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宰相様の企み



あの日からマリーは、ろくに食事もとらず、ほとんど眠りもせずに祈り続けている。


アグネスの魂が神の身許に召されることを、アグネスの肉体を塵になるまで痛めつけたい欲望を。隠しもせずに祈り続けている。


祈り疲れては眠り、無意識にパンをほおばっているから、まあ、死にはしないだろう。


このコテージにはこういう患者が少なくない。


患者たちはおおむね善良でおとなしいのだけど、「発作」がおきると一般人の手には負えなくなる。

僕や管理者たちが驚くには値しないけれど、初めてここを訪れたアーチャーには、そうとうショックだったみたいだ。


官庁に入社したばかりの新人にまとまった休みがとれるはずもなく、王都に小さな家を買って引き取りたいと言い出したが、却下した。


物理的に、誰が彼女の面倒をみるのだ? 

侍女か? 

家政婦か? 

高い金を出して専門の看護婦を雇うのか? 

重症の精神疾患者を扱うノウハウを持つ入院施設(コテージ)の方が、よほど安全だ。事故も少ない。

そう説得すれば、うなだれて黙ってしまった。


この男は頭は悪くないが、いかんせん視野が狭いな。


まあ、母親がこれではいたしかたあるまい。いや、問題は母親よりも婚約者か。


祈り続けるマリーは当番の看護師にまかせて、見舞客用のカフェにアーチャーを誘った。


海が近くて温暖な気候だから、魚も果物もめいっぱい採れる。ここの食事は味付けこそシンプルだが、豪華だ。昼餉の時間はとっくに過ぎていたのに、アーチャーはコーヒーを注文しただけだった。


「マリーはまあ、なるべくしてああなったかなあって感じなんだよね」


「……」


「ま、可哀想だとは思うけど。アグネスの15年間のほうがよっぽど可哀想だったしね。そもそも、法律で裁かれてたら、こんな生活はできないよ?」


それを言われると弱いのか、アーチャーはコーヒーさえ手をつけるのをやめてしまった。南国の太陽はとても強くて、影が濃い。色素の薄いアーチャーは、この自然に飲まれて消えてしまいそうに見えた。


「僕が心配してるのは、マリーより君なんだけどね」


「は? 僕、ですか?」


けだるげに顔をあげるアーチャーは、マリーに似ていたら傾国の美少年だっただろうか。良く整った容姿だが、マリーのような儚さと妖艶さが入り混じったような色香はない。

さわやかな美男子だったという父親に似たのだろう。

特に弓術が優秀だが、血のついた切っ先が怖くて剣に集中できないから、父と同じ騎士になるのは難しかっただろう。


「本音はいやでしょ。このままなし崩しに、うちのお嬢さんと結婚するの」


「……」


答えはしないけれど、嘘が苦手な男だ。私は腹の底からおかしくなって笑った。


「婚約破棄したって、マリーを放逐したりなんかしないよ」


「大事な研究材料だから、ですか?」


「おや、君も言うようになったねえ」


ほっほっほと笑うと「この狸ジジイが」と副音声が聞こえてきた。うん、気のせいじゃないね。絶対。


「ベロニカには感謝してますけど、あんたのことは恨んでます。もっとはやい段階で、母さんとアグネスを引き離すことだって、あんたの権力ならできた。でもしなかった。ベロニカという優秀な精神科医を育てるために、あんたは母さんとアグネスの人生を犠牲にしたんだ」


いつか言おう。いつか言ってやる。そう思って、何度も何度も練習してきたんだろうね。気が弱くて繊細な子供が、心の中で血反吐を吐きながら。


これを指導してきたのはベロニカかな? 

うん、ほんと優秀だよね。あの子。

僕の前世なんか、とっくに追い抜いちゃってるよね。書籍が何万部売れたか、とかじゃなくてさ、うん、前世の僕に見せてやりたいよ。


「ま、否定はしないけどね。君だってアグネスを犠牲にしてきた。ベロニカに滅多打ちにされなかったら、今でもそれに気がつかず、マリーと同じ精神世界で生きていただろう。というか…マリーの精神世界は、君にとっては甘美だろ?」


人間は、本気で怒ると制御がきかなくなる。

この時のアーチャーもそうだったのだろう。転生してはじめて、本気で他人に殴られた。ひよっことはいえ、さすがは弓術の達人だ。いいパンチを持っている。

僕はテーブルごと後ろ向きに倒れ、アーチャーは肩で息をしながら去って行った。


給仕たちがあわてて僕のまわりに集まってくる。

追いかけた護衛を引きとめるように指示して、隣のテーブルに移った。

白身魚の塩焼きは惜しいが、これで良い。


すべての暴力から目をそむけ、都合のよい平和だけを享受するしかない無力な子供を、無事に卒業できたのだから。


あとは…ちゃんとベロニカに好きだって言えたら満点なんだけどね。

まあ、まだ、あの青二才には難しいかな。


アーチャーに言い訳する気はないが、僕はマリーがアグネスを育てるなんて大反対だったんだ。


アグネスに罪はないが、その出生があまりに残酷すぎる。

良夫を殺した男の子供を身ごもり、愛せる女が、この世にどれだけいるだろう? どんなに愛されても、育った子供だって傷つかずにはいられまい。頼る夫も実家もないマリーには、相当難しいと思った。


出自を隠して孤児院に引き渡すつもりだったのを、死の間際に愛しい妻がトチ狂った。

「マリーも、アーチャーも、アグネスも一緒がいい。助けてほしい。あなたにはそれができるし、前世とやらでその研究をしてきたんでしょう?」なんて焚きつけるから。

「お願い。みんなを幸せにして」なんて泣くから。

意識が混濁しながら、幼いわが子とその乳姉妹と、その母と兄の将来を切に願うから。


……道を踏み外してしまったじゃないか。


…と、地獄に落ちたら妻に文句を言ってやる予定である。


アーチャーにとっての僕は、悪役であれば良い。妹を悪役に仕立てるよりは健全だし、やってきたことを思えば現実的だ。

そう言ったらきみは、コロコロと笑い転げるんだろうな。地獄の奥底で、僕と一緒に。


だが、その日が来るのは、もう少し先だろう。

まずは、王都に戻って、お仕事しますか。

生きている間に、保健制度を整えて、もうひとつかふたつは診療代の安い国立病院を作らなくちゃ。

女医さんが働きやすい環境も、整えなくちゃいけないからね…。


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