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第二話「死と変容」12

 すごい勢いで『光の路』の扉から飛び出していったヒカリ。

 扉から一歩飛び出たところで、壁にぶつかったような衝撃を全身に受けた。だが、跳ね返りで転倒することはなかった。

 ヒカリの体は、誰かの両腕で抱かれ、しっかりと支えられていたのである。

「大丈夫ですか?」

 抱かれた両腕をゆっくりほどかれると、ヒカリの目の前に立っているのは、澄花である。

「良く見ないで、ごめんなさい。澄花さん」

 見ると、隣にはあかりもいる。

「すごいフィジカルねえ……」

 目を丸くして、心から感心しているあかりだ。

「フォワードですから。あれしきで倒されるなんてこと、ありません」

 澄花は笑って返す。

「ヒカリがあんまり遅いから、来てみたのよ。ヒカリも慌てることがあるのね。初めて見たかも」

 二人のこの様子だと、澄花の心の封印は解かれていないらしい。

 大きく息をついて、ホッとするヒカリだ。

「よくきてくれたわね。こちらへどうぞ」

 鑑定所へ手を差し向けて、二人を中に招き入れる。澄花は、おじゃましまーす、と楽しげな様子だ。

 ヒカリは、もう心を決めている。

「お座りになったら、ちょっと待っててくださいね」

 ヒカリは『光の路』を出ると、三階の私室へ向かった。


 ヒカリは生前の圭吾と交わした結婚指輪をつけてみた。

 総本山で執り行われた圭吾の葬儀。それから数日過ぎても、左手の指輪を目にするたびに、涙があふれて止まらない。

 泣いてばかりではいけないなどと、欠片も思わないヒカリだったが、両親を喪ったときとは違う。圭吾の命が奪われたのは、自分のせいに違いない。

 圭吾は自らも危険に飛び込むとわかった上で、ヒカリの盾になったのだ。

 せめて指輪だけでも圭吾と寄り添わせておこうと、圭吾の遺体からはずした指輪と自分の指輪を、小さな雛壇の上で交叉させた。これでいつも一緒だよ、と。

 ヒカリはもう、正体のわからない殺人者から逃げることをしない、と決めたのだ。今度こそ、自分が狙われる。

 自分が正面から迎え撃つ覚悟を固めることで、ヒカリは涙を止めたのだ。

 それがいつのことになるのか。きっと突然に違いない。それまでは、占術で人を導く自分の運命を全うしよう──。


 二つの指輪が仲良く絡む雛壇から、自分の指輪をヒョイと摘まむと、ひとつ残された指輪に向かい、

「ねえ、圭吾くん」

 生前の夫に甘えたのと、同じ声をかける。

「奥さまの指輪は、お仕事にお出かけしてきますからね」

 子どものままごとのように、自分の指輪にペコリとお辞儀をさせて、一人でクスクス笑うと、左の薬指にスッと通した。


「お待たせしたわね」

 ヒカリはコーヒーを四人分淹れて、それぞれの前に並べる。

 置かれたカップからかぐわしい香りを受けた澄花は、ありがとうございます、と言うなり、わあっ、と歓声のような声を出した。

「ヒカリさん、その指輪! 結婚してるんですかっ? うそっ!?」

 そして、隣の吉川巡査部長の方を見るのである。

「もしかしてっ?」

 歳の差婚ですか! と囃したててみる。

 ヒカリが未亡人となった理由を知るあかりと吉川巡査部長は、訂正するにもヒカリの悲しみに触れない言い方が思いつかない。

 二人があわあわ戸惑っていると、当のヒカリが苦笑いをして、

「あいにく、他人様なのよ」

 と手首を振ってみせる。そして、主人の写真見てみる? と誘いかけるのだ。

「ぜひっ」

 澄花は好奇心いっぱいに乗ってくる。

 ヒカリは私室に立て掛けている、圭吾と肩を寄せ合う一枚を持ってきていた。そして、どう? と澄花に見せた。

「ラブラブじゃないですかあ。ヒカリさんにお似合いの優しそうな人ですねっ」

 ヒカリは、ウフフと目を細めている。

「ヒカリさんの旦那さんにお会いしたいです」

 身まで乗り出している澄花である。

「残念だけど会わせられないの。死んでしまったから」

 え? と澄花はキョトンとする。

「あなたのお姉さんと同じ。頭を砕かれて、死んでしまったの」

 澄花の姉、春佳の遺体状況を知る吉川巡査部長は、驚いて腰を浮かせた。経緯を知らないあかりも、ハッと息を止めてしまった。

 澄花は首を振り、そして、語気を強くして否定する。

「お姉ちゃんは、車にはねられて、病院で、私とお父さんとお母さんに看取られて──」

「いいえ。お姉さんはダンプカーに轢かれて、その場で死んだのよ。頭を潰されて、死体で病院に運ばれた。あなたが会ったお姉さんは死体よ」

「違うっ!」

 澄花がヒカリを睨みつけたそのとき、ヒカリの眼光は鎖縄を巻くかのように澄花の体を捕らえた。

「いやあああっ!」

 澄花の目の前には、遺体袋の中で、平らに広がった春佳の頭があった。目も鼻も口も耳もわからない、顔とは言えない顔──。

「ぎゃああああっ……」

 澄花は暴れだした。あの日、遺体安置室で叫んだのと同じ悲鳴をあげて。

 だが、今度は体を締めつけられて動けない。吉川巡査部長が羽交い締めに押さえたのだ。

「お姉さんの姿を見るのでなく、声を聞くのよ。お姉さんには、あなたに伝えたいことがあるのだから」

 ヒカリの声が凛として、澄花の五体に響きわたる。

「お姉さんは、何て言ってる?」

「お、お、お姉ちゃんの分も幸せに……」

 焦点の合わない目で、もはや、体の力も抜けている。虚ろになりながら、澄花の口ははっきりと言い切った。

「お姉ちゃんの分も幸せになるのよ!」



「ヒカリったら、すごい荒療治ねえ」

 あかりはまだ、ハラハラが治まらない。吉川巡査部長から春佳の事故の真実を聞かされて、自分まで動悸がしてくるのだ。

 澄花はヒカリに言われるがまま、抑肝散を飲み、落ち着きかけている。

「いや、驚きましたよ。ヒカリさん」

 吉川巡査部長も上がった息がやっと整ったところだ。

 澄花が取り乱すことを想定し、取り押さえ役として、吉川巡査部長を返さずに同席してもらっていたのだ。

 体幹が抜群に強い澄花だから、強行犯の確保の訓練を積んでいるツワモノにいてもらったのだが、女子サッカー選手のフィジカルは相当なもので、吉川巡査部長も必死の形相だった。

 そんな役割をさせるつもりだったと聞かされていなかった吉川巡査部長は、事態の急展開にびっくりしている。

「お姉ちゃん……」

 澄花は小学生の頃のように、うえーんと泣きじゃくるのだった。


「澄花さん、ご結婚おめでとう。お姉さんは、誰よりも喜んでいるのよ」

 長い結婚生活、何かの出来事で姉の死の真実が甦るときが、きっと来るだろう。そのとき、澄花の伴侶にはなす術がないまま、狂乱を受け止められず、鎮めることもできないだろう。

 彼が澄花を守り、寄り添えるとは限らない。いや、長く続けば見捨ててしまうかもしれない。

「お姉さんの死に方を変容させちゃうなんて、人の防御本能ってとてつもなく強いのね。こりゃ、ヒカリでなきゃ無理ね」

「たから今だったのよ。澄花さんの心の封印は、今解くべきたったのよ」

 ぐったりと疲れてソファに横たわる澄花に目を向けて、ヒカリは呟く。

「でも、まだ終わりじゃない。澄花さんの心には、もうひとつ、隠されているものがあるわ」

 ヒカリが最初に澄花を鑑定したとき、その目の奥に、怒りに似た感情が宿っているのを見た。それが、封印された記憶が露になった今も消えていないのだ。


 ヒカリは、あかりを奥に誘い出す。

「あかり、あんた、私がいないとき、澄花さんとどんな話をしてたの?」

 あかりがタロットカードで真意を占わなかったのは幸いだが、一時間以上もどう時間を費やしていたのか。

「話っていうか、まあ、新妻の心得っていうかね」

「結婚したことないんでしょ。どんな心得を話したのよ」

 ヒカリは半ば呆れて、中身を促す。

「まあ、早くいえば、浮気されないようにするには、ていうのと、浮気された場合の気づき方、謝ってきたときの許し方、誤魔化されたときの追求の仕方、とかね」

「それ、これから結婚する女性に話すことじゃないでしょ」

 ヒカリがたしなめても、以前と同じくあかりは平気だ。

「あら、とっても興味もって、根掘り葉掘り聞いてきたわよ」

 あかりもあかりなら、澄花も澄花、ということか。乗りの良い澄花なら、聞き尽くしておきたいことかもしれない。

「あ、でも最初の話はね、結婚後の義実家との付きあいかた、自分の実家との距離の開け方なんかだったのよ。浮気がうんちゃらってのは、わき道の話」

「それだけ話せば、一時間なんかあっという間ね」

「はじめは鑑定するつもりだったのよ? でも幸せオーラがあんまり色濃くて、そういう時期って嫉妬も何倍どころか、可愛さ余って憎さ百倍になるもんよ。だから、ね」

「人の経験を、さも自分の経験のように取り込めるのは、昔からあんたの優れたところだったわね。ふうん……」


 あかりの話を聞き、ヒカリは考え込むのだった。なにかヒントが隠されているような気がする。

 澄花の心の奥に、消えずに燻りつづけている怒りらしき感情。これは、もうずっと前から、小学生だった澄花の記憶が変容した頃から在りつづけているのではないだろうか。

 ヒカリは、もしかしたら、と思い当たったのである。

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