堤
昔から何も変わらない。
ただ、勉強して、ただ、知識を詰め込んで、……そう、テストで良い点数を取るために。クラス1位を、維持するために。
幼い頃から、何の違和感も疑問も持たずに努力してきた。……ううん。これが「努力」だと知ったのも、随分最近だ。
母は、自分に厳しい人だった。それでも、1つだけ叶わなかった夢がある。それは、世界で活躍する通訳者になること。私のせいで叶わなかった、夢。
何度も聞いた。妃子が生まれたせいでお母さん、そのお仕事に就けなかったのよ、って。
だから私は、母の代わりにそれを目指す。私が良い点数を取る度に喜んでくれる、母の為に――。
小学校は、有名なインターナショナルスクール。授業は全て、英語で行われる。
中学校は、「英語教育に特に力を入れ、世界を舞台に活躍する女性の育成」を謳った水の浦女子の中等部。
高校は、そのまま持ち上がり。
だから私は、どの教科ももちろんだが、英語に関しては特にプライドがあった。それなのに、あんな奴が来るなんて……。
「妃子、妃子」
「……恭子……なに?」
あまりにもタイムリー過ぎる。今ちょうど考えていた人が話しかけてくるなんて。
驚きを出さないよう、必死で取り繕う。
「今日、委員会だよ……ね」
「あ」
考え事に夢中になりすぎて、忘れていた。ついでに、ご飯を食べるのも。
もう1時過ぎている。昼休みは残り15分程度だ。
「どうする……?」
困っているような、それでいてこの状況を楽しんでいるような、そんな顔。
「行かなくて良いんじゃない?」
恭子の後ろから飛んでくるのは、あまりにも無責任な声。
「一緒にご飯食べようよー」
「もう……しょうがないなあ……まぁ、もう終わってるよね」
言葉の割に嬉しそうな表情で、引き止めるクラスメイトの方を向く。
「いっか。行かなくて。今日の昼は、ウチのクラス全員、外でピクニックしてたってことで」
確認するように私を一瞥する。
悔しいけど、呑むしかない。今更行って叱られるのも嫌だ。
分かるか分からないか、それくらい少しだけ頭を縦に振ると、恭子はニッと笑う。
「妃子、早くご飯食べなきゃ。今日も食堂でしょ?」
「分かってる」
どうしてこの人は、こんなにも「完璧」なんだろう。
私にはそんな思考、とてもじゃないけど出来ない。
出た教室から聞こえてくるのは、テンションの上がった、下ネタを言う声。
今日のお題は、「初めてがどれだけ痛いか」らしい。
くだらない。……こういう話題の時、副田恭子ならどの位置にいるのだろう。
◇◇◇
「妃子、結局ご飯食べなかったでしょ」
「……時間無かったし」
「だめだよー? ちゃんと食べなきゃ、倒れます」
「倒れないよ」
さっきの授業も寝てたくせに、偉そうに。
それで頭が悪いなら知ったことじゃないけど、私はこの間見た。厳重に隠されていた、成績分布表の、順位の欄。2で埋め尽くされたその行を。
点数もほとんど変わらない。1番離れている教科で、世界史の20点差だ。他はほとんど変わらない。
授業を聞いてないのに、どうしてあんな点数が取れるのか、全く理解が出来ない。ついでに言うなら、分布表みたいな大切なものを、どうして教科書の間に挟むのかも分からない。
あれ以来、クラスメイトに成績のことを訊かれては、「いやー、低迷してますわ……順位とか見られないもん! てか、そんな話を振るってことはおぬし……良かったのだな?!」なんて言っているのを見かけるたびに、暗い気持ちになる。
どうして公表しない? いい点数を取ったのに。私へのあてつけ? 高校1年の頃から、いや、テストが始まった頃から、1位を取っては先生に発表され、クラスメイトに称えられ、両親に褒められ、そうやって喜んできた私への。
「んー……あ、そうだ。これ」
じゃーん、という掛け声と共にポケットから取り出したのは、小さな飴。
「贈呈いたします」
大仰な言葉と仕草を、冷たく撥ね付けた。
「いらない」
「なんでよー……けち」
何が「けち」なのか全く分からない。今廊下を2人で歩いている理由だってそう。
放課後になり、賑やかな喧騒の中、皆に「デートしてくる」とか言って私を連れ出した理由。わざわざ目立つようなことを言った理由。
「どこ行くの?」
飴を奪い取りつつ、訊ねる。
「言ってなかったっけか」
飴を口に含んだ私をキラキラした瞳で見つめ、咳払いして前を向く。
「とりあえず謝った方が良いかな、って」
「……何を?」
私に? 彼女が? 私の考えていることが分かったのだろうか。もしかして、口に出してしまっていた?
「昼休み、委員会」
「あ、あー……なるほどね」
すっかり忘れていた。じゃあ、今向かっているのは、職員室?
「え、ちょっと待って」
「ん?」
「飴」
「あ」
……しっかりしているのか、いないのか。馬鹿なのか、天才なのか。私はコイツが全く分からない。
「噛んじゃえ噛んじゃえー」
「…………」
元はと言えば、お前のせいだろうが。
無言でガリガリと飴を噛み砕く。苺の味が、徐々に消えてなくなっていく。
「なくなった?」
「まあ……」
「あ、でも香りするかも。ま、いっか。もしもの時は、香水ですって」
楽しげに笑う彼女。ついて行けない。早いところ終わらせよう。
「あ、待って」
職員室に入ろうとした私を引き留める。
「なに?」
「会議中、だって」
彼女の指差す方向には、確かに「会議中」と書かれた紙が掛けられていた。
くすくすと心底可笑しそうに笑う恭子。嫌になる。もう帰りたい。
「どうする? 明日にする? ……でも、早いほうが良いよね」
「待つしかないんじゃない?」
ぶっきらぼうに言い、教室へと歩き出す。
「あ、待って……えっと……暇?」
「どうして?」
「いや、ほら、どうせ待つなら……あ、そうだ! 食堂行こうよ!」
「良いよ今更。いらない」
「……実は私がお腹空いてるの。だから……1人は嫌だし、ちょっと付き合ってよ」
「…………」
どうしようか。
目の前には、バカみたいに明るい笑顔の副田恭子。
「ほら、考えるだけ無駄無駄! 行こっ」
「あ、え、ちょっ」
彼女は私の手を掴み、勢い良く走り出した。
◇◇◇
「そっか……今まで大変だったんだね~……」
何かがおかしい。
どうして私は彼女の前で、泣きながら全てを暴露しているんだろう。母親のこと、小学生の頃友達と大ゲンカをしたこと、成績のこと、……。その度に恭子は神妙な顔で大きく頷き、私の目を見詰める。目が合うと、優しく微笑まれる。
……何なんだ。
「でもさ、やっぱり妃子のお母さん、ちょっと酷いよね。私だったら怒ってる。とっくの昔に」
目の前にハンカチが差し出される。
「無理は良くないよ。妃子は今のままでも十分すごいから」
「でも……」
恭子はきっと、私よりすごい。
この言葉はきっと、どんなに時が経っても出ていかない。
「私さ、」
私がハンカチを受け取らないと分かったのか、彼女は私の目元をそっと拭った。
「勉強してないように見えるでしょ」
「…………」
驚いた。
やっぱりこの人は、私の心が読めるのかも知れない。
「本当はやってんだよ? やってるのバレると、それこそ妃子だったらカッコいいけど、私だとカッコ悪いじゃん? だから」
授業中居眠りも、あれは「フリ」なの。
彼女はいたずらっ子のように笑うと、ハンカチをポケットにしまった。
「でも、妃子に彼氏がいないのは意外だったなー……」
「どういう意味よ」
「可愛いから」
こうやって、クラスのみんなを虜にして来たのかも知れないなぁ……なんて冷静に分析してみる。そうしないと、何か良くない感情が生まれて来そうだった。
「行こ。そろそろ終わってるんじゃない?」
「うん」
立ち上がり、カツカレーの残骸の乗ったお盆を持つ。彼女も同じものを持っている。
恭子が男だったら惚れてる――なんて言葉を吐きそうになり、慌てて口をつぐんだ。
代わりに訊くのは、そう、あれだ。
「恭子ってさ、下ネタで盛り上がる時ってどうしてる?」
「ん?」
食器を分けて重ねながらも、口角が上がっている。
「あーゆーのは、ほっとくのが1番じゃない? それとも、ああいう話題、好き?」
「なっ!」
ブンブン、と頭を振る。全力で否定。
「でしょ? 今更何言ってんのって感じだし……夢持ち過ぎだってね」
「う、うん」
恭子の表情に、少し陰りが見えた気がした。
「恭子、」
「あ、ね、アイス食べない?」
「アイス?」
「うん。自販機の。もう少しくらい遅くなっても大丈夫でしょ」
「……うん。……苦手なの?」
「何が?」
アイスを選ぶ彼女の横顔は、至って真剣だ。
「下ネタ」
「んー……」
ピッ、と押したボタンは、バニラアイス。迷った割に王道だなぁと思いつつ、私はチョコアイスを買う。私も、負けず劣らず王道だ。
「苦手じゃないんだけどね」
ペリペリと紙を剥き、1口。
「むしろ得意ではあると思うよ。ただ……」
1口食べる? と、アイスを傾けてくる。ありがたく貰いつつ、私のも渡す。
食べると、バニラの甘い香りが鼻を抜けて行った。
「今更なんだよね」
チョコも美味しいね。ありがと。という簡潔なお礼と共に、アイスが帰ってくる。
「今更って?」
「なんてか……もう下ネタで喜ぶ程純粋じゃないのかも」
その憂いを帯びた表情に、バニラアイスはあまりにも不釣り合いだった。
なんて声を掛けたら良いのか分からず、ただ彼女を見詰めていたら、彼女は小さく笑った。
「だから、襲おうと思ったら妃子のことも襲えるんだぞ? 覚悟しといてよ?」
「…………バカ恭子」
やっぱり恭子は恭子だと思った。
お近づきの印に、と言っては何だが、恭子の手をそっと握る。
「何かあったらいつでも言って」
「ありがと。……じゃ、チョコアイスもうちょっとちょうだい」
「……これはダメ」
「何でだよー!」
今まではただのライバルでしかなかったけど、これからはいい友達になれそうだ。
「やっぱりあげる」
「本当?」
「ひとくちね」
「おう!」
嬉しそうな恭子は、私の手にあるアイスに、勢い良くかぶり付いた。




