萩谷
まさか、本当に電話があるなんて。
――待ってるね。
バスの中でも遠慮無しに取った電話。それを通した彼女の声が、まだ耳の奥で聞こえている。女子にしては低めの、落ち着いた声。
あれから慌ててバスを捕まえた。25番、西谷営業所行き。
俺は昔から彼女が好きだった。もちろん今もだ。考えてみれば、好きになってから、5年とちょっと経ったことになる。そんな相手に今から会いに行く。
すげぇ、俺。
今から、副田恭子に会いに行くんだ。
腹の底から込み上げて来る喜びにじっとしていられず、隣に立っていた婆さんに席を譲った。
◇◇◇
「待った?」
「全然」
バスを降り、駆け寄る俺をゆっくりと振り返った副田は、俺の顔を見るなり微笑んだ。
こんなやり取りや、副田のはにかむような笑顔でさえもどこかデートっぽく、つい口元が弛んでしまう。
「どこ行く? ……つか、制服なんだ」
「え、あ、うん……あはは、そう言えばそうだね」
困ったように笑う副田が可愛くて、俺は衝動的に彼女を抱きしめた。
「キス、して良い?」
「ダメ……って言ったらしないの?」
俺を見上げる目線、挑発的な言葉。恋愛経験の乏しい俺が耐えられると思うか? ――答えはNOだ。
頭1つ分も変わらない背丈。周りに人はいない。日は落ちきっている。……障害は何もない。
少し下を向いた副田の顎を軽く持ち上げ、そっと唇をつけた。
舌を絡めると、羞恥心と幸福感でいっぱいになる。もっと、もっと――見ると、副田の瞳が潤んでいた。
「気持ち良かった?」
思っていたことを口にした。後から猛烈な後悔が襲って来たが、今更取り消しなんか効かない。
期待と焦燥の時間。
「……うん」
消え入りそうな声と、恥ずかしそうに頷く仕草。そうだった。副田のこういうところが好きなんだ。
「そろそろ行かない? ごめん、もう無理。我慢出来そうにない」
「……分かった」
彼女は柔らかな笑顔で俺を見、俺の手を握った。
「行こう」
彼女の手をしっかり握り返し、真暗な路地へと足を踏み入れた。
◇◇◇
「それじゃ、気を付けてな」
「うん、ありがとう。ごめんね、こんなとこまで」
送るのは常識だし、家まで一緒に行こうとしたのだが、「申し訳ないから」の一点張りで、結局家の近くのバス停までで別れることになったのだ。
「気にするな。むしろごめんな、こんな中途半端なとこで。楽しかった」
彼女の前髪を掻き上げ額に唇をつける。滑らかな肌が心地よい。
「ううん、ありがと」
「どういたしまして。恭子は楽しかった?」
彼女が笑う。少しだけ声を上げて。
2人きりの時に聞いた初めての笑い声。綿雲のように軽い。
「じゃあ、またね」
「おぅ、おやすみ」
彼女が軽く手を振って回れ右をする。それを確認し、俺も逆方向に歩き出す。家はここからそう遠くない。十分に歩ける距離だ。
しかし……本当にやらせてくれるとは思わなかった。昭和の清純派アイドルみたいな雰囲気を纏った……いや、それよりももっと清潔で、触れることさえ許されないように感じてしまう彼女が、まさか俺を受け入れてくれるなんて。日頃から悩み相談をしていたのが効いたのか? こっちから頼ると、相手もこっちを頼り易くなるって言うしな。まさに一石二鳥ってやつか。良かった。
中学の頃からモテていた彼女のことだ。とうに彼氏がいると思っていた。まさかいないなんて……それに、いじめられっ子の俺を選ぶなんて……! あぁ、なんて良い子なんだろう! そして俺はその子を手に入れた! もう何も怖くない。俺が何をやろうとも、彼女が、恭子が俺の味方だ。
薄明かるい空には月。微かに雲がかかっている。
やっほーい!!! 俺はやったぞ!!!!
空に向かって叫びたい。もちろんしないけど。
あぁ、俺はなんて幸せなんだ。明日からはちゃんと学校に行こう。手遅れかも知れないけど、きっと恭子は喜んでくれるはずだ。
そうだ。母さんに何か土産を買って行こう。これまで散々迷惑を掛けて来た詫びとして。
コンビニの明かりが見えている。コンビニか……。最近のコンビニスイーツはすごいって言うし、それを幾つか買って行こう。ショートケーキ……は、普通か。モンブラン? いや、いっそプリンか? いやいや、プリンは無いだろ。あ、ロールケーキとか良いんじゃねぇの? 俺が切り分ける。そんで、居間で一緒に食べる。家族2人きりなんだし、たまには旨いもんでも食って支え合わないとな。
何かあったのかい? なんて訊かれたら、なんて答えよう。いや、別に? ……ダメだ。会話が続かない。それに、素っ気なさ過ぎる。うっせぇ黙れ……は絶対ダメだ。何だ? こういう時、なんて答えりゃ良いんだ?
……もう良い。素直に言おう。「可愛い彼女が出来たんだ」って。
やっと息子に将来が見えた、って、喜んでくれるかも知れないしな。
あぁ、なんかわくわくしてきた。
家に帰るのが楽しみ、なんて俺らしくも無いけど、久々に親の喜ぶ顔が見れると思うと、やっぱり嬉しい。何年ぶりだろう? 夜飯を心待ちにしていた小学校低学年以来だろうか?
携帯を開く。9時半過ぎ。
もう飯は出来ているだろうか。……俺の分まで作ってくれているだろうか。
いや、俺が作ろう。
たまにはそういう日があっても良いだろう。母さんは仕事で忙しい。多分今頃やっと家に着く。
アドレス帳を呼び出し、母さんの項目を開く。
……通話。呼び出し音が鳴る。
母さんは、喜んでくれるだろうか。俺が作る飯を、食べてくれるだろうか。
『…………浩平?』
疑っているような声。母さんの、声。
もしもし――。そう言いたかったが、胸が詰まって声が出ない。
『浩平? どうしたの?』
「ごめん……今、どこ?」
『……なんで泣いてると』
「…………」
『今どこね?』
「……コンビニ」
『近くのか? 待っちょれ。今行くけん』
「いい」
『良い、良い。買うもんあるけん。待っときね』
「……うん」
情けない。
でも、計り知れない程の幸福感が俺を包んでいた。
母さんは、俺がまたいじめられて泣いているとでも思っているのかも知れない。
母さんがここに来た時、俺は言えるのだろうか。「今までごめんなさい」なんて。……いや、そんな改まらなくても、俺の言葉で良いだろう。通じれば、伝えられれば、何でも良い。きっとそう。だって俺は、愛されているんだから。
母さんとロールケーキを食べ終えたら、恭子に電話しよう。
恭子は謙遜するかも知れない。「それは浩平が頑張ったからだよ」なんて言うかも知れない。
でも、ちゃんと伝えよう。
「ありがとう」って。
服の袖で乱暴に涙を拭う。
空を仰ぐと、月が明るく光っていた。掛かっていた雲はどこかに去り、そのおかげで自分の役割を果たし、大きな充実感を得ている――そう見えた。
自分の役割って、何だろう。
「浩平ー!」
「母さん」
久しぶりに呼んだ母の名。
俺の役割は、俺の周りにいる人に恩返しをしていくことだ。
そう思った。




