ルカが静かに言う。
「ええ」
アナスタシアは頷く。
「あなたと来られてよかった」
それだけで十分だった。
ルカの手がそっと伸びる。
指先が触れ合い、握る。
やはり少し汗ばんでいる。
アナスタシアは気づいて、微笑む。
緊張しているのだ。
今でも。
それが嬉しい。
ルカは迷うように一瞬だけ視線を落とし、そっと顔を近づけた。
軽いキス。
触れるだけの、短いもの。
離れたあと、ふたりとも小さく息を吸う。
「おやすみなさい、アナ」
名前で呼ぶ声はまだ少しぎこちない。
「おやすみなさい、ルカ」
アナスタシアはくすぐったそうに笑った。
そのまま別れ、扉が閉まる。
灯りを落とした部屋で、アナスタシアはベッドに腰掛けると、すぐにミレイユが近づいてきた。
「今日は楽しかったですね」
「ええ、とても」
靴を脱ぎながら、自然と笑みがこぼれる。
「市場も、料理も……全部」
「バルドーさん、終始親切でしたよ」
ミレイユがぽつりと言う。
アナスタシアは頷く。
「ええ。あなたを気にしていたわ」
ミレイユは少しだけ照れたように視線を逸らす。
沈黙のあと、アナスタシアが小さく笑う。
「ルカが……まだドキドキしてくれるのも、嬉しいの」
声は柔らかかった。
ミレイユは安心したように微笑む。
「旦那様ですから」
「それでもよ」
アナスタシアは枕に頬を埋める。
「慣れないでいてほしいわ」
灯りの消えた部屋に、くすくすと笑い声が混ざる。
「明日はどんな一日になるかしら」
「きっと騒がしいですよ」
「それも楽しみね」
言葉が途切れ、静けさが戻る。
香料の残り香と遠い港の音に包まれながら、
ふたりはくふくふ笑い、やがて眠りに落ちた。




