第七章 転 ー見えない神と嵐の予兆ー
瑞京への帰還と穏やかな日々
白槍衛右隊の一行が風舞洲の港町・清嵐を発ってから数日、瑞京への道程は予想外に穏やかなものだった。
海面はまるで張り詰めた硝子のように静まり、鼓風輪の低く柔らかな駆動音だけが、空と海との境をなぞるように響いていた。
黒瀬岳の手配した船は慎重かつ正確に航路を辿り、いくつかの港町に寄港したが、どの地にも神威の乱れや異形の兆しは見られなかった。
旅の終盤、ふたりはある宿に腰を落ち着けることになった。
その宿での夕餉は、土地の恵みをふんだんに使った料理が並び、目にも鮮やかだった。焼きたての鰆の塩焼き、ふっくらとした蛤の酒蒸し、地元野菜の炊き合わせ、そして香ばしい胡麻味噌汁が膳に添えられていた。
沙耶は湯気の立つ膳を見て、目を細める。
「……すごいわね、どれも出来たて。ふふ、こうして誰かと食べるのって、案外、嬉しいものなのね」
そう言いかけて、彼女は茶碗を持ち直しながら続けた。
「私は、嬉しいわよ。光継と、こうして同じ膳を囲めるのが」
光継は少し照れたように微笑み、器からひとつの菜を取って沙耶の方へ差し出した。
「これ、好きだろう? 鰆の塩焼き」
沙耶は小さく笑って頷くと、箸で別の料理をつまみ、そっと光継の口元に差し出した。
「ありがとう。……こっちは蛤の酒蒸し。好きだったわよね? ……あーん、して?」
光継は一瞬たじろいだが、沙耶の瞳の中に浮かぶ照れ隠しのようないたずらっぽさに気付き、苦笑しながら口を開いた。
「……いただきます」
蛤の旨味が口いっぱいに広がる。
「うん……おいしい」
その言葉に、沙耶はふわりと微笑んだ。
「よかった」
そんな何気ないやり取りの中に、ふたりの距離は静かに、しかし確かに縮まっていった。
幾つかの港を巡りながら、彼らは瑞京へと帰還した。
*
一方その頃、白槍衛左隊の香鶴は、南方の遠洲・潮崎を訪れていた。表向きの任務は、霧栖命の不在に伴う周辺環境の変化を探ることだった。 特に、急増する外国貿易商人との交渉記録や、地方神職たちの神事儀礼の簡略化が、国家祭祀制度に及ぼす影響を調査するよう命じられていた。
日中は潮風の香る町を歩き、記録所や古社を訪ね歩いていた香鶴だったが、ある夜、潮崎のさらに南に位置する沿岸の集落が壊滅的被害を受けたという報せが届いた。
即座に救助隊と共に現地へ急行した彼が目にしたのは、無惨に折れた柱と流された家屋、泥に埋もれた田畑、そして言葉を失い呆然とする人々の姿だった。
倒壊した家屋の間を縫うように進みながら、香鶴はがれきの下からかすかに聞こえる微かな声に耳をすませた。声の方へ身をかがめ、手袋も外して素手で木片や石をかき分ける。埃と土にまみれながら、ようやく小さな子どもを抱き上げたとき、子どものか細い嗚咽と、後方で母親が涙をあふれさせて駆け寄る姿が重なった。
休む間もなく、彼は炊き出しの手伝いにも加わった。大鍋の前に立ち、普段の軽薄そうな仮面は消え、静かな手際で米を研ぎ、湯気立つ椀を配っていく。受け取る者の手が震えていることに気づいても、何も言わずに一礼し、次の者に椀を渡した。
その合間、香鶴は壊れかけた社の柱の陰に腰を下ろした。そこでは、老いた神職と思しき男が、割れた灯明台の前で、静かに霧栖命の名を唱えていた。両手を合わせたその祈りの姿は、声なき訴えのように、崩れた社の奥に沈黙を捧げていた。
香鶴はそれを横目に、風に揺れる布を整えながら、ぽつりと呟いた。
「……ここが、ほんの一晩で?」
老人はしばらく空を見上げていたが、やがて、喉の奥で擦れるような声を絞り出した。
「台風じゃ。だが……こんなもんは、わしも七十年生きとって初めてじゃ。風が唸って、海が引いて……雷だけが妙に響いとった。けれど、雨はほとんど降らんのじゃよ」
香鶴は唇を引き結び、潮汐の変化や気圧の記録を求めて、壊滅した村から少し北に位置する港町の記録所へと足を運んだ。そこで風向きと海の様子を改めて確認し、いくつかの観測記録を読み解いた。
(……この異常気象が偶発的なものではなく、今後も各地で同様の大規模災害を引き起こすかもしれない)
調査任務どころではない。このままでは北方にも同様の事態が及ぶかもしれない――そう判断した香鶴は、ただちに任を打ち切り、瑞京への帰還を決断した。
濃霧は晴れる気配を見せなかったが、彼の足取りは、研ぎ澄まされた刃のように迷いがなかった。
*
数日後、瑞京・白槍衛本営の執務室。静かな陽が障子越しに射し込む午後、景虎の机前に立つ守屋光継は、背筋を正して報告を終えたところだった。
「……神威の乱れや異形の気配は、確認できませんでした。各地の神社も健在で、祭祀の記録にも不審な点は見られませんでした」
景虎は報告書に目を通しながら、ふと口元を緩める。
「ご苦労だったな。……だが、黒瀬からはお前と沙耶がいちゃついてばかりだと愚痴を聞かされたぞ」
光継は不意を突かれたようにまばたきし、やや顔を背けながら答えた。
「……あれは、黒瀬が“新婚夫婦に偽装しろ”と言ったからで……」
「だが途中からは、“本人たちが仕事を忘れて楽しみ始めている”とまで言われていたぞ」
笑いを堪えるような景虎の口調に、室の隅から紫苑の柔らかな声が重なった。
「で、実際のところはどうなのかしら?」
光継は一瞬だけ表情を曇らせたが、やがて真っすぐに二人を見つめ直し、低く、しかしはっきりと告げた。
「お願いがあります。瑞京の町中で構いません。沙耶と二人で暮らせる家を――紹介していただけないでしょうか」
一瞬の静寂のあと、紫苑と景虎が目を見開き、顔を見合わせる。
「……本気か? お前、どこかの名家の娘を捕まえて玉の輿に乗るんじゃなかったのか?」
からかうような景虎の言葉にも、光継の瞳は揺れなかった。
「ああ、本気です。沙耶と過ごした日々が、俺の中の何かを変えた。もう、形だけの未来なんて望んじゃいない」
その真摯な言葉に、紫苑がやさしく微笑み、深く頷いた。
「……分かったわ。ふたりに相応しい家を探しておく」
景虎も、わずかに目を細め、深くうなずいてから、くすりと笑う。
「俺たちの婚儀より先に“新婚旅行”を済ませてきたようなものだな」
光継は赤面しかけたが、顔を上げてきっぱりと返す。
「――あくまで任務の一環でした」
室内に、穏やかな笑い声が広がった。その空気のなかで、光継の胸の内には、誰にも言えぬ確かな決意と、薄氷の上に立つような静かな不安が、密やかに芽生えていた。
*
瑞京に戻った光継と沙耶は、白槍衛の詰所近くにある仮住まいでの生活を始めていた。
庭に面した木戸から射し込む朝の光が、薄紙越しに室内をほんのりと照らす。沙耶は決まって早起きで、台所に立ち、湯を沸かしながら慎重に出汁を取り、味噌汁の鍋を見守る。炊飯の音がかすかに聞こえる頃、光継も起き出してきて、まだ眠たげな顔のまま布団をたたみ、火鉢に湯を掛けて湯呑を並べる。
「今度こそ美味しくできてるといいんだけど」
沙耶が湯気を覗き込みながら呟くと、光継はふと彼女の肩に手を伸ばし、髪に絡んでいた糸くずをそっと取った。
「大丈夫だ。昨日より香りがいい」
光継がそう言うと、沙耶は照れくさそうに微笑む。その笑顔に、何気ない朝のひとときが、かけがえのない安らぎへと変わっていく。
朝食を済ませると、光継は白槍衛の詰所へ出仕し、報告や訓練に加わる日々をこなしていた。
一方、沙耶は町中の市場に買い物に出かけたり、洗い物を終えた縁側で風に当たりながら縫い物に勤しんだりと、静かな生活にすぐ馴染んでいった。家事はあまり得意ではなかったが、少しずつ味付けや米の炊き加減を覚え、失敗した日の夕餉には「明日はもっと上手くやるわ」と明るく言いながら、それでも最後まで笑顔を絶やさなかった。
そんな日常のなかで、光継はふとした瞬間にも考えを巡らせていた。
(風の神――霧栖命。顕現以来、風害は減り、人々の暮らしは豊かになった。けれど近年では、その“加護”を日常として受け流すようになり、信仰の形も変わってきた)
(代わりに増えたのが、“恋の神”としての信仰。恋占いや縁結びの神として、若者たちの間で名を呼ばれることが多くなっている……)
(だが、神は“恋”を知らない。ならば、いっそそれを知るために、自ら人に宿ろうとしたのではないか)
その一方で、昼の合間や帰宅前のわずかな時間を使って、町の文庫や瑞京学問所、さらには桐葉宮内に設けられた禁書庫にまで足を運び、古文書や神職記録を丹念に読み漁っていた。
白槍衛は神域防衛と宗教秩序の維持という任務を帯びた直属近衛であり、すでに神事において勅命を要せぬ高位の権限を持つ。そのため、通常では閲覧できぬ秘蔵の記録にも、自らの裁量で目を通すことができた。
特に、神が人の身体に宿る現象や、それにまつわる民間伝承、神楽師に関する記述に集中していた。彼は特定の仮説を抱き、それを検証するように、古の神憑りの記録をひとつひとつ照らし合わせていた。
そのなかで、かつて紫苑に沙耶自身が語った、“風祈の舞”の最中に異変が起きたという件に関連して、近海で風が強く吹かなくなったという時期と一致していることに気が付いた。だが、それは季節的な変動の可能性もあり、光継の推論は確信を持つまでには至らなかった。
帰り道には、街角の露店で焼き餅や干し果物を買い求め、沙耶への土産にするのが日課となった。沙耶はそれを受け取るたびに目を細め、「今日は味噌汁、ちゃんと味ついてたでしょ?」と得意げに笑い、光継は「合格だな」と返していた。
夕暮れ時には、ふたりで縁側に腰を下ろし、瓦屋根越しに見える西の空を眺めながら、ゆるやかな時を過ごした。沙耶は風に髪をなびかせながら、少し寂しげに呟いた。
「……こういう日々が、ずっと続けばいいのにね」
光継はその言葉に答えず、ただ黙って頷いた。
*
その頃、香鶴が瑞京へと戻り、南方の港町を襲った“異常な台風”についての報告を景虎と紫苑に行った。
報告の場に同席した光継は、香鶴の語る被害の規模に息を呑み、霧栖命の不在がもたらした現実の災厄に接したことで、ついに思いを決断に変えた。
「……相談があります。あくまで仮説ではありますが、どうしても気がかりなことがあるのです」
そう前置きして、光継はこれまでの調査と自らの仮説を語った。神が人を知るために舞手に宿るという考え方は、断片的ながら古記にも記されていた。ただ、それらの多くは曖昧な表現に留まり、明確な証拠とは言い難かった。
「……俺は、沙耶の中に霧栖命の“記憶”が宿っているのではないかと疑っています」
室内には一瞬、張り詰めた沈黙が流れた。
紫苑が静かに口を開いた。
「――では、婚儀の際に神楽を奉じる場を設けましょう。彼女に舞を頼む。……そのときに、私自身で確かめてみます」
景虎もまた、深く息を吐いてから言葉を継いだ。
「もしお前の言うとおりなら……沙耶の“想い”そのものが、霧栖命の影響である可能性もある。それでも……お前は、沙耶を選ぶのか?」
光継は言葉を詰まらせた。
その夜、仮住まいに帰ると、沙耶は台所で炊きたての飯をよそいながら「今日はお味噌、少し甘めにしてみたの」と笑った。
光継はその後ろ姿を見つめながら、胸の奥に湧いた不安を飲み込んだ。
――彼女の笑顔が、本当に“沙耶”のものなのか。
それでも、彼はその背にそっと歩み寄り、箸を取り、いつも通りの夕餉に加わった。
*
瑞京の南殿に設けられた会議の間。高窓から差し込む陽光が、床に敷かれた絵織の絨毯を淡く照らしていた。壁際には緋の帳が垂れ、部屋の中心には磨かれた黒漆の長机が据えられている。その周囲に並べられた椅子には、それぞれの立場を表す紋章が刻まれていた。空気は張り詰め、窓の外で揺れる梧の葉音さえ遠く感じられるほどだった。
香鶴は白槍衛の礼装をまとい、会議用の椅子に姿勢正しく背を張って座っていた。手元の報告書を握る手は、わずかに震えている。いつもの風のような薄笑いは消え、代わりに深い疲労と憂慮の色がその顔に滲んでいた。
「……報告いたします。南方、龍尿洲の港町・大津波村において、異常な気象現象が発生。従来の台風に比して風速、気圧、潮位変動が桁違いに大きく、わずか一夜で村の八割が流失。被災者数百、行方不明者も多数……」
香鶴の声が、会議の間に静かに響いた。
「風が唸り、海が異様に引いた後、雷鳴が続けざまに響きました。ですが……奇妙なことに、雨はほとんど降らなかったとのことです」
景虎は眉を寄せ、ゆっくりと背を伸ばすと応じた。
「……それだけ風による被害が中心だったということか。暴風が最も大きな災害だったわけだな」
紫苑は手元の文書に視線を落としたまま、静かに呟いた。
「霧栖命の助力が……消えた。そう考えるしかないわ」
報告の場には光継も同席していた。彼は拳を膝の上で固く握りしめ、香鶴の言葉にひとつひとつ反応するかのように、無言のまま顔を強く張っていた。
そして、やがて――堪えきれぬように口を開いた。
「……相談があります。あくまで仮説ではありますが、どうしても気がかりなことがあるのです」
視線をまっすぐに景虎と紫苑へ向けながら、光継は静かに言葉を継いだ。
「霧栖命は、今や『風の神』としてより、『恋の神』として信仰を集めつつある存在です。しかし、神にとって『恋』は人のもの。もしそれを知ろうとしたならば……その手段として、人に宿るという選択をしたのではないかと」
紫苑がわずかに目を細めた。
光継は言葉を続ける。
「その宿り先として、神楽師が選ばれた。実際、『風祈の舞』を舞った最後の神楽師は沙耶です。そしてその後、近海では風の流れに変調が見られ、強風が吹かなくなったという報告があります」
「白槍衛の立場をもって、高位神職の秘蔵文書にも目を通しました。その記録の中には、まさにその風祈の舞の直後、風が急激に弱まったという記述がありました。奇しくも、沙耶が姫にこう伝えた時期と一致しています――『風野州の祭礼にて風祈の舞を奉納した際、祭壇が裂け、香炉が倒れ、風は逆巻き、空には雲一つないのに雷の音が響いた』と。まるで神が怒っているかのようだった……と」
光継は深く息をつき、机に置いた手を握り直した。
「……もちろん、季節的な変化という可能性もあります。けれども、証言と記録、そしてその後に起きた異常気象。これらが重なるのは偶然とは思えません。だからこそ……俺は、沙耶の中に霧栖命自身が宿っているのではないかと、そう考えているのです」
沈黙が場を満たした。
やがて、紫苑がゆっくりと椅子にもたれながら、慎重な口調で言葉を継いだ。
「――にわかには信じがたい話です。神楽師は舞を通じて一時的に神を宿す存在ではありますが、それは一時のこと。神を演じるためにつける仮面を取れば、普通の人として戻ります。仮面とはそのように使うための道具。仮面を外しても、神が神楽師の中に残るはずもありません」
その声音には、神事に深く関わる者としての厳粛な響きがあった。紫苑は桐神道の象徴的存在であり、神子として霧栖命と直接対話した経験を持つ数少ない人物。その言葉は単なる知識ではなく、自らの体験と覚悟に裏打ちされていた。
「……神とは、姿も形も持たぬ“理”のようなもの。名を呼ばれ、祭祀の場に降りることで、初めて形を成します。人の世に現れるには、蓮面の童子のような依代を通すか、神楽の舞に応じて一時宿るというかたちを取るのが常です。けれど、舞の場を離れてもなお神の気配が消えぬなどという例は、記録にも、伝承にも、私の記憶にも――ひとつとしてありません」
紫苑はしばし思案の間を置いてから、改めて光継を見た。
「ですが……その“例外”が、沙耶である可能性も否定はできません。今度、婚儀の際に神楽を奉じる場を設けます。沙耶に舞を依頼するつもりです。その時に……彼女の内に、霧栖命の気配があるか、私自身で確かめてみましょう」
景虎は黙って聞いていたが、腕を組みながら、ゆっくりと視線を光継に向けた。
「もしお前の言うとおりなら……沙耶の“想い”そのものが、霧栖命の影響である可能性もある。それでも……お前は、沙耶を選ぶのか?」
その問いは、決して咎めではなかった。親友としての、深い懸念といたわりに満ちた言葉だった。
光継はすぐに答えられなかった。言葉の代わりに、硬く拳を握るだけだった。
紫苑は視線を外し、障子越しの光の揺らめきを見つめながら、静かに言葉を落とした。
「――神が恋を“演じる”ために人の中にいるのなら、やがてその役目を終えれば去るでしょう。その時、沙耶が何を失い、何を覚えているのか……それは、誰にもわかりません」
そして、光継もまた視線を落とし、深く考え込むように沈黙した。
*
桐神道の大社に、白銀の装束を纏った景虎が立つ。身には白地に銀糸の狩衣、腰には白槍衛の象徴である銀飾の短槍を佩き、背筋を伸ばして正面を見据えている。その隣に並ぶのは、紫苑。白と淡い薄紫を幾重にも重ねた衣に、霧を模した薄絹を羽織り、静かに微笑んでいた。
結婚という政と宗の要を担う儀式は、神職による祝詞奏上から始まり、神前にて清めの儀、神酒の交換が静かに進められる。内殿には皇帝・皇后をはじめ、高位の神職や官人、白槍衛の隊員たちが列席していた。だが祝宴などはなく、すべては簡潔に、厳粛に、神前にて行われる。
やがて、神結びの儀。景虎と紫苑は左右の手に白い絹の紐をそれぞれ結ばれ、神職が厳かにその紐を交差させた。これは、桐神道において“神と神職”が契りを交わす際に用いられる、最も神聖な儀礼の一つ。その応用により、両者の結びつきが公に、神に誓われた瞬間だった。
参列者たちは静かにその儀を見守り、紫苑と景虎は互いに一礼し、そして目を合わせる。言葉はなかったが、そのまなざしが語るものは、すでに夫婦としての覚悟であった。
そして、神楽の刻が訪れた。
神楽台の中央に現れたのは、沙耶だった。 彼女は、風の神・霧栖命を象徴する意匠を施した衣を身にまとっていた。白を基調としながらも、裾には風の流れを象った淡い蒼と銀の刺繍が走り、背には薄絹が風のように揺れる。顔には「青白の蓮面」と呼ばれる仮面――霧栖命を模した神楽面をつけている。
耳には、細工の施された銀の耳飾り。腕には風を祀る祈祷の模様を彫り込んだ腕輪があしらわれていた。それらは沙耶が普段から身につけていたものであり、神楽師としての彼女の在り方を支える、大切な品々だった。
笛の音が静かに鳴り始めると、鼓が一打。 沙耶は一歩を踏み出し、扇を広げた。
舞は静かに、けれど確かな意志を持って始まった。 その所作はまるで風の流れをなぞるようで、袖のひと振りごとに衣が空気を纏い、見る者の心をさらっていく。観衆の中からは、思わず息を呑む音すら聞こえた。
紫苑はその舞を見つめながら、そっと目を閉じ、神子として神の気配を探った。
(……霧栖命。今ここに――いるのならば)
だが。
風のように美しいその舞から感じられるのは、沙耶自身の純粋で強靭な神力のみ。 仮面にも装束にも、神の顕現の兆しはなかった。 それは――あまりにも完璧な人の舞だった。
舞が終わり、神楽台の空気は静寂に包まれた。観衆からは自然とため息のような感嘆が漏れ、誰もがしばし言葉を失っていた。
その後、儀式のすべては厳かに締めくくられ、景虎と紫苑の婚儀は無事に完遂された。
◆
儀式後、控えの間にて。
紫苑は淡く装いを整え直し、光継と景虎に向き直った。
「……仮面にも装束にも、神の気配は感じられませんでした。貴方の仮説は、今のところ杞憂のようです」
紫苑の声は穏やかだったが、どこか安堵の滲む響きがあった。
光継はその言葉に小さく息をつき、目を伏せた。
「……ありがとうございます、姫。少し……ほっとしました」
その口元に浮かぶのは、柔らかな笑み。だが、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
(――では、霧栖命は……)
景虎が沈黙を破った。
「いなくなった霧栖命は……一体、どこへ消えたのだろうな」
紫苑はしばし思案し、ふと空を見上げるように言った。
「……風の神は、風のように気まぐれなもの。掴んだと思えば、指の隙間から抜けていく」
再び任務は振り出しに戻った。だが、それでも確かなものはある。
――沙耶の気持ちは、神ではなく、ひとりの人としてのもの。
それだけは、今、光継の中で確かになっていた。
◆
その夜、紫苑は沙耶を私室に招いた。
「舞、見事でした。貴女に任せてよかった」
「ありがとうございます、姫」
紫苑は懐から、小さな箱を取り出した。
「これを。舞のお礼に……私から。普通の人がつけていれば、ただの飾り。でも、貴女のような神力を持つ者には……きっと護りになる」
中には、銀の細工が美しい指輪が納められていた。沙耶はそれを受け取り、深く頭を下げる。
「……次は、貴女と光継の祝言ですね」
紫苑がそっと笑いかけると、沙耶は頬を赤らめながらも、どこか嬉しそうに視線を逸らした。
「まだ何も決まっていませんけれど……はい、いずれは」
「それにしても……以前は接点がなさそうだったのに、どこで惹かれ合ったのかしら?」
沙耶は少し考え込むように笑った。
「最初は、正直なところ……あの人を、名家の娘をたぶらかす軽い人かと思っていました。でも、神渡島の後、景虎様に代わって危険な任務に自ら志願したと知って、少し惹かれたんです。話してみると驚くほど自分と似たところがあって……孤独だったことや、背負わされた使命。そういうものが共鳴したんです。その時、まるで、風鈴の音が頭の中で鳴ったような……霧が晴れるような気がしました」
紫苑はそっと微笑んだ。
「恋は、突然訪れるもの。突風のようにね。……私も、そうだったわ」
「清嵐では、風鈴の音で恋を占うんですよ。だから、あのときの音も……なんだか、運命に導かれたように感じました」
◆
夜更け。瑞京の一角、白槍衛に与えられた仮住まいの一室には、ほのかな行灯の光が灯っていた。木の壁には静かに影が揺れ、温かな湯の香がほのかに漂う。床には畳が敷かれ、簡素ながら清潔な空間だった。
沙耶が扉を開けると、光継がその灯の下で彼女を待っていた。湯上がりの髪を軽く拭きながら、振り向いて微笑む。
「おかえり。……今日の舞、最高だった。綺麗だったよ。まるで風そのものみたいだった」
沙耶は足を止め、くすりと笑った。
「ふふ、嬉しい。じゃあ、今夜は……その風よりも、もっと気持ちのいい夜にしてあげる」
光継は驚いたように眉を上げ、それから小さく咳払いをした。
「……その前に、風呂はもう沸いてる。ちょうどいい湯加減だ」
「うん、知ってる。お風呂上がりを楽しみにしてるのは、あなたの方じゃない?」
ふざけた口調で笑いながら、沙耶は部屋の隅に置かれた漆塗りの箱の前に膝をついた。耳元の銀の耳飾りをそっと外し、次に腕輪を外す。最後に、紫苑から贈られた銀の指輪を、胸元で少しだけ見つめてから、丁寧に布に包み、他の装飾品とともに箱に納めた。
「紫苑姫から、舞のお礼にって……いただいたの。とっても素敵な指輪」
光継は彼女の背中を見つめ、そっと傍に座った。
「……姫が言ってた。君と俺の番だって」
沙耶は微笑み、彼の方に身体を傾ける。
「うん。でも、今はまだ……この時間が一番好き」
言葉が途切れ、視線が重なった。
次の瞬間、何も言葉はなく、二人は互いに腕を伸ばし合う。灯りが揺れ、重なった影が、やがて静かに床へと落ちていった。
風の神は気配を隠し、恋の神は、まだ名を告げない。