「駅」
吊り革につかまって、なんとなく窓の外の流れる景色を見ていた。でかすぎる歯医者の看板とか、知らない家庭の洗濯物とか、青くぼやけた遠い山並みとか、そんなものはもうとっくに見飽きていた。
リュックサックの中のノートパソコンと教科書達が両肩を絶え間なく締めつけてくる。退屈すぎて思わずスマホを取り出す。天気予報アプリでは、このあと8時から雨が降ることになっていた。
「折りたたみ傘、入れるの忘れちゃったな…」
どんよりとした灰色の空が、一層気分を憂鬱にさせる。これから大学にいってつまらない授業を受けるのはすごくきついことだった。
私、柳 羽良は東京の大学に通う21歳。既に大部分の単位を取得できていたので、少ない授業を受けたり受けなかったりする日々を送っている。スーパーのレジのアルバイトを週2日でしていて、その他の日は家で宿題をするか、適当にそこら辺を散歩したりしている。最近風がとても冷たくなってきて、外に出るのもなんだか億劫だ。
貴重な大学生でいられる時間が、何の起伏も無く過ぎていく。そのことに全く心が動かない自分が嫌だった。思えば6年前の"あの出来事"から、心が弾力を失って物事に対して興味を持ったり感動したりすることができなくなった気がする。
もう一度窓の外に目をやると、灰色の景色の中、ゆっくりと細かい雪が降っているのに気がついた。雨は雪に変わったみたいだ。僕は大学に行くのはやめて、次の駅で降りることにした。
ドアが開いて後ろから押し出されるようにして外に出ると、電車の中との温度差が凄まじくて、全身に鳥肌が立つのを感じた。周りからも「うわ…さっぶ…」「今日めっちゃ冷えるね…」と、この強烈な寒さに対する感想が次々と聞こえてきた。ヒートテックにダウンジャケットとしっかり対策してきたはずなのに、冷たい空気はどこからともなく侵入してきて素肌にまとわりついた。
駅の構内はとても混雑していた。スーツを着て鞄を手に持った人、制服を着た高校生、自分と同じようなラフな格好をした大学生らしき人。立場は違っても皆一様に急いでいて、上手く緩急を使って移動しないとすぐ誰かにぶつかりそうになる。普段降りている駅との密度の違いに混乱して、なんだかクラクラしてきた。
「もっと空いてる駅で降りれば良かったな…」
構内にある焼き菓子店からはバターの匂いが漂ってきて、隣のコーヒーチェーンからは香ばしい匂いが漂ってきた。は朝食を摂らないで家を出たことを激しく後悔し、さっさとこの駅を脱出してしまおうと考えた。
駅の出口まであと半分という場所まで来たとき、忙しなく移動する人の流れの中で、ふと何か記憶を刺激する懐かしい香りを感じて立ち止まった。まさか、と思った。すぐさま、後ろから「チッ」という舌打ちが聞こえる。邪魔になるのは本当に申し訳なかったが、その香りがどこから来たものなのかを確かめずにはいられなかった。何度も人と肩がぶつかりながらも、必死に辺りを見回した。
やっぱり気のせいかと思ったその時、少し離れた場所、同じような雑踏の中に、見覚えのある後ろ姿を見た。すらりと伸びた手足、肩まである真っ白い髪にとても小さな頭、もし本物だとしたら、あの時と何も変わっていない。この花のような香りも当時のままだ。
なぜ彼女がこんな場所にいるのかは分からないが、6年ぶりに会うことができると思うとそんなことはどうでもよかった。
人混みを掻き分けていく。途中何度も嫌な顔をされたが構わず進む。どくん、どくん、と心臓の鼓動が早くなるのを感じる。声をかけることはしなかった。あくまでもちゃんと辿り着きたいと思った。
突然、190cmはあろうかという外国人の集団が目の前に表れ、完全に前方の視界が塞がれた。彼らはこの混雑の中でも一歩一歩確かめるように、ゆっくりと歩いた。当然、それまで捉えていた後ろ姿を見失ってしまった。彼らが退いた後、いくら進んでも、駅の外に出てみても、彼女は見つからなかった。さっきまでの高揚感がまるで嘘のように引いていく。
「あの時と同じだ…」
再び彼女を失ってしまったような気がして、なんだかやるせない気持ちになる。僕はあの時から何も変わっていない。いつも彼女は僕の数歩先にいて、指先で触れようとしても後少しのところで届かない。まるで、6年前のあの日の再現を見せられているようだった。
どっと疲れた気がして、思わず駅前のベンチに座り込む。あれは人違いだったのだといくら頭の中で言い聞かせても、記憶がすぐさまそれを否定する。彼女はあの日、この世から消滅したはずだ。それなのに、あの時と変わらない姿で再び僕の前に表れた。会わないわけにはいかなかった。会ってもう一度、彼女と話がしたい。
散らばっていた記憶の欠片を集めるようにして、僕は彼女と過ごしたあの日々のことを思い返した。




