副田恭子
例えば、私が今ここで死んだとしたら、母、妹、妃子、浩平、クラスのみんな……彼らはどんな反応をするのだろう。やってみるつもりはないが、時々考えてしまう。
しかしその後、必ず思う。
この世界は、この社会は、私がいなくても全然問題無く回るんだろうな、と。
それなら、私が今四苦八苦してやってることは、全部無駄だってことなのかな、とも。
妹が入学して来た時、必死で積み上げて来たものが壊れた瞬間、私は全てを悲観した。もう残り1年もないのに、あの信頼をどう取り戻そうと言うのだろう?
弟アベルを殺したカインの気持ちが、手に取るように分かった。
私という人間が、ガラガラと音を立てて崩れていく。しかし果たして崩れるほどに出来上がった人間だったのか? 情緒不安定を隠していつも笑顔でいることが偉いのか?
……そもそも、出来上がった人間とは何なんだ? 全員が、生まれたそのままで「出来上がっている」んじゃないのか? 欠陥のある人間なんているのか? そもそも、欠陥とは何か?
……あぁ、少しふらふらしてきた。夜中に散歩なんて、するもんじゃないな。
農道が続くこの道は、街灯さえまばらで、頼りになるのは月明かりだけ。
すぐ隣には、終わりの見えない階段がある。氏神様の神殿に繋がる階段だ。
――ブー、ブー、ブー、……
ジーパンの尻ポケットで、携帯が鳴っている。
日頃は気付かないのだが、静かなせいかバイブ音がよく聞こえる。
――萩谷浩平
出るか、出まいか……。昔、病気だと言われたことがある。俺は心に病気がある、と。
だから、ものすごく不安になるときは電話させてもらうかも。なるべく出てね。出ないと押し潰されて死んじゃうかもだから。
このボタンを押せば、彼は安心する。押さなければ、――。
鳴り続けるバイブ音。しかし私は、携帯を閉じた。
ごめん、萩谷くん。でも私は、変わりたいんだ……。
電話が止まった。
この電話の向こうで、彼は本当に押し潰されているのだろうか。死ぬ程の不安に追い立てられているのだろうか。
……別に、良い。
それくらい、自分で打ち勝てるようになって。
ちゃんとした彼女でもない私の知ったことじゃない。
猛烈な吐き気に襲われつつ彼を待った私は、会った瞬間に、条件反射で笑顔になった。吐き気も止まった。ただ、逃げ出したくなるような気持ち悪さだけは拭えなかったけど。
唇をつけられ、それだけで終わるかと思いきや、ざらざらとした舌が這入って来た。固く閉じていた歯を押し退けてまで。
気持ち悪い。
涙が出ていた。気持ち良い訳なんかない。でも、頷いた。だって、彼は、心の病気だから……。
好きな訳なんかない。でも、1度会えばもう催促なんか来ないと思ってた。ここで、やっぱり嫌、と断って、幻滅されれば良いと思ってた。なのに……。
邪魔したのは、私自身。
日頃から全てを偽っていた、私自身。
最悪だった。
どんなに嫌でも、目が合えば笑ってしまう。
本当は、触れられるのも、話すのも嫌だったのに。
病気だからじゃない。彼自身が嫌いだった。
なのに。
私は彼を受け入れた。
私のお腹には、彼との子どもがいる。
最悪だ――。
親には言えない。妹にも言えない。彼にだって、……言いたくない。
どうすれば良いか分からない。かと言って、堕ろしたい訳じゃない。死にたい訳でもない。
同級生が云々とか、学校の先生が云々とか、もうそんなのは、どうでも良かった。
ただただ私は、自分は馬鹿だなぁ、と思った。
まだほとんど膨らんでないお腹に手を当ててみる。
本当にここに子どもが出来るのだろうか。……いや、本当にここに、命が宿っているのだろうか。
私はこの子を、きちんと育てられるだろうか――?
私に他人の心配をしている暇は無かったのだ。
この程度で人に認められようとした私が馬鹿だったのだ。
つう、と涙が頬を滑る。
そろそろ帰らないと、母が妹に何をするか分からない。
あの日、そう、私が萩谷くんと会って帰った日、家に帰ると、母が包丁を持って2階に上がろうとしていた。
荷物を放り出して、母に掴みかかった。止めなければ。その一心だった。
それなのに母は、きょとんとしていた。「信じる者は、救われるのよ。私は、いい加減救われなきゃいけないの。あなたもよ。だから、手伝って」。
……怖かった。
戯れ言を言っているようには見えなかった。
2階からは、妹が怯えた目でこっちを見ていた。
なんとか母は止められたものの、私はそれ以来、家にいなくてはならない存在になってしまった。
元々家事は私が請け負う部分も多かったのだが、そうではなく、妹の生死について、だ。仕事一筋の父はもちろん、あてにならない。
妹は馬鹿だから。
手伝いはしない、テストは酷い点数、口答えはする、学校で問題は起こす。せめて1つくらい改善すれば、母もまた違っただろうに。
妹の思考は私と180度違う。
5時に帰りなさいと言われて真面目に帰るのが私、守らずに規制緩和されていくのが妹。手伝えと言われてそれを趣味にするのが私、反発するのが妹。
初対面の人に対して気付かれないように壁を作って様子を見るのが私、何も恐れず自分をさらけ出すのが妹。
私も、少しくらい反発すれば良かった。怖がらなければ良かった。
そんな勇気さえもないのかも知れないけど。
そういう意味で、私は妹を尊敬し、羨んでいたのだ。
さあ、早く帰ろう。
早く帰って、妹のように全てを打ち明けてみようか。家族に、多大な迷惑を掛けてみようか。
そして、子どもを産めるように、自分の口で説得してみようか。……そう、自分の力で。揉め事を恐れないで。
周囲からは軽蔑されるかも知れない。担任にだって、益々嫌われるだろう。でも、それでも……やっぱり、この子を産みたい。
私の体裁より、この子の命だ。
そうだ。神社に寄って帰ろう。
氏神様に勇気付けてもらう為に。
◇◇◇
挨拶は済ませた。あとは帰るだけ。
……なるべく急がないと。大変なことになってしまう前に。
下りる時になって思う。
本当に長くて急な階段だ。上りは案外楽に登れたが、そういえばどこかで、運動のし過ぎで流産する人もいるらしいと聞いた。……まさかとは思うが、流産の原因にならないよう願う。
そろそろと1段下りる。また1段。
行きはよいよい帰りは怖い、とはよく言ったものだ。……意図する意味は違うのかも知れないが。
しかも、灯りがない。月明かりだけでは少し無理がある。……でも、急がないと。
ゆっくりではあるが、確実に足を進めるようになってきた。
良かった。そう安堵した、次の瞬間だった。
「あっ、」
マズい。
そう思った時には遅かった。
小さな出っ張りに足を取られた私は体勢を崩し、階段の角の部分が目の前に迫って来る。まだまだ全体の中腹にもたどり着いていない階段が。
咄嗟に出た手は、お腹を庇っていた。
まだほとんど膨らんでいない腹部を庇った私の手は私の体を守るには至らず、顔を思い切り打った。
神社の階段は、その勢いを止めるには幅がなく、私はそのまま転げ落ちた。
どこをどう打ったかなんて、分からない。
勢いは止まっが、もう生きていられないことは、なんとなく分かった。
薄れる意識の中、私は苦笑した。
自分じゃなくお腹を庇うなんて、馬鹿だなぁ、と。
私は、既に「母親」になっていたのか、と。
この子だけは生きて欲しいと思ったが、それも叶わないだろう。
それならせめて、妹に何も起こっていませんように。――……あぁ、そうか。妹は、私が死んだらしっかりせざるを得ないのか。
どこの誰でも、だ。
萩谷くんも、母も、クラスメイトも。
なーんだ。これで良かったのか。
私は満足感に包まれて、目を閉じた。




