第三話「すでに日は暮れて」20
ヒカリは百合の部屋に戻ると、今夜も奥の寝室へ微笑んでみる。
今夜は二回目があったかしら、と想像してみると、スッと襖があいて、パジャマ姿の百合が音をたてずにこちらにくる。
「ごめんなさい。起こしちゃいました?」
百合は、ううん、と首を振る。
「ヒカリちゃんが戻ってくるまで待ってたのよ」
百合は双龍が目を覚ましていないか、後ろを向いて確かめてから、リビングで座布団に座り、ヒカリをじっと見据える。
「わたしね、ヒカリちゃんのことが心配なのよ。せっかく死なずに済んだのに、自分から死地に飛び込もうとしているもの」
「主人と、お母さんと、お父さん。みんなを殺した誰かに、私も狙われています。いえ、主人は私の身代わりになって、可哀想な死に方をさせられたんです。犯人をおびき寄せ捕まえたくて、私は鑑定所を開いて、目立つ行動をしています。もとから死地にいるんですよ」
「でも、この件はそれと無関係でしょう。大事な想いがあるのに、どうして?」
「犯人を見つけるまでは死ねない。そういうつもりでした。でも、今度は、命を使ってもいいって気持ちになってます。七海ちゃんが薬を摂らされたように、落ち度なんかないのに、いえ、たとえ落ち度があっても、他人に人生を狂わされようとしている人を助けたいのです。そのために使う命だったら、なくなってもしょうがないと」
「……ホナミのこと、まだ引きずっているのね」
ヒカリは無言になる。うんと言わないが、百合にはそうとわかるのだ。
「来週、あの子の百箇日よ。四十九日で親族がこなかったから、お骨はまだお寺にあるけど、だれも引き取らないと、無縁仏としてお寺内で納骨になるわね。ヒカリちゃんも身寄りの親族がいないんだから、無縁仏になってしまうわよ」
「私が死んだら、誰に骨を拾ってもらうか、決めてあります」
「ヒカリちゃんの総本山だっけ? お師匠さんね」
「いえ──。あかりにです」
意外な返答に百合は戸惑う。自分を占術界有数にまで育ててくれた恩師麗華ではないとは、どういう気持ちからなのだろう。
「話したくなければ、無理に話さなくていいのよ」
ヒカリは少し考えていたが、
「主人の圭吾くんが、私の両親の事件に、教会が関係しているとみて調べていたらしいのです。圭吾くんは元警察の公安で、根拠もなしに疑っていたとは思えません。」
百合さんにお願いがあるんです、とヒカリは手をとってくる。
「私が死んだら──」
「そんなこと言わないでよ」
ヒカリはかまわずつづける。
「私が死んだら、圭吾くんのお母さんに会いに行ってくれませんか」
「ヒカリちゃん……」
悲壮な心を受け止める百合は、これ以上かける言葉がない。
先ほどの負けん気はどこへやら、自分が負けたあとのことを考えているのに、これが本当の私なんだ、とひとり納得している。
ここで話を終わらせてしまっては、朝になっても暗い空気のままだ。
百合は、話を変えてみる。
「七海ちゃんがね、ヒカリちゃんに会いたいっていうのよ。あの子、本当にヒカリちゃんのことを、信頼して、大切な友だちとして、想ってくれてるのよ」
ヒカリならそんな信奉者がいても当然と思う。たった数日間寝食をともにしただけの百合でさえ、七海のような気持ちになっている。双龍も、少年に化けたヒカリとは、もはやどっちが舎弟なのかわからないような信頼の寄せ方だ。
「七海ちゃんはこれ以上関わらせられないわ。あの男の子と恋仲だと組織にも知れてしまっているのだから、もう、私が近づくだけで危なくなってしまいます」
「薬も依存が出るほど摂ってなかったみたいね」
「科捜研の分析では、早ければ十回の摂取くらいで依存が出始めるそうです。二回目にもらったのを半分私に渡したのが良かったんですね。男の子も保護観察くらいで済むはずですし、学校も退学にならないように、私が手を回します。薬だと知らないでやっていたんですから、きっと更正できますよ。初恋を大きく育んで欲しいです」
「ヒカリちゃんのそういうところが、みんな大好きなのよ」
さあ、寝ましょうね、と百合は立ち上がって、おやすみね、とヒカリの両肩に手をかける。
ヒカリのほうはまだ返事をせずに、じっと百合に視線を送るのだ。
「なに? 二回目のこと?」
ヒカリはニコニコしている。聞きたいのだ。このニコニコ顔を見たかった百合である。
「だめよ、途中で終戦よ。図体ばかりで、情けないったら」
笑っちゃうでしょ、という表情のほうは、それほどでもなさそうだ。愛情そのものは伝わったんだと、ヒカリは嬉しくなる。
「そう言わないで。人間、体は順応していきますから、彼も次第にうまくいくようになりますよ。それに、百合さんなら技術もありますでしょ?」
「まあ!」
双龍が寝ていることなど忘れて、思わずヒカリの肩を叩いて笑い声を出す。ますますヒカリのことが妹のように思えてならない百合なのだ。
朝になると、今日はやることがたくさんあるヒカリだ。百合はエプロンをつけはじめる。
「食器はわたしが洗うから、本当に気をつけて行ってきてね」
今朝のヒカリは少年姿ではない。タンクトップにホットパンツ、ベースボールキャップをかぶり、デイバッグを背負い、ベリーショートの髪型と相俟って、ボーイッシュな女の子の出で立ちだ。おまけに、ほっぺたに絆創膏を一枚貼りつけている。
「ありがちな演出ですけど、それでもこういう絆創膏は印象に残ってしまうものなんですよ」
それが狙いのヒカリだ。少年姿につづいて、第三の謎の少女が出現するのである。今後、組織の目が光っていそうな場所に姿を見せるのは、この少女なのだ。
「ヒカリちゃんを知っている人なら、このイメチェンでヒカリちゃんとわかる人はそういないわよ」
「それでもあっちは私の変装を疑ってくるでしょうから、疑いを疑うように仕向けます」
ヒカリはいたずらっぽく笑うのだ。
「この子の名前は、そうね、ユカリにしましょう」
「じゃ、ユカリちゃん。行ってらっしゃい」
つづいて双龍も出ていく。双龍にもひとつ役割があるのだ。百合は双龍にも一声かける。
「行ってらっしゃい。ヒカリちゃんの足を引っ張ったら許さないからね」
ヒカリ改めユカリは、堂々と在来線を乗り、往来を歩き、吉川巡査部長のいる所轄警察署に入っていく。
「ヒカリさん、今回は申し訳ない。覚醒剤の密売組織摘発に力を貸してもらおうというのに、こっちは敵に感づかせてしまう情けない有りさまで」
「私が死ななかったと知られてしまったのは仕方ありません。こちらは逆にヒカリが生きていることを利用するわけですから、検挙の準備をお願いしますよ」
肩から先も、太ももも露出させたユカリに扮した格好は、ヒカリとはだいぶ異なる。こうなると、顔まで別人に見えてくるのだから不思議なものだ。
「お願いされたものは、すべて用意できています。粉糖も、組織のと同じ袋に入れて、東原公園に運んであります。風船も十分な数を作っています。着ぐるみも、ヒカリさんにふさわしい、可愛いのを用意しました」
「お世辞が似合いませんよ」
クスッと笑うヒカリに、捜査一課の面々もしのび笑いを誘われる。
「これがあかりさんから預かった衣服類。それとウイッグはこれです」
ヒカリはウイッグをつけてみる。髪を切る前と同じ髪型になるものを、警察の尾行用備品の中から探してもらったのだ。
更衣室でヒカリの洋服に着替え、ウイッグを整え、これでどこから見ても元のヒカリである。
デイバッグからトートバッグを取り出し、今度はデイバッグをたたんでトートバッグにしまう。
「さて、久し振りの我が家にもどりましょうかね」
ヒカリはその足で『光の路』へ行き、中に何者かが侵入した形跡がないかを確認する。あかりがいるといっても、向こうは気づかれないように、ヒカリが生きて隠れていないかを確かめにくるのでは、と考えたのだ。
どうやら侵入の形跡はなさそうだ。このビルは『光の路』の前に防犯カメラが設置してある。カメラを見つけたので、自重したのだろう。
三階の私室にあがると、そこにはあかりがソファに寝転がって煎餅をかじっていた。
「なんだ、早かったじゃない」
ムクリと起き上がるあかりだ。
「あんた、お煎餅を食べこぼしてるわよ。あとできれいにしてよね」
「だいじょうぶ。ここは三階、アリさんは上ってこないわ」
あかりらしいとはいえ、呆れてしまうヒカリだ。だが世の中の男は、こういうだらしなさに目をつむるのが多いのもその通りで、逆に自分のような女はつまらなく映るのかもしれない。あかりはやはり、得な性質なのだ。
「じゃ、一度練習してみましょうか」
オッケー、と、あかりは準備にかかる。先ほどまで着ていた、ユカリの服一式を手に取りやすい高さの折り畳みテーブルの上に置く。
「はじめるわよ。スタート」
ストップウォッチを作動させると、ヒカリはウイッグをとり、ブラウスを脱ぎはじめ、その間、あかりはヒカリのズボンをおろして、代わりにホットパンツに足を入れさせる。
ブラウスを脱いだ上半身に、今度はあかりがブラジャーを交換し、タンクトップを着せ、その間、ヒカリはホットパンツを上まであげて、靴も履き替える。
最後にあかりがベースボールキャップをかぶらせる。
「ストップ」
どれくらいの時間がかかったか確認だ。
「二十二秒よ」
ヒカリは大きく息をつく。これではかかり過ぎだ。
「まるでふたりの人間が同時にその場にいたかのように見せかけるのよ。これでは見破られるわ」
「そうねえ。ブラウスのボタンは上だけはずして、あとはTシャツを脱ぐように上から脱ぐ、ってのは?」
あかりは普段から、ボタンはずしを面倒くさがってそうしているのだ。
それを試すと十五秒。だいぶ縮んだが、それでも人が出てくるのを待つには長く感じる時間だ。もっと短く済ませたい。
「ユカリ姿のときはノーブラでいくわ。それしか短縮の手はないもの」
計ってみると九秒。ホットパンツをはじめから履いておくのも試したが、上を着替えているうちに履き替えられるから、所要時間は変わらない。むしろ、ヒカリ姿のときに、ウエストからホットパンツが覗くと、早替わりが水の泡になりかねない。
タンクトップもあらかじめ着こむと、夏服のブラウスでは上から透けてわかってしまう。
「これでいきましょう」
ヒカリは今の手順で早替わりをすると決める。
「でもさ、ノーブラだと乳首がわかってしまうわよ。かまわない?」
ヒカリは下を向き、自分の胸元を見る。レモン色のタンクトップの上から、確かにわかる。
「これも印象づけに利用するわ。ユカリの印象が強くなるほど、ヒカリの変装とは結びつけにくくなるもの。そうそう、絆創膏も忘れずによ」
ヒカリは再びヒカリに戻る。
ヒカリの計略では、まずあかりに先に公園に向かってもらい、ひと仕事してもらう。
「やれ、あたしも着替えますかねえ」
ヒカリがこんなに早くにくるとは思っておらず、寝巻き代わりの部屋着のままなのだ。
部屋着を脱ぎ、ブラジャーを手にしたあかりは、
「ヒカリは胸が大きくていいわねえ」
と羨ましがる。
「大きいなんてほどじゃないわよ。あんたより大きいだけで」
細身のあかりより、中肉のヒカリのほうが乳房に恵まれるのは、当然といえば当然だ。
「知ってた? 十五歳と十八歳の胸囲の差は、統計上、一センチもないのよ。女性の乳房は十五歳でほぼ完成形なのよ」
ヒカリは何を思ったか、そんな蘊蓄を話しはじめる。
「へえ。でも、なんで十八歳なのよ」
「統計をはじめた頃は、十八歳で結婚して子どもを産む女性も今よりずっと多かったから、十九、二十歳となると母乳で胸が張る女性も多いのよ。そんな人の胸囲を計っても統計にはならないでしょ。十九歳以降は参考値でしかないわけよ。だから統計としては十八歳で切るのが、婚期が遅くなった今もつづけられてるのね」
ヒカリの講釈は、あかりの胸は今以上大きくならないと、遠回しにいっているのだ。
「でもほら、おっぱいは男性に大きくしてもらえ、って水商売ではいうのよ。あたしだって、まだもうちょっとはいけるんじゃない?」
あかりも往生際が悪い。
「それは刺激によるハリの話でしょ。ハリのいいときとそうでないときとで、数値の差が出ないのは統計で明らかよ。仮に大きくなるとしても、あんたの経験の数なら、もう十分大きくしてもらったでしょう? それでその大きさなんだから、もう限界ってことよ」
ヒカリらしい理屈攻めに、あかりはがっくりさせられる。
「ヒカリって、夢も希望も打ち砕くのね」
「細身で巨乳なんて、慢性肩凝りに悩むだけだから、体格相応で良かったじゃない」
相変わらずの現実屋さんだわ、とあかりはため息をつく。だが、この現実思考が、ヒカリの突飛ともいえる一人三役──ヒカリ、少年、ユカリの役どころを適材適所に配置し、勝算まで立てているのだから、やっぱりヒカリはこれでいいんだわ、と思わされるのである。




