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マリーの祈り

新婚旅行先のコテージが気に入ったと言えば「このまま買い取って暮らさないか?」と、ご主人様に提案された。


「でも、子供たちが…」


「ベロニカは飛び級で大学生になったし、アーチャーは秋から官庁に就職だ。アグネスも成人した。一息ついてもいい頃じゃないかな? 乳母さん」


茶目っ気たっぷりにウインクされると、くすぐったくてほほ笑んでしまう。


ロン・チャーチル宰相はとても忙しい人だけど、そんな彼を待ちながらゆっくり暮らすのも悪くない。子どもたちだって、休暇になればここを訪れるだろう。


「素敵ね…」


コテージには温泉がついていて、窓からは海が見える。

戸締りを厳重にしなくてはいけない決まりがあるらしく、自由に外出できないのが少し窮屈だろうか。有閑階級の避暑地だから、厳戒にせざるを得ないのだと、説明された。


でも、宰相夫人として社交界に顔を出すより、田舎の小さな家で家事や裁縫をしている方が性に合う私だ。

ご主人様がそれをよしとおっしゃるなら、甘えてみようかしら。

うなずくことしかできない私に、ご主人様は満足そうに微笑んでくださった。


私たちの新婚生活は、ご主人さまが王都で、わたしは南部のコテージで暮らしはじめた。


コテージの生活は、穏やかで快適だ。


玄関や窓は頑強で、絶対に侵入者を許さない。不埒者なんてそうそういないけれど、安心できる。


広いリビングと、殺風景な作業部屋と、夫婦の寝室がカーテンで仕切られている。コテージを広く見せるためか、扉はない。キッチンもない。時間になるとシスターが食事を届けてくれるから、包丁もコンロも必要ないのだろう。


海の幸やとれたての果物、敷地内で育てている野菜をふんだんに使った、シンプルだけど飽きの来ない料理がうれしい。宰相家の晩餐は豪華で素敵だったけれど、田舎育ちの胃には少々重たかった。


私は日中、ほとんどの時間を刺繍をさして過ごしている。

ときどき遊びにくる隣人が「とても上手だ」「娘のお手本にしたい」と、購入してくれる。


このあたりは「コテージ村」と呼ばれていて、病院も商店も教会もなんでもそろっている。私はあまり外出をしないけれど、食事を運んでくれるシスターに頼むと、護衛の騎士をよこしてくれる。


もともとは観光用のコテージ村だったけれど、遊びに来た貴族が買い上げて住み着いてしまうので、今は観光地ではありませんね、とシスターが言った。


夜は、ひとりで夫婦の寝室で眠っている。たまに訪れるご主人様は、リビングのソファを使う。


寝室が寝室の役目を果たしていないけれど、ご主人様が「僕も年だから、そういうのよりも心の寄り添いを大事にしたい」とおっしゃるので、ありがたくも白い結婚が続いている。




海辺のコテージに暮らして、10か月が経った。

春の盛りで花が咲き誇り、なんとなく眠くなりそうな午後だった。


何の前触れもなく、ものすごく久しぶりに、ご主人様がコテージを訪れた。いつもは一分の隙もなくスーツを着こなしているけれど、この日はなんとなくくたびれていた。

彼らしくない、無精ひげのせいかもしれない。


「マリー。落ち着いて聞いてほしい」


ご主人様の背後には、アーチャーと、白い服を着た男性がふたり控えていた。私はご主人様とアーチャー以外の男性はとても苦手だから、外で待機してくれないかなと思ったけれど、我慢した。


「どうされましたの? なんだか、とても疲れて…」


「アグネスが、死んだ」


え…。


私の中で、時が凍りついた。


アグネスが、死んだ? 私の知らないところで? なぜ?


「ど、どうして?! あの子は極北の修道院でシスターになったのでしょう?!」


「心の病気だったんだ。自殺した」


私は目を限界まで見開き、記憶の中のいとしい娘の姿を探した。


私も亡くなった主人もアーチャーも、ふんわりとしたシルバーブロンドなのに、あの子はなぜか癖の強い黒髪で生まれた。私の親戚に黒髪はいないから、亡き夫の血筋で先祖がえりでもしたのだろう。


私が以前仕えていた伯爵さまは、黒髪の巻き毛で、とても優秀な人だった。

小さいころから神童と呼ばれ、テストも作文も一番だった。だけどご気性が……まあ、仕えていた方の悪口はよくありませんね。


黒い巻き毛で緑色の目をしたおとなしい女の子。それがアグネス。豪華なドレスよりも、粗末なお仕着せが似合う不思議な子だ。

飾り立てると美しさが霞み、質素な装いをすると清楚さが浮き出るというか。神秘的で、特別な美を持っていたと思う。その上、記憶力

が良くて器用だった。


あまりに秀でた人は、咎などなくてもひどい目にあうことがある。


どこぞの領で、たいそう美目麗しい乳母に懸想し、その夫を殺して思いを遂げた貴族がいると聞いた。乳母だった女は生家に捨てられ、貴族の身内に虐げられ、夜な夜な慰み者にされたという。恐ろしい話だ。


高位の貴族でも大商人の娘でもないアグネスが才能を発揮したら、あの子はあの人たちにさらわれてしまうのではないか。


恐ろしくなって、学校にやることを禁止した。

かつてのご主人様のように賢い子なら、学校などいかなくても文字や計算ぐらいできるようになるだろう。

というか、すでにできるはずだ。

愛しいアグネスに、学も苦労も必要ない。ハウスメイドくらいがちょうど良いだろう。ハウスメイドなら宰相家から出る必要もないし、世間の冷たい目にさらされなくてすむ。


しばらくして、わたしと宰相様の間に再婚話がもちあがった。わが子同様にいつくしんで育てたベロニカ様に「本当のお母様になってほしい」と、いじらしくも愛くるしいお願いをされたからだ。

夫を失って以来、わたしは男性の存在を厭わしく思うようになっていた。でも、宰相さまは別だ。今まで出会ってきた多くの男性のように、不埒なことを言ったり、したりしない。


それに、わたしが宰相様と結婚すれば、父親のいないアーチャーの就職も、だいぶ有利になるだろう。


謹んでお受けすると、ベロニカ様は本当にうれしそうに抱きついてくれた。奥様のことは折に触れてお伝えしてきたけれど、やはりお淋しかったのだろう。


アグネスは無表情で、嬉しそうでも悔しそうでもなかった。今思えば、母親をとられたような気分だったのかもしれない。

あの時もっとアグネスによりそっていたら、あの子は自殺なんかしなかったのだろうか? 


……わからない。


宰相様の婚約者となった私は、じわじわと身の危険を感じるようになった。


馬車で移動すれば襲撃されかけたり、かつて仲良くしてくれたお友達が遠巻きになってしまったり。


それよりなにより、自室に毒や劇物を仕込まれるのが、応えた。


どこで調べたのか、アグネスが的確に処理してくれなかったら、わたしの命などとっくに失っていただろう。


特に、酸を仕組まれた時は、はらわたが煮えくりかえった。


アグネスは全身にやけどをしてしまうし、それを見たアーチャーがショックで過呼吸になってしまうし。あの時のことはぼんやりとしか覚えていないけれど、本当に驚いた。アーチャーが死んでしまうかと思った。アグネスも怪我をしてしまうし、最悪だ。


事件を重く見た宰相さまが、私とアーチャーの部屋に護衛を増やした。そして私たちに騎士と執事が監視するリビング以外で、来客や商人と会うことを禁止された。


宰相様の采配が功いたのか、私への嫌がらせがぴたりと止まった。最初から相談すればよかったと、後悔した。そうすれば醜悪なものを目の当たりにしたアーチャーが、苦しい思いをしなくて済んだのだから。


アグネスはあの時のことを、どう思っているのだろう。

顔がつぶれたぐらい、なんてことはない。

むしろ、欠点だった髪や目がただれた皮膚に隠れて、具合が良くなったと思うのだけど。

それでもアグネスは傷ついたのだろうか。年若い女の子だから、自殺したくなるほど思い詰めてしまったのだろうか。


…わからない。


本当に、わからない。


幸せだったはずのあの子が、死を選んだ理由が、なにひとつわからない。


「葬式には僕とアーチャーだけ参列する。君はここで休んでいなさい」


疲れた顔のご主人様に、わたしは生まれて声を荒げた。


「いいえ、行かせてください! あの子の最後の姿を、ちゃんと見守らなくちゃ。だって母親だから、母親なんだから…! 」


そうよ。だから、夫が早逝したからって、堕胎なんかしないわ。


するもんですか。


…だって、汚れた父親と汚された母親から生じた罪深い肉体は、なにひとつ償っていないもの‼︎


生まれる前に殺されたら、永遠に天国に行けないわ!


「ちゃんと確認しなくちゃ。あいつの遺伝子がきちんと抹殺されたこと、確認しなくちゃ。罪から生まれた罪のないアグネスを、神様にお返しする時がきたのよ! 全部ちゃんと確認して、あの人に報告…しなくちゃ!!」


ああ、可愛いアグネス。汚れない魂は、ちゃんと天国に行けたわよね?


だって、たくさん、たくさん試練を与えたもの。


肉体の罪が浄化されますように。


魂が救われますように。


あの男から与えられた、汚れた部分が全て地獄に堕ちますように…!



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