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第二話「死と変容」15

 坪井美智子の息子の翔馬と、早川めぐみという早世の少女、二人の冥婚の絵を二日で仕上げるよう期日を切って、あかりと別れたヒカリだが、翔馬がどのようにして命を落としたのか、いよいよ知っておかなければいけないと思う。

 吉川巡査部長ら捜査課は、事故当時、坪井美智子に翔馬殺害の嫌疑をかけた。

 警察なのだから、勘や憶測で疑ったとも思えない。翔馬の死が事故によるものでも、事故がなければ美智子が手にかけてしまうような動機を、警察はつかんでいたのかもしれない。

 坪井澄花の家と、坪井美智子の家は、分家と本家の関わりだと吉川巡査部長から聞かされている。

 両家ともに子どもを失うという共通項。

 両家にどれだけの行き来があるのか、これは澄花の両親から聞き出すほうが良いだろう。

 先に吉川巡査部長から捜査経緯の話を聞いてしまうと、澄花の両親に事情聴取の印象を持たれてしまう。警察しか知らない情報をこちらが持っていたらなおさらだ。

 ヒカリはまず、澄花の家を訪れることにした。澄花の精神疲労の回復具合も気になる。見舞いにかこつけて、約束を取りつけたのである。



 澄花の家は、分家とはいえ門構えのある大きな邸宅だった。

 坪井家の由来を聞くと、江戸末期からの商家の家柄で、大正期に分家として割られたという。

 昭和期の終戦後に、本家分家とも当主が商売を閉め、国策企業の重役を拝命以後、その子どもたち、孫の代、曾孫の代も一流企業で職を得ているという。

 家を分けた代から数えて、曾孫の代が、分家では澄花の父であり、本家では坪井美智子だという。

 美智子は跡取り娘で、婿をとって家を継いでいる身だったのだ。


「このたびは、ヒカリさんになんとお礼を申し上げて良いやら」

 澄花の父は、和風の客間でヒカリをもてなすと、深々と頭を下げる。

 父の両脇で、澄花の母と澄花もあとに従う。

「澄花さん、ご気分はいかがですか」

 見ると、思いの外、澄花の顔色は良い。

「よくわかんないです。でも、今までお姉ちゃんのことを思い出すと、いつもいくつかの同じことしか頭に浮かばなかったのに、今はたくさんの思い出がでてきて、あんなことしてもらった、こんなことあった、って懐かしくて」

「心を壊すことにつながりかねない思い出は、楽しいことでさえ封印されてたのよ。だから、お姉さんの思い出は限られたものしか、記憶に残されなかったのね」

「思い出せてないことに、変だってぜんぜん感じてなかったんです。だから、今もスッキリした感じでもなくて」

「それは、私の施した、記憶の巻き戻しがうまくいったということよ。心の重さや軽さが、以前と変わらないのが、巻き戻しの理想なの。良かったわ」

 ヒカリの言葉に、澄花の父は、心の重荷を下ろすように語りはじめた。

 ずっと澄花に話せなかった、あの日のことからと、心の内である。

「あの日、安置室で気が狂ったようだった澄花が、気を失って覚めると、平然としていました。わたしら夫婦はどれほどホッとしたことか。ですが、次第に、事故の日の澄花の記憶が、事実と違っていることに気づいたのです」

「お姉さんは、病院で澄花さんに、遺言をのこした──」

 澄花が鑑定所で話した改竄された記憶は、ヒカリもそれと気づかないほど、自然な流れであった。

「それに気づいても、わたしたちには何も手だてがありませんでした。なにより、本当のことを思い出したときのことを想像すると、恐ろしくて……。わたしたちは澄花の話に合わせながら、いつかくるかもしれない、真実を知る日に怯えて過ごしていたのです」

「さぞ、お辛かったことでしょう……」

 ヒカリが心中を慮ると同時に、澄花の口から、お父さん……と、いたたまれない声が漏れる。

「ですが、その日は訪れないまま、澄花は結婚を決めました。結婚後はわたしたちの許を離れて、夫婦で暮らします。今まで、春佳のことをできるだけ思い出させないように気を遣ってきました。澄花が、姉の事故のことを調べても大事にならないよう、手も回しました。ですから、澄花が新しい所帯で、何かのきっかけで本当のことを思い出してしまい、狂った姿に夫婦の愛情が破綻してしまわないか、それだけが気がかりだったのです」

「私、差し出がましくも、警察の方に春佳さんの事故の記録内容を聞きました。核心のところが隠蔽されていました。お父さまの配慮だったのですね」

「そうです。警察の上の方に親しい友人がおりまして。澄花の精神状態の事情を話しましたら、子どもの人生を守ることは、不正を阻むことより重いと。監査が終わったあとなら、調書を書き換えをしても表には出ないだろうと言ってもらえ、頼みました」

 ヒカリは気づいた。澄花の目から、怒りの色が消えていることに。

 澄花には、作り変えられた記憶であっても、大好きな姉のことが、いつでも一番に残っている。だが、両親は、姉のことを忘れてしまったみたいに、思い出に触れないのだ。まるで、姉がはじめからいなかったかのように。

 澄花の心には、両親の態度が言えない怒りとして燻っていたのである。

 あかりが澄花に浮気談義をはじめる前に、実家との距離の取り方を話したと聞いて、ヒカリは思い当たった。怒りは両親に向けられているのではないかと。ヒカリの読みは的を射たようだ。

 両親の隠していた思いを知った今、澄花は自分がどれだけ大きな愛情に包まれていたかを、じっくりと感じている。



 澄花のことは片付いた。

 ヒカリにとって、今からが肝心だ。

 実はお伺いしたいことがあるのです、と澄花の父を見据えてみる。

「こちらとご本家との関係について、教えていただけないでしょうか」

 本家の坪井美智子とは知己を得ていると伝えると、疑うことなく話をしてくれた。


 戦後に商いを畳んだ両家は、盆正月の挨拶と冠婚葬祭程度の付き合いになったが、美智子の父の代になり、再び親しく行き来するようになった。

 美智子は一人娘だったこともあり、十二歳のときに分家に生まれた春佳をことのほか可愛がった。学校の帰りには、毎日のように分家に顔を出して、春佳を抱っこし、あやして、遊んであげ、ミルクを飲ませ、オムツを換え、実の姉のように、ときにはもう一人の母親のように接したのだ。

 春佳の成長に合わせて一緒に遊び、春佳が大きくなると、動物園や遊園地に連れ出したこともあった。

 それは春佳が十歳の年までつづいた。

 美智子は大学を卒業してすぐ見合いをし、婿をもらう。妻として夫を支え家庭を守るようになった美智子は、春佳のもとへ通うことはできなくなった。

 そして翌年に翔馬を出産。坪井本家は前の代から家政婦や子守りを雇うことをやめており、美智子は一人で翔馬の育児に精を出した。

 だが、学生時代の友人たちと会食、趣味の映画や観劇、大荷物をかかえるショッピングに翔馬は連れていけない。

 そんなときは、春佳を頼ることにした。


 美智子の結婚と時を同じくして、分家では澄花が生まれていた。春佳は生まれたばかりの澄花の面倒を良く見ていたのである。それはまだ赤ちゃんだった自分が、美智子に可愛がられた喜びを覚えているかのように、澄花に愛情を注いで、その澄花も一歳を迎えている。

 赤ちゃんの世話がすっかり達者な春佳には、生まれたばかりの翔馬のことを、美智子は安心して頼めるのだった。

 会社勤めの友人と会えるのは日曜日だけ、好きなことにいそしむのも日曜日に限るようにしているが、夫は休日も仕事の付き合いで家を空けてばかりで、翔馬の面倒を見てくれない。

 毎週ではなく時折であったが、学校が休みの日曜日に、春佳は本家に出向き、美智子の留守時に翔馬の面倒をみることを、喜んで引き受けたのだ。


「春佳さんと美智子さんには、家族同然の絆があったのですね」

 両家がこれほど近い付き合いだったとは、さすがのヒカリも想像を超えていた。

「美智子さんは、春佳を妹として可愛がってくれてました。翔馬くんが生まれてからは、今度は自分がお姉ちゃんになってあげるんだ、と。本家に呼ばれるのは月に一度か二度でしたが、その日がくると、とても嬉しそうに出かけていきました。澄花が小さい頃、本家に連れていって、一緒に遊ばせたこともあるはずです」

 澄花の母は、懐かしんで話す。

 澄花は覚えていないというが、年子の妹と弟のように、仲良くあそんだと、春佳は楽しそうに報告してくれたという。

「翔馬さんが亡くなられて、どんなにか悲しかったでしょうね」

 もしや、翔馬の事故死は日曜日だったのでは、と考えるが、それを明け透けと聞くわけにもいかない。吉川巡査部長に聞けばわかることでもある。

「あの日春佳は友達と会うとかで外出していました。夕方に帰ってきて、翔馬くんが亡くなったと聞き大泣きしていたのを覚えています。その四日後に春佳があんなことになるとは……」

 翔馬の死がいつなのか、まだ聞いていないが、やはり春佳の事故死と同じ頃なのだ。

 可能性のひとつとして、春佳は自殺の見方もできる。翔馬の事故死も、本当に事故なのか、吉川巡査部長はいまだ疑いを捨てていないようだ。

 ここまでわかると、吉川巡査部長に翔馬死亡の過程を尋ねるしかないだろう。

 ヒカリは、春佳の仏前に線香をあげて、遺影に心で話しかけた。

 ──私はこれから、本当のことを知ることになるの。ごめんなさいね。



「ヒカリさん、私の部屋にきませんか?」

 澄花は二階へ誘ってくる。見せたいものがあるのだそうだ。

 澄花の部屋に入ると、サッカー選手のピンナップや記事の切り抜きが、壁一面に貼られている。

 棚にはサッカー誌がぎゅうぎゅうに並び、ディスクは、内外の主要なマッチゲームの録画ばかりだ。

 いかにサッカーを研究し、サッカーが大好きなのかが、一目でうかがえる。

 自分はサッカー競技に全霊をかたむけさせてもらえ、その環境のための費用は大きかったが、両親は惜しまずに出してくれている。

 澄花は、父も母も、お姉ちゃんの分まで、二人分の愛情を私に注いでくれたんだ、と涙ぐむのだ。

「そのサッカーとさよならをして、家庭にはいるのね」

 ヒカリは、澄花の思いきりに、後悔はないわよね、と寄り添う。

 私はサッカーも二人分頑張ってきたつもり。幸せだった、と澄花はいう。

「選手をつづけても、サッカーも家庭も、どっちも中途半端、全力を注げない気がして。二人分どころか、二分の一ずつの幸せになったら、悔しいですもん」

 澄花は、何冊かのアルバムを取り出す。

「私の記憶が呼び戻されてから、お父さんに渡されたんです」

 それは、春佳が写っているものばかりを収めたものである。

 澄花の記憶が真実に目覚めぬよう、可能性のありそうな写真をまとめて、父は隠していたのだ。

「これも、お姉ちゃんのです」

 品のある調度の鏡台を指さす。

「おばあちゃんの形見で、お姉ちゃんに譲られたそうです。お姉ちゃんは毎日、この鏡台でお化粧してたんです。これも、お父さんが私にわからないように、しまいこんでいたんですって。これからは私が使いなさいって、出してくれたんです。ずっと、記憶になかったんですよ。きっと、封印されてたんですね」

 これを新居に持っていく、と澄花は大事そうに台座をなでつづけ、また涙を見せるのだった。

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