第五章 命の代価
鬼退治クライマックス
白み始めた夜空に、波の音が低く重なっていた。
景虎は短槍を手に、禊之宮の洞窟の前に立っていた。
海風が血と煙の匂いを連れて吹きすさび、岩肌の闇へと吸い込まれていく。
煙玉で燻し出された鬼たちの屍が、地面に点々と横たわっている。
その合間を縫うように、景虎は足を運んだ。
片野玄道が背後を守り、短剣を構えて無言でついてくる。
洞窟の奥――
湿った空気と鉄錆びた血の匂いが満ちる中、かすかな灯りと、荒い呼吸音が重なる。
三つ。気配がある。
景虎は短く息を整え、槍の柄を握り直した。
その瞬間――社の扉が音を立てて開かれた。
飛び出してきた三体の鬼たち。
血走った目、伸び放題の髪、異国の布をまとい、手には錆びた長刀。
二人は少女たちを盾にしている。
怯えた娘たちの目が、揺れる。
「くそっ……!」
景虎は即座に後退。
鬼たちはじりじりと外へと押し出してくる。
開けた場所で、刀を振るう意図だ。
その意図に抗う術もなく、仕方なく外へ出た。
夜明けの気配が空を淡く染めていく。
鬼たちは娘たちを地面へ投げ捨て、咆哮と共に刃を振り上げた。
戦いが、始まった。
景虎の身体が、まるで風のように舞った。
踏み込み一歩、回転して姿勢を低く保ちつつ間合いを詰める。
全身の筋肉がしなやかに連動し、鬼の一太刀を紙一重でかわすと、槍の穂先が滑るように喉元を掠めていった。
その動きには、一瞬の無駄もなかった。
視線、足運び、呼吸、全てが戦いに最適化されている。
それは武人の訓練を超え、命の縁を幾度も渡ってきた者だけが持つ、実戦の勘と反射だった。
その様に、鬼たちの動きが鈍く見えたほどだった。
最初に襲いかかってきたのは、最も大柄な鬼だった。
景虎は刃の軌道を読み、無駄なく体をひねって紙一重でかわすと、逆にその勢いを利用して背後に滑り込む。
重心の傾きを見極め、膝裏へ槍を突き刺す。
鬼の体ががくりと崩れたところを、肩口へ二撃目を打ち込む。
刃が骨を断ち、鬼が絶叫を残して地に伏した。
次の鬼が迫る。
景虎は刃の風圧を感じながら身を捻り、低く潜るように避けると、槍を回転させて鬼の手首を狙った。
金属が弾ける音と共に長刀が宙を舞い、続けざまに槍の柄で顔面を殴打。
鬼が体勢を崩した瞬間、景虎は前のめりに踏み込み、心臓めがけて刺突を放った。
鬼は呻きを漏らし、沈黙した。
残る一人は、他の鬼とは異質だった。
視線に迷いはなく、構えは低く研ぎ澄まされている。
動きには経験と理がある――単なる暴力ではない、武人の気配だった。
「くるぞ……!」
刹那、鬼が飛び込む。
長刀が空を薙ぎ、景虎はバックステップ。
反撃。
だが、鬼は素早く身を捻り、槍を避ける。
返しの一撃。
避ける――が、左袖が裂け、血が散る。
刃と刃、息と息、静と動。
攻防が交差し、音が空気を震わせる。
わずかな隙。
刃筋が乱れた瞬間、玄道の短剣が横合いから鬼の手元を弾いた。
その一撃がわずかに鬼の体勢を崩し――景虎はその瞬間を逃さなかった。
槍を手放し、引き抜いた短剣を一閃。
喉元を裂いた。
鬼は呻き、膝をつき、崩れ落ちた。
静寂。
夜明けの光が、倒れた屍を淡く照らしていた。
(……終わった、か)
そのときだった。
◇
瑞京、内裏。
紫苑は、霧栖命を祀る祠の前で祈り続けていた。
その額には汗が滲み、指先は強く藤紫の紐を握っている。
(どうか……この祈りが、風となって届きますように)
その願いに応じるかのように、風が生まれた。
祠の鈴がひとりでに鳴り、白い霧が紫苑の視界を覆う。
やがて霧の中に、光が差し込んだ。
――霧栖命。
神は、何も語らずただ静かに現れた。
紫苑の前に立ち、その手をかざす。
次の瞬間、紫苑の意識は霧のように神へと溶け、遠く離れた戦場へと向かった。
はじめは何も見えなかった。
靄がかかるように、戦場の様子は曖昧だった。
だが霧栖命の力によって、徐々に景虎の姿が浮かび上がる。
(あれは……)
鬼の屍、血に染まった槍。そして、静かに立つ景虎。
その背後。
――気づいて!
紫苑が心の中で叫ぶよりも早く、鬼の影が動いた。
「後ろ! 危ない!」
その声は風となって、神域を越えて海へと駆ける。
◇
景虎の目の前に、蓮面の童子が現れた。
小さな姿が風に乗って現れ、何も言わずに景虎の背後をまっすぐ指差す。
景虎は戸惑い、意味を測りかねて一瞬立ち尽くした。
その時だった。
どこからともなく、声が届く。
それは確かに――紫苑の声。
「後ろ! 危ない!」
声は風に乗って、景虎の耳元をかすめた。
景虎の眼が見開かれる。
同時に、背中に鋭い気配。
倒れたはずの鬼が、最後の力を振り絞り、長刀を投げつけてきた。
景虎は咄嗟に体をひねった。
だが、避けきれない。
刃は左足を裂き、肩口にも深く突き立った。
血が、朝焼けの空に飛び散る。
膝をつく景虎。
激痛に顔を歪めながらも、その目はまだ戦意を失っていなかった。
玄道が駆け寄り、鬼にとどめを刺し、景虎を支える。
すぐさま懐から布と止血薬を取り出すと、景虎の肩口と脚の傷に素早く押し当てた。
「動くな。まずは血を止める」
布がたちまち赤く染まり、景虎の呼吸が荒くなる。
それでも玄道は落ち着いて、脚の裂傷には帯を巻いて圧迫し、肩には薬を塗り込んだ。
「生きているか?」
「……なんとか……だが、歩けそうにないな……」
玄道は黙って景虎を背負い、小舟へと向かう。
舟には娘たちが乗せられていた。
景虎も横たえられる。
朝焼けの中、小舟は波を裂いて進む。
(……紫苑の声が……)
出血と寒気に意識は遠のいていく。
その名を胸に抱いたまま、景虎は意識を手放した。
◇
瑞京、内裏。
紫苑の意識が、祈りの深淵からゆっくりと現実へと引き戻された。
「……今のは……霧栖命が見せたもの……?」
胸が痛い。何かが、引き裂かれるように。
その痛みは、景虎の負傷を紫苑の身に重ねるかのように現実のものだった。
霧栖命の導きによって、遠く離れた景虎の身に何が起きたのかを紫苑ははっきりと悟っていた。
「景虎様が……傷を負った。すぐに手当てを用意しなければ」
紫苑は祠を後にし、内裏の調薬所へ駆けた。
駆け寄る女官が声をかける。
「紫苑様、どうなさいました!?」
「構わないで。時間がないの」
制止の声も振り切って、紫苑は震える手で棚を開く。
皇室に伝わる秘薬――明命膏。
炎症を鎮め、傷を癒す神薬。
だが、それを調えるには、年に一度しか採れぬ霧栖草をはじめとする、極めて貴重な薬草が必要だった。
霧栖草は神霧がかかる夜明けにしか摘めず、しかもわずか数茎しか得られない。
王宮の宝草として厳重に保管され、皇族の命に関わる重傷のとき以外は使用が禁じられていた。
紫苑はそれを迷いなく選び取り、手に取った。
薬草を刻み、湯に溶かし、火皿にかける。
その手は震えていた。
だが、決して止まらなかった。
「せっかく景虎様が生きて帰ってくるんですもの。もう大切な人は絶対に失わない」
香の立ち上る中、祈りは風に乗り、再び神へと届いていった。
ふう