最終話「悲歌」9
鋼音はひとり、電車を乗り継いでいる。瑠璃はもう登校した。自分だけで遠出は生まれてはじめての鋼音だ。
先日ヒカリときたときは、駅からタクシーに乗った。ヒカリからは十分なお小遣いをもらっている。けれども、歩いて目的の場所へ行くことにする。
道ゆく人に、ここに行きたいです、とスマートホンの画面を見せると、みな、ああここなら、とおしえてくれる。金谷憲斗の会社は有名らしい。
見覚えのあるビルが見つかると、鋼音は水筒の麦茶を一口含んで喉を潤す。歩きは疲れる。自分の痩身計画を見せた瑠璃から、痩せるには運動も大切だよと助言された。だから、疲れてもいいと思う。
「こんに……おはようございます」
会社のドアを開けたときに近くにいた社員は、鋼音のことを覚えていた。
「あれ? 今日は約束してたかな」
先日は見学者がくることを全員が伝えられていた。
「してないです」
鋼音は連絡が必要だったことに気を回せなかった。だが、社員は意に介さない顔で、ここにどうぞ、と手を向けている。
優しいな、と鋼音は嬉しくなるのだ。
「金谷さんは社長室なんで、待っててもらえるかな」
空きの机に着いて、鋼音はスタッフみんなの動きを見ている。電話を受けている人は、受話器を持ちながら、相手がそこにいないのにペコペコお辞儀をしている。
近くにいるふたりは、調達する資材を確認しあっている。この前老婆の家で使った板や釘、カーペットは、こうやってどこかから買ってくるらしい。
水筒をさげているのに気づいた若い男性は、
「僕のおやつだよ。わけてあげる」
とスナック菓子をひと袋、鋼音に渡す。食べながら待ってて良いという。周りを見ると、女子スタッフのひとりが、もぐもぐ口を動かして、午前十時のおやつタイムらしい。
午前中におのおの少しの休憩をとるんだよ、と別の男性がおしえてくれる。ペットボトルのお茶も差し出して、水筒のがなくなったらこれを飲んでね、と手に持たせてくれるのだ。
みんな親切だ。こんな人たちばかりが集まっているところは素敵だと思う。
憲斗が険しい顔をして戻ってきたのに、鋼音は気づく。社員からひと言いわれると、顔つきを変え、鋼音のほうを向いて、ニッコリ笑顔になる。
「鋼音さん、今日はどうしたの」
憲斗に嫌なことでもあったのか、鋼音は気になるが、聞きにくいのでやめておく。
「知りたくてきたんです」
「おや、工程とかかい?」
鋼音は首をふる。
「なんでこの前、気絶したのか」
憲斗も突然前触れもなく意識を失った鋼音に驚かされた。あとから、なんでもなかったとヒカリから連絡をもらったが、自分のなにかが良くなかったのでは、と気に病んでいたのだ。
「気絶する前の、変な気持ち。なんだったのか。それも知りたくて」
それを考えると必ず頭痛に襲われていた。だから、もう一度、帰社から倒れる寸前までを再現してみようと考えたのだ。
「帰ってきてから、この部屋で、施工予定の図面を見て、説明してあげたよ」
その工事は終了しているが、同じ図面を持ってきて広げる。憲斗はそのときと同じように説明を聞かせる。
そのあとは、釘打ちの指導をした。老婆宅では斜めに入れてしまった鋼音に、まっすぐ打ち込める技術指導だった。
憲斗の手が鋼音の手の角度を直す。鋼音の手を押さえつづける。鋼音が憲斗の体温を意識したそのとき──。
「金谷さん。私の肩を触ってみてください。両手で」
鋼音はなにを思ったか、憲斗に両肩をつかませる。
そしてそのまま憲斗の胸に顔をくっつけてみる。抱かれた格好になるのだ。
鋼音はゴクリと唾液をひとくち飲み込むと、
「だいたい、わかりました。頭痛くなかったです」
少し虚ろな様子ながらも、しっかりとした口調で答えるのだ。
ひとつひとつを、なにかを感じながら鋼音は試していると、憲斗にもわかってくる。
「この前と、なにが違ってたかに気がついたのかな」
鋼音はうなずくと、今度は憲斗の目にぴったり視線を合わせている。
「また、お仕事おしえてもらいにきて、いいですか?」
ヒカリが大けがを負ったことは、ユミカから聞かされていた憲斗である。
「もちろん。けど、ヒカリさんが元気になって、家に戻ってきてからにするんだよ。それまではいいとは言えない。今はヒカリさんのことが第一だからね」
「……はい」
鋼音は、ペコリとお辞儀をして、帰っていく。その顔が少し暗いことに、憲斗は気がついている。
鋼音が道を歩いているのを窓から確かめると、憲斗は携帯電話を手にして、電話をかける。
「金谷です。ヒカリさん、今お電話大丈夫ですか?」
ヒカリは談話室に移るから少し待ってて、という。お待たせしたわね、というヒカリの声が聞こえると、
「ふたつ、お知らせしたいことがありまして」
ひとつは鋼音の来訪のこと。もうひとつは──。
憲斗からの電話のあと、ヒカリはそのまま談話室から所轄の吉川巡査部長に電話をかけ、ある頼みごとをする。
「それはセイント・セミコンダクターとは関係のないご依頼なのですね」
「私の刺された事件を利用するのですけど、まったくの私用です。お願いできますか」
「そんなご依頼ができるほど回復されているのに、むしろホッとしますよ。しかしなかなか楽しいじゃありませんか。ヒカリさんと相撲の組み合わせは意表をつかれます」
これで当日の病院抜け出し計画の根回しはできた。栞と七海にも会場にきてもらえる約束をした。鋼音も発声練習を張り切っているらしい。あかりの役割りは心配することもあるまい。
今、ヒカリ自身驚くほどの、わきあがる気力を感じている。
セイント・セミコンダクターへの潜入が頓挫したと思ったが、百合が関係をつないでくれていた。
吉川巡査部長が圭吾と関わりのあった社員を攻め、ヒカリが退院できるタイミングで、重役たちに圭吾殺害の嫌疑をかけていることをにおわせる。
重役たちは疑いを晴らすためにヒカリを頼るよう、百合が仕向けるのだ。
ヒカリがセイント・セミコンダクター社に請われて復帰するばかりでなく、警察を蹴散らすことでなおのこと信頼を高められる。
遠回りだが、このやりかたはヒカリの回復具合にも沿うし、退院するまでは、桃の相撲部のことに専念できる。
憲斗からは、会社を所有している組が、危機的状況に瀕していると聞かされた。社長は組からの出向だから、組が壊滅にでもなれば、会社も存続が危ういことになるらしい。
ヒカリはチャンスと考える。この組は増本組の元兄貴格。助けることでうまく取り込めれば、任侠の新組織と増本組のことにも、めどをつけられる。
「ヒカリさん。充実してますか?」
見るとホナミが立っている。
「ええ。とっても」
「でも、人間はいつ死ぬかわかりませんよ」
「そうね。今回は鋼音のおかげで死ななかったけど、あなたの言うとおり。いえ、いつ死んでもおかしくないんだわ」
ホナミは近寄って、ヒカリの手を取る。冷たい手だ。体温がない。
ヒカリはそれを当たり前に受け取る。
ホナミは、運命には逆らえないのよね、と微笑んでいる。
──運命の力。
人の力では逆らえぬもの。占術の世界ではそう考えられてきた。
ヒカリは逆らえないはずの運命を変えるのは、人の力、人の想いだと信じた。
ヒカリと同じ生年月日を持った相原咲は、異国の地で生涯の幕を閉じた。
ヒカリも咲と同じ星の軌道を持つのだから、同じ頃に死ぬのが規程なのだ。
なのに生き延びたのは、人の力。
鋼音の知能があのとき──死に瀕したヒカリの姿を目にしたときだけ、完全に回復したのだ。鋼音の本来の知能は高く、論理的なものだったのだ。
これこそ、人の力だとヒカリは思う。
そして、死相──。
ビデオ通信の粗い解像でも、ヒカリなら死相を抽出できる。だが、咲から死相を観たことはなかった。
死相とはなんなのか。いつあらわれるのか。なぜ消えるのか。
「私はあなたに死相を観た。あらわれたり、消えたり、やんちゃな死相だったわ」
ヒカリはホナミがはじめて『光の路』を訪れた晩を思いだす。師である葛原麗華へ助言を求めるほどに、変化が著しかった。
「ヒカリさんにも、同じ死相が出てますよ。私と最初に出会った、その日から」
「占術士は占術士を観ることができない。だから、誰も私を観れない。でも、あなたは観ることができるのね」
ホナミは微笑んでうなずいている。
「運命の力に、逆らえますか? 運命を変えることができますか? 人の力、人の想いが通じないほどの運命の力に抗えますか?」
ホナミは運命の力に抗えなかった。ホナミが命を絶ったから、人の力と想いを見いだした。そしてヒカリは栞を救えた。
人の想いに勝るものはないとヒカリは信じる。
──人の力、人の想いが通じないほどの運命の力。
そんなものはない。ヒカリはキッと鎖縄のような視線をホナミに向け投げる。だが、ホナミは巻き取られない。
ヒカリは今度は言葉で信じるところをぶつける。
「ホナミさん。私は瑠璃さんの命を守った。瑠璃さんの運命を変えたのよ」
ホナミは打たれない。
「瑠璃さんには、死相があったのですか?」
ヒカリはそこでハッとするのだ。運命の力は、瑠璃には作用していなかった。
冷たい声でホナミはいう。
「人の命など、いつでも、どこででも、消えてしまうもの。死相──そんなのは……」
そんなのは、なんだっていうの?
ヒカリは誰も立っていない壁に向かって問いただしている。
眠っていたわけではない。夢ではないのだ。
ヒカリは、今なぜホナミを鏡にして自問自答していたかわからない。
「咲さんも、瑠璃さんも、死相なんかなかった。咲さんは死んで、瑠璃さんは生きた」
運命の力と死相。もしかして、相関などないのか?
「私には死相が出ている? でも、私も生きた」
もういなくなったホナミに問いかける。
「あなたはなんで、ここに出てきたの? なにが言いたくて、私の前にあらわれたの?」




