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おはようからおやすみまで。


 休日の遅い朝。

 まだ重たい瞼を半分開けて隣を見ると、狐の姿のまま眠る天狐がいた。

 柔らかな被毛を撫でれば、耳をぴくぴくと動かしてからゆっくりと目を開けて、俺を見た。


「おはよう、天狐」

 

 大きなあくびをしたあと、天狐はコャンと鳴いた。




 ──俺の奥さんは可愛い。

 ふわふわの狐耳と、九つの尻尾が特に可愛い。

 いつも素直じゃない言動ばかり取っているけれど、耳と尻尾だけは正直な気持ちを教えてくれるから。

 琥珀色の瞳も好きだ。

 眺めているとキラキラと輝いていて、ずっと見ていたくなるから。

 だけど、見つめ過ぎると怒られてしまう。

 そこも可愛いところだ。


 でも他人から見れば可愛いというよりは綺麗なのだそうだ。

 それはもちろんそうだ。

 他にもクールだとか、セクシーだとか、性格が悪いだとか狡猾だとか態度がでかいとか色々言われるけれど、俺はどれも正解だと思っている。

 それらを全て引っ括めたうえで俺の奥さんは特別可愛いのだ。

 

「おいフロガ。 今日のおやつが無いぞ」


 遅い朝食を終えたころ、突然そんな事を愛しい奥さんから言われた。

 大きな狐耳が不機嫌そうに傾いている。

 九つの尻尾はだらりと垂れ下がり、琥珀色の瞳はまるで猛獣のように俺を睨んでいた。

 普通のヒトならば、この力強い眼孔に怯むのだろうけど、もう十年以上一緒にいるのだから恐怖というものは一切感じない。

 むしろ、耳と尻尾と相俟って可愛いとすら思える。

 それはそれとして、おやつを用意しなかったのにはちゃんと理由がある。


「お前、昨日焼いたクッキー味見するって言いながら全部食べただろ。 あれ、今日のおやつだって俺言ったよな」

「さあなぁ。 そんなこと言ってたか?」


 こういうところは可愛くない。

 

「言った。 その前にタルトだって食べてるし、その後の夕飯なんか殆ど食べなかっただろ。 だから今日はおやつ無し」

「ふざけんな。 抜くなら夕飯にしろ」

「あのな天狐、そんな食生活して良いと思うのか?」

「当然だ」

「………へえ、そうなんだ」


 天狐は悪気もなくこういう事を言う。

 可愛い可愛いと普段から思っているけど、だからといって甘やかして良いわけじゃない。

 今の季節、天狐は体調を崩しやすいから、食事でバランスを取らないとすぐに風邪を引く。

 天狐自身だって、それはわかっている筈だし、気遣っている俺の気持ちもわかっていると思いたい。


「……今日は我慢してやる。 明日はちゃんと用意しろよ」


 黙っている俺の気持ちを察したのか、身を引いた天狐がヒトから狐へと変化する。

 そのままトコトコとソファの上に登って隅の方へ行き、尻尾で身体を包んで丸くなってしまった。

 顔が隠れて尻尾しか見えないのでモコモコした不思議な物体に見える。

 こうしているときは、不貞腐れているか機嫌が悪いときだから、下手に手を出すより放っておくのが一番良い。

 俺が黙っていると、天狐はコャンと鳴いた。


 俺は寝室から読みかけの本を持って来て、天狐の反対側へ座ってページを捲った。

 折角の休日に天狐の機嫌が悪いのは残念だけど、過ごし方はいつもと変わらない。

 


 ──こうしてぼんやりと読書をしながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。

 冬も近くなってきた秋の気候は、じっとしていると肌寒さを感じるようになった。

 でも、一度座ってしまうと立ち上がるのも億劫に感じてしまって、寝室にあるブランケットを取りに行くことができない。


 そうしているうちに、いつの間にか昼になった。


「お昼食べる?」

「食べる」


 毛玉の中から声がする。

 ちゃんと返事をするということは、ちょっとは落ち着いてきたのだろう。

 そのまま反省して欲しい。

 

 キッチンへ行き、昼食の準備を始める。

 冷却魔具の中に残っていた野菜を刻み、それぞれフライパンと小鍋に入れる。

 小鍋には水と調味料を入れて煮込む。

 フライパンの野菜を炒めたあと、溶いた卵を入れて焼き固めた。

 これはトルティージャとかスパニッシュオムレツと呼ばれる卵料理だ。

 ドレッシングを絡めた生野菜を皿に盛り付け、切り分けたスパニッシュオムレツを添える。

 スープとパンを並べれば、これで完成だ。


「お昼できたぞ」


 声をかけると、天狐がヒトに変わった。

 ちらりと俺を見たあと、テーブルの上に視線を移す。

 それからまた俺を見た。


「どうした?」

「……悪かったとは思っている。 お前が栄養を考えて食事を作っている事はわかっているつもりだ」

「いいよ。ほら食べよう」


 こうして素直に謝れるようになったのは、最近になってからだ。

 出会ったばかりの頃は少し気に障っただけで誰彼構わず殺そうとしていたし、ヒトの気持ちなんて微塵も考えていなかったし考えようともしなかった。

 尤も、情操教育というものをされておらず、ヒトとしての尊厳すら与えられない酷い扱いを受けてきたのだから仕方がないとは思う。


 ──当時、俺は天狐への対応にすごく苦労した。

 ヒトの気持ちというものを理解してもらうために、寝る前に本を読み聞かせてみたり、演劇を見せてみたりしたものだ。

 そんな昔のことを思い出しつつ、目の前で静かに口を動かしている天狐を眺める。

 とても可愛い。


「美味しい?」

「いつも通りだ」


 いつも通り美味しい、という事だ。

 こういういじらしいところも可愛いけど、いつになったら素直になってくれるのだろう。

 ……いや、素直になったらなったで更に可愛くなって困る。

 これ以上可愛くなると、周りのヒトが天狐が実は可愛いのだという事に気付いてしまう。

 それは駄目だ。 すごく困る。

 天狐が可愛いという事実は俺だけが知っていれば良いのだから。


 食事を終えると、またソファの上へ戻る。

 位置はさっきと変わらない。

 ローテーブルの上に置いておいた本を手に取り、ページを捲ったところで俺は後悔した。

 ブランケットを持ってくるのを、また忘れてしまった。

 お腹がいっぱいになった事で、立ち上がるのが更に億劫になっている。

 食事で温まっていた身体も薄っすらと寒くなってきた。

 いっそ暖房魔具を稼働させようか。

 もやもやとしつつ、ソファに張り付いた体をいつ引き剥がそうか考えていると、何かが膝に触れた。

 それは狐になった天狐だった。

 膝の上で丸くなり、ふわふわの尻尾が脚に絡む。

 

「ありがとう。 暖かいよ」


 天狐はコャンと鳴いた。

 それから大きなあくびをして、目を閉じる。

 優しく揺れていた九つの尻尾はやがて動きを止め、黄金の被毛がゆったりと規則的に上下しはじめた。

 俺はまた、本のページを捲る。

 紙の乾いた音が、静かな部屋に響いた。

 

 ──本を一冊読み終える頃、窓から差し込む光は濃いオレンジ色になっていた。

 部屋全体を包むその光は、家具に反射して燃えているような錯覚すら起こす。

 その光景は、ほんの一瞬だけ俺の中の苦い記憶と重なった。

 スッと背中に湧いた冷や汗がシャツに張り付く。


 

(違う。あのときは黒い煙が立ち昇っていて……こんなに綺麗じゃなかった)


 首を振って、膝の上にいる天狐をそっと撫でる。

 大きな耳がぴくりと動き、尻尾が揺れ、琥珀色の目を開けて俺を見た。

 それから徐ろにヒトへ変わると、柔らかな九つの尻尾が俺の身体を包んだ。


「どうしたんだ、フロガ」

「どうもしないよ」

「顔色が悪いぞ」

「そうかな。 でも、本当に何でもないよ」


 細い指が頬に触れる。

 どうやら俺は良くない顔をしていたらしい。

 天狐は表情こそ変わらないが、瞳が心配そうに揺れているので俺は安心させるつもりで手を取って笑ってみせた。

 が、天狐はついに顔を顰めてしまった。

 何が悪かったのだろう。


「また悪い夢でも見たのか」

「いや、もうずっと見てない。 夜もちゃんと眠れてるだろ」

「それはそうだが……本当に大丈夫なのか?」


 心配してくれるのは嬉しいけれど、それに頼って依存するのは良くない。

 だけど我慢をするのも良くないのだという事も、俺はちゃんと覚えた。

 だから、本当に辛い時は天狐に頼るつもりだ。


「ああ。 お前がこうしてそばにいてくれれば、俺は大丈夫」

「……そうか」

「辛くなったらちゃんと頼るから。 そしたら、俺を目一杯甘やかしてくれよ」

「……わかった」


 天狐は少し呆れたような顔をして、優しく抱き締めてくれた。

 柔らかくて、温かくて、良い匂いだ。

 それをもっと感じたくて、天狐の背中に手を回して抱き締め返すと、俺の肩に天狐が頭を乗せた。


 しばらくして、天狐が俺から離れる。

 顔を上げれば、琥珀色の瞳と目が合った。

 色濃くなったオレンジの太陽が反射している瞳は、いつもよりずっと輝いて見える。

 それだけじゃない。

 黄金色の髪も、俺を包む柔らかい尻尾も、キラキラと煌めいていた。


 それは、恐ろしい記憶の中とは似ても似つかない、とても美しい光景だ。


 ――きっとこれから、夕陽を見るたびにこの光景を思い出すだろう。

 

 思わず手を伸ばして天狐の頬に触れる。


「ありがとう天狐……すごく綺麗だ」


 触れていた頬が熱くなる。


「……何を言っているんだ」

「思ったことをそのまま言っただけ。顔、赤いぞ」

「夕陽のせいじゃないのか」

「そうかなぁ」


 俺の手を振り払うこともせず、ただ目を背ける天狐が愛おしいと思った。

 とても可愛い。


「はやく夕飯作れ」


 照れ隠しの一言すら可愛い。

 ずっと見ていたいけれど、そんな事をしたら本気で怒られるので俺は重い腰を上げて、夕飯の準備をする。


 夕飯は昼に余ったスパニッシュオムレツと根菜のスープだ。

 たっぷりの根菜と鶏団子を入れて、ショウユベースで味付けする。仕上げにショウガを加えれば、体も温まる。

 昼に作ったスパニッシュオムレツをそのまま出すのは流石に手を抜きすぎたかと思ったけど、天狐は嬉しそうに夕飯を平らげた。


「昼と同じでごめんね」

「別に。 いつも美味いから気にならない」

 

 それが、俺が作ったものなら何でも美味しいという意味だとわかったので、ちょっと照れた。

 

 

 ──夕飯が終わり、片付けを済ませて、風呂の準備をする。

 お湯張りが終わるまではソファで寛いで、風呂を済ませた後は戸締まりを確認して、眠る準備をした。

 明日も休みなので、あまり早く寝る必要はないけれど、なんとなくいつもの習慣でベッドへ入ってしまう。

 いつの間にか狐の姿になっていた天狐が、俺の隣へと入って腕の中に収まる。

 可愛いね。

 天狐はコャンと鳴いた。


 それからヒトへ変わり、俺の背中に細い腕を絡めた。

 今日は珍しく甘えたい気分らしいので、俺は存分に天狐を抱き締める。

 やっぱり俺の奥さんは可愛い。

 

「おやすみ、天狐」

 

 天狐がコャンと鳴いた気がする。


 きっと夢の中にも出てきてくれるだろう。

 そしたら、またこうやって抱き締めたいな。

 そんな事を思いながら、俺は目蓋を閉じた。

 

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