第三話「すでに日は暮れて」1
その男、歳は四十代前半、上質そうな生地のスーツを恰幅の良い体軀にまとわせ、色黒の肌、ポマードで髪をまとめた、やり手のサラリーマン風の出立ちだ。
鋭い眼差しの中に怒りを露わにさせ、『光の路』の鑑定部屋に怒鳴り声を響かせる。
「駅裏の女占い師は、この投機は失敗すると言いやがる!」
あかりのことだ。
この男には、すでにあかりの占術の手が付いているらしい。
「絶対に損をかぶることはねえんだ。俺はもう一回よく見ろって言ってやった。そしたら──」
興奮しすぎて、息継ぎのタイミングも失っている。それでも、
「あの女、私の占いは当たる、などと抜かしやがった。ふざけやがって!」
言わねば気が済まんとばかりに、息のつづかん限り罵るのである。
ヒカリは真顔を作る裏で、失笑が漏れるのを懸命に抑えている。
──あかりらしいわ。
あかりの占術手腕は決してなまくらなどではない。ヒカリにもこの男の末路が見えている。
積み上げてきたすべてが一夜にして台無しとなる、強い喪運である。
「あなたには確かに財を失う相があらわれています」
穏やかでありながらも強い意志を宿す凛としたヒカリの声に、男は打たれたようにウッと唸った。
この娘はさっきの女占い師とは格が違う。そう確信せざるを得ない威容に気圧されたのだ。
「投機の対象が確実なら、何か他の理由が投機に影響するのでしょう」
「他の理由……?」
男にはそんなもの、心当たりがない。
「どんな投機も、あなたのまな板で料理されるわけではないのですよ」
男は唸らざるをえない。投資の思わぬ失敗は、欲を搔きすぎたのでなければ、他人のしくじりが連鎖して損かぶりすると、これは投機に財産を託す者なら銘に刻まなければならないことだ。
それをこの娘は知っているらしい。その驚きが男の表情には、わかりやすくあらわれている。
男は横柄な態度を引っ込めて、丁寧に礼を伝えて帰っていった。
ここにはまた来ることになる。男にはその予感がするのだ。そのために、印象を良くしておくに越したことはないと。
そんな男の打算など、すっかり見抜くヒカリだが、喪運の強さを思うと気の毒さが勝り、回避の手段を思い巡らせてみるのである。
次の被験者も男性だ。
五十代半ばくらいであろうか。実直な人柄がにじむような、朴訥とした印象の男である。
苦労が多いのか髪の半分は白髪と化しており、黒縁の眼鏡は大きいレンズがはめられ、これは遠近両用なのだろう。
鑑定部屋に入るなり、ブツブツと文句らしきことを口にしている。
聞けば、先ほどの男とほぼ同時に来て、自分の方がわずかに早かったが、押しのけられてあとの順番になってしまったという。怒っているが、怒りをストレートに表せないでいて、結果、愚痴をしつこく言っているように聞こえてしまう、損な性格のようだ。
「でも、その前の人が早い時間で鑑定を終えられましたから、時間をかけて、あなたのお話を聞くことができますよ」
被験者ひとりあたりにかける目安時間をおおよそ決めているが、さっきの男は五分ほどで帰っていった。ここは、ほぼ二人分の時間をかけても良いだろう。
ヒカリの言葉に気持ちを持ち直したようで、生真面目な性格そのものに、最初に名前を名乗り、よろしくお願いいたします、と頭を下げてくる。
男は大原隆夫といい、工業高校の教職にあり、進路指導を担当しているという。
占いの鑑定を受けたいことも、生徒の進路指導だという。総本山にいた頃から教員の被験者を数十人観たが、生徒の進路を占ってもらいにきた人ははじめてだ。
「生徒さんの就職について鑑定を希望されるということは、その就職先に不安を感じていらっしゃるのですか」
高校が企業の求人票を受理するまでに、その企業の事業内容や安定性を調査する。社会的に背徳性をもつ事業、倒産と背中合わせのような経営状態の企業の求人は受け付けない。
「その意味では、学校が受けつけて生徒に勧める求人はまず安心です。生徒の将来を大きく傷つけるようなことはありませんから」
大原は、ですが大学生の就職活動とは大きく違うことがありまして、とつづける。
「基本的には生徒が自分に合う会社を自分で選ぶのは大学と同じなのですが、企業が高校に求人票を出し、学校が受け付けるということは、学校は必ず生徒の誰かをその企業に就職させる、その約束でもあるのです」
「では、企業さんが一名求人を出せば一人、二名出せば二人の生徒さんが、その企業に就職するよう斡旋しないといけないわけですね」
ヒカリもそのような仕組みになっていることは知らなかった。
学校としては、生徒へ確実な就職先を紹介でき、企業側としても欲しい高卒人材を確保できる。ともにメリットのあるシステムとヒカリも思う。
そして学校側でそれを主導するのは、進路指導担当の大原なのだ。
「企業の事業性や安定性は担保しているのですが、給与面までは考慮していないのですよ」
どうやらここからが話の本題らしい。まだ占術の鑑定がどう必要なのか見えてこないが、ヒカリは大原の話をみんな聞くつもりでいる。
「つまり、学校に求人を出す企業さんのなかには、お給料がかなり低いところがある。そして、その企業さんに生徒さんを就職先として世話しなければならない義務がある。そういうことですね」
大原は、それだけでないのです、とやりきれない思いを吐露しはじめる。話は長くなりそうだ。
「たとえば、Aという工場とBという工場の求人が我が校にきます。両社とも高卒初任給はさほど変わりません。勤務日数も残業量も同じくらいで、福利厚生も似たり寄ったりです」
「その二社で、後年、年収に差がつくのですね」
ヒカリにも大筋が読めてくる。昇給の度合いが違うのだ。
「そうなのです。A社は年齢と経験に従い給与も賞与も上がりますが、B社は昇給などわずかで賃金は少ししか上がりません。賞与も寸志に等しいような額でして、二十年働いたとして、年収にして二百万円の差が開くのです」
男性の新卒二十年後となると、結婚して子どもも複数設けているだろう。子育て真っ最中の年齢で、二百万円の収入の差は厳しい。独身を通していたとしても、楽しみごとにかけられる金額として、あるとないとでは充実度が違う。
「一年ごとに十万円ずつ収入の差が開くとしますと、単純に計算すれば、二十年間でトータル二千万円以上の獲得賃金の差が出ますね。同じ高卒の学歴でこの格差は、私から見てもずいぶん大きいと思います」
「もちろん、生徒には将来それだけの格差が生まれるとは教えません。B社に内定した生徒は就職先が決まったと喜びます。ですが、将来も低所得のままとわかっている企業を薦め、先生がいうのだからと従って面接を受けて、入社を決める生徒のことが、私には……」
「ある生徒さんには将来の収入が良くなる企業さんを薦める一方で、別の生徒さんには年収が上がらない企業さんを薦めなければならない。先生にとってはどちらの生徒さんも平等に大切なのでしょう。ジレンマですね」
大原は、A社とB社にそれぞれ決まった生徒は仲の良い友だち同士で、互いの就職決定を抱き合って喜んでいたという。
たとえば、と前置きしていた話だが、どうやら実話らしい。
「年収はそれはそれで大事ですが、もっと大切なのは、仕事をすることそのものではないですか? お給料が低いから仕事の価値まで低いわけではないでしょう。生徒さん、つまり働く側からしましたらお給料の多さは価値ですが、社会的にはお給料の多い少ないは企業価値と直結しません」
これからも毎年、同じジレンマに直面し、その板挟みに苛まれるのが目に見えている。
企業の社長や会長職を務める人物の鑑定も多く手がけているヒカリだ。彼らがいかに事業と社員に対して志を持っているか、良くわかっているのだ。
その思いを、大原に伝えてみる。
「先生のお立場は、やりがいを感じられて、仕事に志を持てる企業さんに生徒さんを送る責任がありますでしょう? 仕事の楽しさややりがいを体験させてあげ、働くことの大切さを理解できるようにするのが進路指導の役割りなのですから、その意味でA社もB社も等価ですよ。そういう良い職場に導くのが就職の進路指導なのですから、良い職場と高収入とがイコールでなくても、なんら悪気を感じることはないのですよ。お給料の差は大きいですけど、生徒さんが就職後に収入に不満を持つなら、その先を切り拓くのは生徒さん自身です。先生ではありません」
聞き終えて、大原は目に涙を浮かべ、ヒカリの手を握ってくる。
「ありがとうございます。三年前に進路指導担当になってからずっと気に病んでいたことが、今日でつかえがとれました。ここにきて、話を聞いてもらえと言われてやってきましたが、本当に良かった」
「おや、それはどなたからですか」
誰ぞやの勧めだったとは、意外なことのはじめだ。
「坪井です。坪井俊太郎です。彼とは大学からの親友なのです」
坪井澄花の父である。澄花の記憶の呼び戻しと春佳の遺書探しの一件。ヒカリのことを、感謝してもしきれないと言っていた。澄花の父も、ヒカリのことを信頼できる人物と思ってくれたのだろう。
あれからもう、ひと月が経ち、今日から七月だ。澄花は結婚に向けて、婚約者とあれやこれやの準備に追われているだろう。
当然、父も母も、披露宴を催す支度で忙しいことだろう。
「坪井さんに会われましたら、よろしくお伝えくださいね」
大原は結局のところ、進路指導にあたる自分の悩みごと相談だったのだ。
占いの必要がなかったことに、ヒカリはむしろ、喜びを感じるのだった。
──人を導くのは、なにも占術だけでない。
占術を使うにしろ使わないにしろ、今そこにいる人の心に寄り添ってみる。それがその人の悪い運気からの転換を導き、負に向かう運命の力に対抗できる人の力の具現と思う。
坪井美智子、澄花、澄花の両親に、自分の気持ちを尽くしてみた。
そして、死への道筋を変えてあげられなかったホナミへの手向けだ。
今日、小さいことでも、それをひとつ実践できたことが、ヒカリは嬉しい。
「圭吾くんにご報告ね」
今夜の鑑定を終えたら、甘いものが大好きな圭吾に、タルトを供えるか、練切にするか、大いに悩むヒカリである。いつものように、半分こを楽しむつもりだ。




