第三章
「様子はどうだ?と訊いたところで変わりはなさそうだな。」
診察室にて沙衣は、沙依を診ながらそう成得に話し掛けた。
沙依は相変わらず子供の姿のままだったがとりあえず状態は落ち着いた。末姫だと言い張っていたのが、自分が沙依であると認識できるようにもなった。相変わらず一人になることに酷い不安を感じている様子だが、今は見えるところに成得がいれば落ち着いている。大きなパニックも見られていない。知り合いが傍にいれば成得と離れていても多少不安はあるようだが落ち着いてはいられる。
「とりあえず一時期に比べれば状態は落ち着いたな。そろそろ仕事復帰すること考えなきゃいけないけど、まだまだ一人にしておける状態じゃないしどうするかね。」
薄ら笑いを浮かべながらそう言う成得を沙衣は一瞥し、すぐ視線を自分の傍に控えていた磁生に向けた。
「磁生。沙依を向こうの診察室へ連れて行ってこの項目の検査をしてくれ。終わったらそのままそっちでしばらく沙依と遊んでてくれるか。」
沙衣にそう声を掛けられて磁生が沙依を連れて出て行った。二人が完全に離れたことを確認して沙衣は成得に話し掛けた。
「実際どうするつもりだ?」
沙衣に問われ成得は、さあねと肩をすくめた。
「とりあえず仕事復帰するなら俺からは生活を完全に離さないといけないとは思うよ。姉貴の記憶持ってるし美咲が預かってくれれば助かるんだけど、あいつはそういうの嫌がるだろ。俺や沙依と違ってあいつにとって自分はあくまで清水美咲であって姉貴も春李もあいつの中では自分じゃないからな。沙依はあいつにとって赤の他人で、妹でも友達でもない。」
そう言って成得は遠くを見た。
「高英もダメだろ。あいつは人との関わり方が解らない。実際、青木家は機能不全家族だった。今の状態の沙依を青木家に帰したら状態が悪化する。」
そうでなくても今の高英には無理だろうと成得は思う。結局あれから高英はどういう結論を出したんだろうか。自分の気持ちを認めたのか、認めなかったのか、それとも目を逸らすことにしたのか。久しく高英と会っていない。きっとあいつのことだから沙依の様子は確認しているのだろうが、何も接触してこないということはどう接したらいいか解らないでいるに違いないと思う。
「忠次にもそれなりに懐いてるし、お前んとこで引き取ってくれるのが一番かもな。とりあえず色々人に会せてもう少し様子見てみるつもりだ。」
お前はどう思う?と言って成得は沙衣を見た。
「そうだな。沙依の状態とお前の仕事を考えればそれが妥当かもしれないが。」
そこで言葉を詰まらせる沙衣に成得は訝し気な視線を向けた。沙衣は成得と視線を合わせて小さく笑った。
「いや、気にしないでくれ。帰ったら忠次さんにも相談してみる。」
そう言う沙衣はどこか複雑そうな顔をしていた。
「ところで沙依の様子はどうだ?」
沙衣に問われ、成得は千里眼で様子を確認して答えた。
「落ち着いてるよ。俺から離れても慣れてる誰かがいれば大丈夫みたいだな。今のところ不安も見られてない。」
それを聞くと沙衣はそうかと答えた。
「成得。もうしばらく沙依の事はお前に任せた。頼んだぞ。」
そう言う沙衣の表情にやはり何か引っかかるものがあったが、成得はあえて追求せずに了承した。
○ ○
「君にこんな大きな子供がいたなんて知らなかったよ。」
ニヤニヤ笑いながら太乙がそう声を掛けてきた。
「いや、ずいぶん沙依ちゃんにそっくりな娘だね。君と沙依ちゃんの隠し子?君と沙依ちゃんがそんな関係だったなんて知らなかったな。」
そう言う太乙に成得はいつもの薄ら笑いで答えた。
「お前さ、解っててそう言うこと言うの止めてくれない。俺に喧嘩売ってんの?その喧嘩買っていいの?」
「いや、まさか。喧嘩なんて売ってないよ。ただの冗談だよ。案外短気なんだからな。からかいがいがあるよね。」
しれっとそう言う太乙に成得は何かを言うのを諦めた。その発言が喧嘩売ってんだろ、と思うが突っ込めばよけい遊ばれるだけだ。
「沙依ちゃんには一体何があるんだろうね。この娘が関わると通常通りに行動できない奴が多い。どんなに不遇な状況にいても、最悪な事にはならない。いつだって沙依ちゃんにはなにか助けが入る。不思議で仕方がないよ。」
そう言って太乙はしゃがみ込んで沙依の顔を覗き込んだ。太乙に見つめられて沙依は成得の後ろに隠れた。
「うちの妹怖がらせるのやめてくれる。」
そう言う成得に太乙は笑みで返した。
「懐かしいね。小さかった頃の沙依ちゃんを思い出すよ。」
そう言って太乙は立ちあがった。
「でもこの子、僕の事怖がってないよ。ね、沙依ちゃん。」
そう声を掛けられて沙依は成得にしがみついたまま太乙をじっと見た。太乙も沙依を見つめ返し、暫く二人は視線を合わせていた。
「まあいいや。今はそうやって本当のお兄ちゃんに甘えてればいいんじゃない。」
そう言って太乙は沙依から視線を外した。
「お前、何が言いたいの?」
そう言う成得を太乙はニヤニヤ笑いを浮かべて見た。
「別に。僕は子供だからって特別扱いしないからさ、子供には基本好かれないんだよね。」
「子供云々以前にお前は性格が悪いから人に好かれないんだろ。」
成得の突っ込みに太乙は全然気にしていない風に、ひどいなと返した。
「君は根っこの部分でお人よしだからさ、生きづらそうだよね。」
そう言うと太乙は視線を沙依に落とした。
「沙依ちゃん。気が済んだらちゃんと帰っておいで。そのまま落ちていったらいけないよ。」
そう言葉を残して太乙は去って行った。沙依は成得の裾を掴んで俯いていた。
「沙依、大丈夫か?」
成得の言葉を聞いて、沙依は成得にぎゅっとしがみついた。
「次兄様、大好き。」
そう言う声が辛そうで、成得は沙依の背中を優しく撫でた。
「お兄ちゃんも大好きだよ。大丈夫。気にしなくていいからな。」
なんだよあいつ。いったい何がしたいんだよ。成得はそう考えるが、本当は太乙が何を指摘したいのか解る気がしていた。でもその何かを認識することを脳が拒絶していた。沙衣も太乙も変だと思う。でもそのことを今は深く考えたくはなかった。
○ ○
成得が沙依を連れて甘味処でお茶をしていると隆生がやってきた。
「こう見るとお前まんま父親だな。すっげー違和感がある。」
そう言って隆生は成得たちがいる席について、注文をした。
「お前に沙依そっくりの隠し子がいたってもっぱら噂だったけど、実際こうやって見るとそういう噂が立つのも納得だわ。」
隆生のその言葉に成得は嫌そうな顔をしてやめてと言った。
「その噂、誰が流してるのかだいたい想像つくけどさ。俺、隠し子いないから。似てるんじゃなくて沙依本人だし。」
その言葉を聞いて隆生は呆れたような顔をした。
「お前に隠し子いたって俺は驚かねぇよ。皆にそう思われるような生活してきたんだろうが。それに昔からあれだけ沙依に付きまとってセクハラしてたんだから、もしかしたらって思われるのも当たり前だろ。そもそもお前そんな噂気にするような奴だったか?」
そう言われて成得は頭を押さえた。
「実際はどうあれ、幼い妹の耳にそういう話し入れたくないの。解る?」
そう言う成得を見て隆生は大笑いをした。
「これよりかはもうちょいデカかったけど、沙依が実際にガキだった頃にあれだけしておいてどの口がそう言ってんだよ。お前がこんな風になるなんて想像つかなかったわ。まじで笑える。」
一通り笑い終わると隆生は目を細めて成得を見た。暖かなその視線がとても居心地が悪くて成得はそっぽを向いた。
「そういう目で見るのやめて。俺、お前と違ってこれからも所帯持つ気ないから。ってか、小太郎はどうしたんだよ。あいつほかったらしでこんなところでのんびりしてていいのか?」
そう訊かれて隆生は、今日は定期健診だよと答えた。
「もうちょい長く持つかと思ってたけど、あいつももう長くないかもな。ここんところ調子が悪くてさ。自分は年を取らないから俺には老衰ってのがどういうことなのか想像もつかないし、ついてけてないんだ。」
そう言って隆生は遠い目をした。
「俺も自分がまさか人間と所帯を持って子供まで作るとは思ってなかったからな。小太郎の奴、頭ははっきりしてるけど身体は高齢の爺さんだから自由が全くきかなくて、おかげで俺は息子の介護に追われる日々だ。想像つくか?自分の息子が気がついたら自分が年が止まった年齢超えてどんどん年取ってってよ、あっという間に年寄りになって身体の自由がきかなくなって、自分より先に死んでいく。頭では解ってても、なかなか受け止められるもんじゃない。あの戦争が起こる前は自分がこんな風になるなんて思ってもみなかった。」
そう言って隆生は成得の目を見た。
「俺たちの人生は長い。お前だってこれから気が変わることもあるかもしれないだろ。現に前世の記憶戻ったお前は確実にその前のお前じゃない。長く生きたぶん今までの生き方を変えられないのも解るが、お前が普通に所帯持って父親してるような、そういう未来もあるかもな、くらい考えたっていいだろ。昔と違って常に生きるか死ぬかを考えてなきゃいけないような時代じゃない。非番でもしょっちゅう呼び出されて戦い続けてたような時代じゃない。平和な時代がいつまで続くのか分からないけど、だからこそ、今だけは少しぐらい平凡な幸せってものを求めたっていいだろ。どうせその時が来たら俺たちは確実に戦場に戻るんだからさ。」
そう言って隆生は笑った。
「幸せな思い出ってやつは案外自分を支えてくれるもんだぞ。それに人生長いんだから、どうせ思い出すなら辛いことより幸せなことが沢山あった方がいいだろ。」
そんな話をしていると隆生が頼んだ白玉クリームあんみつが届いた。それを見て成得は話を逸らした。
「お前、見かけによらず甘い物好きだよね。蜜豆の上にあんこにクリームにアイス二つ、それに黒蜜かかってんだろ。よくそんなに甘いもん食えるよな。」
成得はいつもの薄ら笑いを浮かべてそう言った。隆生の言っていることは理解はできるが、考えたくなかった。自分は今まで通りでいい。今まで通りでいたい。普通の生活、平凡な幸せなんて求めてない。自分に寄り添てくれる特別な誰かなんていらない。自分には信頼できる仲間がいて、信頼してくれる仲間がいる。それだけでいい。本当にそうなのか?なら何でこんなに沙依に拘っているのか。なんでこんなに次郎だった頃の記憶に引っ張られるのか。お前は本当は次郎だった頃みたいな平凡な幸せを求めてるんだろ?そんなことを自分に問いかけたら、全てが崩れてしまいそうで成得は怖かった。だからいつも通りに笑って、話題を逸らして、何も考えないようにして、自分自身をごまかした。
そんな成得をしり目に、沙依と隆生は甘味を堪能していた。二人のその姿を見ると成得は昔を思い出した。昔からこの二人は仲が良かった。いつも二人は非番が合うとこうして一緒に過ごしていた。それこそ沙依が子供の時からあの戦争が起きて龍籠が一度滅びるまで、ずっと変わらない関係を続けていた。隆生が、お前白玉好きだろ、これやるよ、と言って自分の白玉を全部沙依の器の中に移し、沙依は満面の笑みでお礼を言って本当に幸せそうにもらった白玉を食べていた。それを見て本当にうまそうに食うよなと言うと隆生は自分も食べはじめ、たわいのない会話を続ける。そんな二人の様子を見て成得は何とも言えない気分になった。
成人した男女でこれをやってたんだもんな。傍から見たら付き合ってるように見えるよな。二人の間に何もなかった方がおかしいよな。そこに介入して沙依にセクハラしてた俺って本当、痛いな。二人を眺めながら昔のことを思い出していたら自分の痴態まで思い出して、成得は気が重くなった。
そんな成得の気も知らず、隆生は懐かしそうに目を細めて沙依を見ていた。
「こうやってると昔思い出すな。俺が初めてこいつにぼろ負けしたのが丁度こいつがこれくらいの年だった。いくら近接戦がそんなに得意じゃないからってこんなガキに負けたのは本当に悔しくて、でもそれと同じくらい、ガキにこれだけ仕込むって行徳も高英もいったい何考えてんだって思ったな。同じような境遇でも春李はあんなにガキらしかったのに、沙依は本当にガキらしくなくて、かわいげが無くて、見てらんなかった。でもこうやって甘いもん食ってる時だけは昔からこんなだったな。」
そんなことを言いながら隆生は自分のアイスをスプーンですくうと、これも食うか?と言って沙依に差し出した。うん、と嬉しそうに言って沙依はそのまま口を開けて食いついた。本当に幸せそうにアイスを食べている姿を見ると、何とも言えないもやもやが成得の胸に広がった。
「あのさ、隆生。うちの妹を餌付けするのやめてくれない。この光景お兄ちゃんの精神衛生上よくない。まじで。」
そんな成得の言葉に隆生は疑問符を浮かべた。
「お前も食うか?」
そう言って自分にも同じように差し出されて、成得は反射的にいらねぇよと叫んでいた。その反応に沙依が驚いたような顔をして、隆生は怪訝な顔をした。
「次兄様、甘い物嫌い?」
沙依にそう訊かれて成得は、いや嫌いじゃないけど、そこまで好きでもないけど、そういうことじゃなくてさ、とぶつぶつ言いながら意気消沈していった。それを見て何を思ったのか沙依が白玉を差し出してきて、成得はため息をついてからそれを食べた。おいしいか訊きながら顔を覗き込んでくる姿にため息が出る。
「うん、おいしいよ。ありがとう。」
そう言って成得は沙依の頭を撫でた。そんな成得を隆生がニヤニヤしながら見ていた。
「隆生、お願いだからその顔やめて。本当、腹が立つから。」
成得はいつもの薄ら笑いを浮かべて隆生を見据えた。
「いや、すっかり骨抜きにされちまって。これがあの児島成得かね。人って変わるもんだな。」
隆生はニヤニヤしたままそう言うと、そろそろ小太郎迎えに行くから、と言って伝票をもって出て行った。ふと気づくと、自分たちの分の伝票もなくなっている。あいつなんなの。本当、やることがいちいち腹立つ。心の中で悪態をついて成得は沙依に目を向けた。
沙依はまだ自分のあんみつと格闘していた。自分に向けられた視線に気が付いて、首を傾げて見上げてくる。おいしいか訊くと満面の笑顔で肯定する。その笑顔が本当に眩しい。そんな沙依のその姿は成得が知っている末姫そのものだった。このままの時間を過ごしたい。このまま沙依が元に戻らなければいい。そんなことを願っている自分がいることに気が付いて、そう感じている自分を認識して、成得は苦しくなった。ずっと子供のままでいてくれたらいいのにと、次郎だった時もそう思っていた。大人になれば自分から離れていく、離れなくてはいけなくなる、誰かと恋してどこかの男にとられてく…。
「俺は悪い兄ちゃんだな。」
思わず漏れた成得の言葉に沙依が反応した。
「次兄様は悪いお兄ちゃんじゃないよ。悪いのはわたし。次兄様は本当に優しい。本当にいい人だよ。だから皆次兄様の事が大好きで、そんな次兄様を苦しめるわたしの事が嫌いなんだ。昔からずっとそうだった。」
そう言って自分を見つめる瞳が真剣で、成得はドキリとした。その目は子供の目ではなかった。その様子に戸惑って何かを言おうとするが、うまく言葉が出てこなかった。そうこうしているうちに、沙依の様子は元通りになっていた。元通り、純粋に無邪気な子供の瞳で、どうかしたの?と首を傾げて訊いてくる。なんでもないと言って、成得は視線を逸らした。今のはいったい何だったのだろうか。今起きたことの意味を理解しようとすることを心が拒否していた。
○ ○
成得は沙依と手を繋いで歩いていた。ここしばらく沙依の様子がおかしかった。時々呆然とした様子でどこかを眺めている時がある。そしてふと元に戻ってくっついてくる。しばらくするとすっかりただの子供に戻っている。いや、実際は子供ではないのだから、この状態を元に戻ったと表現するのはおかしいのだが。
沙依の小さな手を引きながら成得は胸に何とも言えないもやもやしたものが広がって苦しくなった。そろそろこのごっこ遊びも終わらせて現実に戻らないとな。そんなことを考えながら歩いていると、高英に遭遇した。じっとこちらを見ている高英の様子を見て偶然会ったのではないと成得は感じた。
「こんなとこで待ち伏せして何か用か?」
いつもの薄ら笑いを浮かべてそう言う成得を一瞥して、高英は沙依に視線を落とした。沙依と高英がしばらく視線を合わせ続ける。その様子を見て成得は心の中でため息をついた。もう少しぐらいさ、猶予くれたっていいんじゃないの。色々と受け入れるには時間が必要なんだよ。沙依じゃなくて俺の方の心の準備ができてないんだよ。そう思ったが、どうせそれが聞き入れられるわけがないことも解っていたので、成得はそのまま様子を静観した。
「沙依。いつまでそれを続けるつもりだ?」
高英にそう言われて沙依は俯いた。
「お互いの為にもそろそろ終わりにするべきなのは、お前自身解ってるだろ。」
そう言われて成得の手を握る沙依の手に力が入った。成得はそれを見て、やっぱりそういうことだったか、と心の中で呟いた。直視したくなかった。理解したくなかっただけで分かってはいた。いつからかは解らないが沙依はもうとっくに元に戻ってる。ただ、自分の意思で子供ごっこを続けていただけだとずっと前から知っていた。成得は沙依の手をそっと握り返した。大丈夫。お前がどんなんだってちゃんとついててやる。伝わるかどうかわからなかったが、成得は心の中で沙依に語り掛けた。
「解ってるよ。解ってるけどさ。頭でわかってる事と感情は別なんだよ。」
絞り出すようにそう言って沙依はぽろぽろ涙をこぼした。
「わたしだっていつまでも甘えてちゃいけないって解ってたよ。わたしがこんなことしてるからナルの事苦しめてるって解ってる。でも、もう少しだけ甘えてたかったんだ。もう少しだけ、子供のままでいたかった。」
そう言って沙依は顔を上げ、成得から手を離すと高英の方へ歩いていった。
「コーエーはさ、いつだってわたしの味方でいてくれたけど、わたしのこと大切にしてくれたけど、こうやってわたしのこと甘やかしてくれたことないじゃん。わたしを守ってくれたけど、わたしが辛い時、怖かった時、わたしに付き添ってくれたことないじゃん。わたし、ずっと辛かった。子供の頃、すごく辛かった。辛くて、怖くて、ずっと誰かに助けてほしかった。行徳さんに認めてもらいたくて必死で、捨てられるのが怖くて必死で、わがまま言っちゃいけないって我慢してた。良い子でいなきゃいけないって我慢してた。泣いちゃいけないって我慢して、我慢して、必死だった。独りぼっちになりたくなくて必死だった。そういうこと全部思い出したんだよ。自分が何をどう感じてどうしてほしかったのか、そういうことをさ、思い出したら止められなくなって、それでさ…。」
声がだんだん震えて、しゃくりあげてきて、最後には言葉が続かなくなって、沙依は大泣きを始めた。高英の上着を掴んで鳩尾あたりに額を当てて沙依は泣いていた。
「ごめん、コーエー。コーエーが本当にわたしを大切にしてくれてたこと知ってる。こうしてほしかったとか、全部わたしの我儘だって知ってる。わたしが甘えに行ったらコーエーは受け入れてくれたって解ってる。それくらいコーエーの愛情をちゃんとわたし感じてた。だから、わたしがただ素直になれなかっただけだって解ってる。コーエーはわたしの全部を知ってもそれでも傍にいてくれるから、コーエーがいてくれたから、わたしは大丈夫だった。ずっと助けてくれてたのも解ってる。ごめん。ひどいこと言って、ごめんなさい。ごめん。自分の弱さをコーエーのせいにして、ごめんね。ごめん。コーエーは悪くないのに。ごめん。」
謝り続ける沙依をしばらく見下ろし続け、高英は沙依の頭に手をのせた。その瞬間、沙依は目を見開き、そして静かに目を閉じた。高英は沙依から視線を外して遠くを見ていた。
「悪かった。」
そう言うと高英は視線と手を下ろし、沙依の身体をそっと抱きしめた。
「本当は、本当にお前がこれくらいの年齢だった頃にこうしてやるべきだった。」
そう言って高英は目を閉じた。
成得はそんな二人の様子を静かに見守っていた。結局、高英はどんな選択をしたのか解らない。そもそも無自覚だったのか、自覚して目を逸らしてたのかも成得には解らなかった。ただ二人の様子を見て、もう自分は必要ないなと思った。これ以上ここにいたら野暮ってもんかね。心の中でそう呟いて、成得はその場を後にした。
○ ○
「大丈夫か?」
そう言って沙衣が温かいお茶を差し出してきた。
「あぁ。大丈夫。ありがとう。」
そうお礼を言って成得はお茶を受け取った。
全部終わった。沙依は元に戻って家に帰ったし、もう自分がするべきことはない。落ち着いてから謝りに来た沙依の話を聞いて事情も理解できた。
ある意味で成得は最初から沙依に嵌められていた。沙依は計算してあの事態を作り出していた。楓ほど自由自在とはいかないが、沙依も自分が今まで成長してきた過程の年齢なら意識的に自分の肉体年齢を操作できるらしい。それで成得が一番無下にできないであろう年齢、次郎が実家を出る前の末姫くらいの年齢に合わせて、成得が自分を護るように誘導した。
沙依は自分のトラウマがどこにあるのかを理解した時に改めてそれに蓋をするのではなく向き合うことを選んだ。その結果が診察室でのパニックに発展した。その時の成得の行動で、沙依は成得に全てを任せようと思ったらしい。そして沙依は自分の肉体を子供に戻し、自分の精神を三つに分けた。父親が狂う前の自由奔放で天真爛漫な末姫、父親が狂ったあとの壊れてしまった末姫、そして沙依自身の3つ。そう分かれた後、沙依はずっと眠っていたらしい。だから沙依は自分を沙依と認識できずに自身を末姫だと思っていた。その後、末姫同士の統合が行われ、沙依が目覚め、沙依と末姫の統合が行われた。
沙依は言わなかったが、統合の作業には沙衣も大きく関わっていることは間違いない。今考えれば、高英だって解っていたからこそ放置していたんだろう。最悪あいつなら強制的に忘れさせて元の戻すことだって可能だったのだから。よかったじゃないかこれで、全部丸く収まったし。後は仕事に復帰して普段通りに戻るだけ。つかの間の非日常は終わった。全部夢だったって思えばたいしたことじゃない。自分も幸せな夢が見られたわけだし、これで気兼ねなく元の生活に戻れるわけだし、万々歳だろ。そう思うが、成得は気が沈んだまま戻ってこれなかった。
「お前の診断で受けた出勤停止命令、解除までまだ期間残ってるし当分だらだらしてようかな。何もしたくない。本当、何もしたくない。」
お茶をすすりながらそうぼやく成得に沙衣はなんとも言えない視線を向けた。
「お前に薬処方してやろうか?ちょっと重症に見えるぞ。」
沙衣の提案を成得は断って、机に突っ伏して項垂れた。
「結局、沙依は沙依なんだよな。いくら記憶があったってなんだって、沙依は末姫ちゃんじゃないし、俺も次郎じゃない。俺もあいつも今の身体で生きてきた年月があって、この身体に生まれてきてからの関係性があってさ、それはどうあがいたって変えられないんだよな。俺、沙依に嫌われるようなことしかした記憶ないもん。あいつがさ、こんな小さい頃から俺あいつにセクハラしてたんだよ。成人してから連れ込もうとしたこともあったし。拒否られる事前提でだったけどさ。本気でする気ならあんな誘い方しないし。っていうか、わざと嫌われるような事ばっかしてたのか、俺。まじで何やってたんだろ。本当、過去に戻れるならあの頃の俺のこと殴ってでも止めたい。」
呆然と話し続けて、成得は深くため息をついた。
「高英に全部持ってかれたな。そうだよな。今の沙依の家族はあいつだもんな。沙依が小さい頃から世話して面倒見てたのあいつだもんな。あいつに家族としての愛情求めるのは当たり前だよな。今更、横からそのポジションかっさらえる訳ないんだよな。」
そう言って成得は遠い目をした。
「俺もちゃんと現実見ないとな。あー、本当何もしたくない。沙衣、ちょっと本気で俺の事殺しにかかってくれない?そしたら目が覚める気がする。」
そう言う成得を沙衣は深く眉間に皺を寄せて見た。
「それ、確実にわたしが返り討ちにあうだろ。」
そう言って沙衣は成得の向かい側の席に座った。
「ちょっと長引きすぎじゃないか?日に日に状態が悪くなってるし、このまま悪化するようなら強制入院させるぞ。そんなに風になるとかお前は沙依に何を求めてたんだ?」
心底理解できないという顔でそう問われて、成得は、何だろうな、と呟いた。
「正直、よく解んないや。記憶戻ったばっかの時はさ、これでもまだ大丈夫だったんだぜ。ちょっと自分らしくない行動はとったけどさ、そこまで外れたことはしてないし。沙依のこと何とかしてやりたいって気はあったけどさ、そこまでじゃなかった。自分の後悔の罪滅ぼしみたいな感じか?ちょっとだけ、妹だった時みたいに懐いてきてくれたらいいなって期待はしてたけど、そんなんありえないって思ってたし、ちょっと思い出に浸って一方的に兄妹ごっこしたかった感じかな。」
そう言って成得は目を伏せた。本当、どうしてこんな風になったんだろ。喪失感が半端ない。いつも通りが本当にできない。どうやっていつも笑ってたんだったっけ。どうやっていつも自分を偽ってたんだったっけ。そういえば最近ずっとおかしかった。いつからこんなに俺は他人に自分の事話すようになったんだ。感情を隠さないでさらけ出すようになったんだ。そもそもどうして感情を抑えられないんだ。身近な相手にだって、見抜かれてるって解ってたってずっとごまかしてきたのに。多分、人を騙すというより、自分を騙すためにずっとそうして生きてきたのに。どうして今はそれができないんだろう。そんなことを考えて、成得は沙依に抱きしめられた時のことを思い出した。あぁ、あれか。あれで堰が外れちまったんだな。あの時、沙依を受け入れちまったから。沙依に甘えちまったから。一方的に勝手に癒されるんじゃなくて、心を許して弱さ見せて、受け止めてもらっちゃったからか。理解したくなかった自分の感情を理解して成得は力なく笑った。本当。こんなの気づきたくなかった。自分のこんな感情、理解したくなかった。沙依の笑顔が脳裏をよぎって成得は胸が締め付けられた。
気が付くと沙衣が驚いたような顔をして自分を見ていた。それが不思議で、彼女がが何でそんな顔をするのか解らなくて、成得は呆然と沙衣の顔をみていた。沙衣が優しく微笑むのが視界に映ったが、それが滲んで見えて、成得は自分の頬に違和感を覚えて、頬を撫でた。手が濡れる。何だろうこれ。なんだったっけ。それが何か理解して、成得から乾いた笑いが漏れた。認識するとそれはどんどん溢れてきて止まらなくなって、成得はどうしていいのか解らなくなった。
「そういう時は気が済むまで泣いた方がいい。我慢するなよ。」
そう言う沙衣の声が聞こえたが、もう沙衣の顔は見えなかった。俺、泣いてるのか。泣くなんていったいいつぶりだろう。どんなに泣きたくなったってもうずっと全く出てこなかったのに、なんで今はこんなに溢れてくるんだろ。もう自分が泣くことなんてないと思ってた。自分が涙を流す事なんてもうないと思ってた。自分の涙はもうとっくに枯れ果てたんだと思ってたのに、どうして。そんなことを思いながら、成得はずっと静かに泣いていた。沙衣が渡してくれたタオルに顔を埋めてただ涙を流し続けていた。
溢れ続けた涙がおさまると成得は立ちあがった。
「俺、帰るわ。ありがとな沙衣。」
そう言って成得は沙衣の頭を撫でた。
「だから、それ止めろって言ってるだろ。」
沙衣は憮然とそう言いつつ、成得の表情を見ると仕方がないなという風に笑った。
「お茶を調合しておいたからこれを持っていけ。薬のような効果はないが、気分転換にはなるぞ。」
沙衣から小袋を渡されて、成得はお礼を言ってその場を後にした。
○ ○
寄宿舎に戻った成得は深くため息をついた。とりあえず今はゆっくり風呂にでも浸かろう。少しでも疲れがとれりゃ少しは気分も回復するだろ。そんなことを考えて、支度をして風呂場に向かった。
成得が風呂場の扉を開けると、欲場の方から水音がしていて誰か先客がいるようだった。誰かと言っても、今この寄宿舎には成得と磁生しか入居していないのだから磁生に決まってるのだが、なぜか磁生ではない気がした。自分のその感覚に成得は不思議な気分になったが、気にしないことにした。とりあえず今は何も考えたくない。誰が入っててもいいや、なんかあったら返り討ちにすればいいだけだし、そのあとゆっくり浸かればいいだけだし。そんなことを思いながら服を脱いで浴場へ続く扉を開けた。瞬間に扉を閉める。何か見えてはいけないものが見えた気がするけど今のは何だったんだろう。俺、本当どうかしちゃったのかな。沙衣から薬もらっといた方がよかったか。成得は自分の頭を押さえてそんなことを考えつつ、腰にタオルを巻いた。一呼吸おいて、もう一度扉を開ける。うん。見間違いじゃなかった。ちゃんと抑えた俺、本当偉い。
「ここで何してんの?」
成得は酷く冷たい視線を向けて、同じく冷え切った声を出してそう言った。
「え?お風呂入ってんだけど?」
あっけらかんとそう言う沙依に成得はバスタオルを投げつけた。
「色々と見えちゃいけないものが丸見えだから。ちゃんと隠しなさい、女の子でしょ。」
そう怒鳴る成得に沙依は怪訝そうな顔をした。
「お風呂にタオル浸けちゃいけないんだよ?」
「そういう問題じゃないから。お風呂出たら話があるから俺のとこに来なさい。解った?」
そう言って成得は踵を返した。
「ナルもお風呂入りに来たんじゃないの?入らないの?」
「入らないよ。入るわけないだろ。」
後ろから聞こえる沙依の呑気な声に、成得は反射的に怒鳴り返して扉を閉めた。
「なんでそんなに怒るのさ。」
本当に理解できていない様子でそう言う沙依の声が聞こえてきて成得は頭が痛くなった。なんでそんなに気にしないんだよ。女じゃないの?そんなことを考えて成得はどっと疲れた。脱いだ服を着直して食堂に移る。椅子に座るともう動きたくなくなった。背もたれに身体を預けて天上を仰ぎ見る。本当、何も考えたくない。何もしたくない。そう思うのに、沙依の姿が頭を過って成得は机に突っ伏した。
「もう、本当やだ。」
成得が呟くと、入口の方からうわっと声が聞こえた。そちらに視線を移すと磁生が立っていた。そうだった。こいつ俺が第三管理棟後にしたときまだあそこにいたじゃん。俺より先に帰ってるわけがなかったじゃん。そんなことを考えて成得は、本当自分どうかしてるなと思った。
「あんた、本当に大丈夫か?もう、なんつーか、相当やばいことだけは解るぞ。」
ドン引きしたようにそう言う磁生に、成得は大丈夫と答えた。
「色々と自分の中で消化できてないだけでそこまでじゃないから。普段とのギャップでひどく見えてるだけだから、多分。」
そんな成得を見て磁生は黙って成得の向かい側に座った。磁生が心配して自分の話を訊くつもりなんだと察して、成得は言葉を紡いだ。
「いや、大丈夫じゃないけど、大丈夫だから。なんていうか疲れただけだから。今は何にも考えないでだらだらしてたかったのにさ、もう本当疲れる。本当、やめてほしい。」
そんな成得の様子を見て、ついこないだまで子守にに追われてたもんな、とそんな相槌を打ちながら磁生は話を促した。何があったのか一通り聞くと磁生は思わず吹き出した。
「あんたの妹に恥じらいとか女らしさを求めるのが間違いだって。あれは女じゃないから。女だと思って相手する方がバカ見るぞ。」
そう言う磁生に成得は、ひどいこと言うなと呟いた。
「いや、ひどくない。まじでひどくない。ひどいのはあんたの妹の方だ。見た目だけはいいくせに、あれだからね。どんだけ注意してもあれだからね。あそこまで堂々とされてみろよ、どんなに見てくれ良くてエロい身体してても反応しなくなるわ。女の裸見ただけで興奮するほど若くもないし、あれに変な気起こすとしたら本当になんかの気の迷いだと思うぞ。」
磁生の言葉を聞いて成得は難しい顔をした。そんな成得を見て磁生はため息をついた。
「あいつがこっちを男として認識してないのにこっちが気をもんでも本当に疲れるだけだぞ。もしあれでなんかあったとしても自業自得だし、あいつだってガキじゃないんだから自分でなんとかすんだろ。」
そう言って磁生は成得から目を逸らした。逸らした先の扉が開いて沙依が入ってきた。
「ほら、沙依。あんたのせいで兄ちゃんが頭抱えてるぞ。あんたさ、いい加減に自分が女だって認識しろよ。お前の兄ちゃんが心労で倒れちまうぞ。」
そう言う磁生に沙依は訝し気な顔をした。
「いや、わたしは女だよ。ちゃんと女だって解ってるよ。それになんでナルが心労で倒れるのさ。意味が解らないよ。」
そう言う沙依にうんざりした視線を向けて、磁生は座るように促した。
「自分が女だって認識してんならなんで恥じらいを持てないんだよ。あんた何?誘ってんの?実は襲われんの待ってんの?誰でも相手にできるようなそういうことにだらしない女な訳?」
そうまくし立てられて反論しようとした沙依の言葉を磁生は遮った。
「あんたのやってることはそう思われても仕方がないって言ってんの、解ってる?あんたが何にも考えてないってことぐらい解ってるけどさ、そう思われて襲われたらどうすんだよ。いくらあんたが強くたって組み伏せられたら男の力にゃ敵わないぞ。そういう心配を兄ちゃんに掛けてるって解ってる?あと、いくら兄妹だと思ってても男を風呂に誘うんじゃねぇよ。バカが。いい加減にしろ。」
磁生に怒られて沙依は難しい顔をし、しばらく黙り込んで考えてから、小さい声で成得に、ごめんと謝った。その様子を見て成得は心の中でため息をついた。
「いいよ別に。どうせお前何も解っちゃいないだろ。」
吐き捨てる様にそういう成得を見て、沙依は口を開いた。
「半分はもう癖なんだよ。見られたからって反応する方が相手の反応誘発するから無反応で対応しろって、大昔に訓練されて身に沁みついちゃってるしさ。なんか隠したりする方が意識してるみたいで恥ずかしいみたいな感じでさ。磁生に散々怒られてこれでも努力したんだよ。でも本当、逆に恥ずかしくて結局反応できないんだよ。で、ついまったく気にしてませんよって対応になっちゃうんだよ。それに悪気があってしてるわけじゃないんだし、なんかあるわけじゃないしいいかなって。」
話しながらだんだん声が小さくなっていき、最後に磁生に頭を小突かれて沙依は、いてっと頭を押さえた。
「いいかなで終わらせるのが悪いんだろ。いい加減にしろ。それにまだ自分の家で無防備なのは仕方がないとして、なんでここで風呂入ってんだよ。ここあんたの家じゃないだろ。」
そう磁生に言われ沙依は首を傾げた。
「今日ここに越してきたんだけど、知らなかった?」
沙依のその言葉に磁生と成得の両方が、はぁ?と声を上げた。
「なんでここに越してくんの。ここ寄宿舎。本来、訓練生が訓練期間中共同生活送るための風呂トイレ炊事食事場が共有の住居。俺がここにずっとここに住んでんのは理由があってだからね。普通、訓練生以外入居しないから。そもそも空きが沢山あるのに何でここなの。別のとこ行けよ。せめてここでも違う階とかさ。同じ設備があるんだし。」
そう言う成得に沙依はそんなこと言われれても、と顔を顰めた。
「実家出ようかと思ってどっかないか窓口で相談したらここに入居しろって言われたんだもん。わたしまだ除籍されてないから入居資格あるし、住人がまとまっててくれた方が施設の管理運営が楽だからって言ってたよ。使ってないところ使用できるようにすると人手と経費がかさむしって。」
沙依のその言葉を聞いて成得は頭を抱えた。誰だよ、そんなぶっちゃけて沙依にここ斡旋したの。そういう業務はうちの部隊の管轄だからうちの部隊の誰かなのは確かだけど、嫌がらせなの。それとも同じ理由でもう一つの方に入れたらあいつがいるから気を使ったつもりなの。もう、本当やだ。そんなことを考えて脱力する成得を見て沙依が口を開いた。
「わたし荷物纏めて出て行くよ。別にここじゃなくてもいいし。」
沙依のその言葉を聞いて成得は顔を上げ疑問符を浮かべた。沙依は困った様な何とも言えない顔をしていた。
「わたしのしたことナルは許してくれたけど、やっぱり今はわたしと会いたくないでしょ。」
そう言うと沙依は立ちあがった。思わず自分も立ちあがって沙依の手を握っていて、成得は自分の行動に驚いた。沙依を見ると彼女も驚いた顔をしていた。いったい自分が何を求めて何をしようとしたのか理解できなくて成得は戸惑った。
「とりあえず座れよ。別に嫌じゃないから。大丈夫だから。俺が沈んでるのは自己嫌悪と喪失感だからね。てか、勝手に決めつけられてお前に拒否られた方がきついから。出てく前にちゃんと話をしようか。俺に罪悪感があるのは解ったけど、そうやって勝手に決めつけて心閉ざしてどっか行こうとするのは止めて。それ間違ってるから。」
ちょっと前なら別に傷つけたっていいんだって、もっと甘えていいって、全部受け止めてやるからって言えたのに、そういう言葉が口に出せない自分がいて、成得は苦しくなった。そんな自分をごまかすように薄ら笑いを浮かべて、成得は沙依の頭を撫でた。成得に頭を撫でられて、沙依は何か考える様にしばらく黙り込んでいた。
「ありがとう、ナル。ナルが次兄様でいようとしてくれたこと、本当に嬉しかった。助けてくれて嬉しかった。傍にいてくれて嬉しかった。」
そう言って沙依は成得を見た。
「でも、ナルはもうわたしのお兄ちゃんじゃないんだね。もう次兄様じゃないし、わたしを末姫だとは思ってないんだね。」
そう言って淋しそうに笑う沙依の顔を見て、成得は心臓を掴まれたような思いがして息が止まるかと思った。
「あとはわたしだけか、ちゃんと今と向き合えてないのは。やっぱり淋しいな。昔からずっと帰りたかった。全部終わればまた皆で仲良く過ごせるって、単純に思ってたところもあったんだ。全部元通りになるって。辛かったことは全部夢でさ、起きたら幸せだったあの頃のままとかさ。そんな訳ないのにそういうことよく考えてた。全部終わって平和になったあとも。そんなことばっか考えてた。だから龍籠に戻ってこれなかった。ここに帰ってきたらそんな訳ないって現実を直視しなきゃいけないから、色々言い訳して逃げてたんだって今なら解るよ。」
椅子に座り直して沙依は呆然とそう言った。
「現実を見たくなかったんだ。失くしたものはもう戻らないなんて考えたくなかった。だから女媧との戦いが終わった後あのまま死にたかった。どうして最後の最後で父様の力を借りてまでわたし戻ってきたんだろう。あの時、何でわたし生きたいって思ったんだろう。磁生が命を懸けてまでわたしの命を繋げようとしてくれてたのに、わたしの生を願ってくれたのにそれを拒否してまで死にたがってたくせにさ。どうしてだったのか思い出せないや。何がしたかったのかもう思い出せないや。」
そう言う沙依に視線を向けられて、磁生はいたたまれなくなって目を逸らした。
「ところでさ、お前なんで実家出ようとしたの?高英と喧嘩でもしたのか?」
成得が話をふると沙依は少し考えるそぶりを見せた。
「ちょっと前に磁生から実家出て一人暮らししたらって言われて考えてたっていうのもあるんだけどさ。なんていうか喧嘩はしてないんだけど、なんかコーエーの様子が変で、ちょっと怖くて逃げてきちゃった。」
沙依のその言葉を聞いて磁生が反応した。
「怖くて逃げたって何?人の心読める奴から怖くて逃げたって、相手にそれ筒抜けだよな。あんたあいつにあんだけ信頼寄せてたくせにそんなことするなんて何考えてんの。それあいつスゲー傷付いてんじゃないの。バカじゃね。」
そう言われて沙依は反論した。
「言われてることは解るけど今回はそんなにわたしが怒られることないと思うよ。最初は色々あったからコーエーも気にしてるのかなって思ってたんだよ。コーエー元々あまり自分の事話さないし、そっとしといた方がいいかなって思ってたんだけど、でも何か様子がずっと変でさ。なんか言いたいことがあるみたいで、よくわたしの方見てるしさ。言いたいことがあるなら言ってくれないと解らないって、何かあるならちゃんと話してって言ったんだよ。でも何にも言ってくれないし。言ってくれないくせに何かあるのは確かだし、変なままだし。」
そう言って沙依は難しい顔をした。
「それにさ、本当に変なんだよ。コーエーからこんな感じするなんておかしいと思うんだけど。なんかさコーエーから孝介と同じような気配を感じてさ。なんていうか、見られてると嫌悪感じゃないけどなんかこう何とも言えない不快感というか、とりあえず落ち着かない感じがしてさ。それ伝えていい加減にしてって言っても何も教えてくれないし。だから何も言ってくれないコーエーが悪いんだもん。わたし悪くない。」
そう言う沙依の頭を磁生が小突いて、沙依は頭を押さえて抗議した。磁生は何も言わずに救いようのないものを見る目で沙依を見ていた。そんな二人のやり取りを見て成得は高英に思いを馳せた。お前はそういう選択をしたのか。そう考えると成得は気が重くなった。あいつとどうにもならなかったとしても今度は高英とそうなる可能性もあるのか。まじで考えたくない。
「とりあえず事情は分かったからさ。高英も色々一人で考えたいこともあるだろうし、一回実家離れるのもいいんじゃない。」
成得は怠そうにそう言って二人を見た。
「今まで男二人だったから何もルール決めなかったけど、共同生活のルール決めるぞ。決めたルールはちゃんと守れよ。特に沙依。破ったら追い出すからな。」
それを聞いて、なんでわたしだけ注意されるの、と嘆く沙依を無視して成得はいくつかのルールを定めていった。あとは進行だけして二人に任せる。
成得はぼけーっと沙依を眺めていた。のんびり感傷に浸かる暇もないな。もう少し自分の感情と向き合う時間が欲しかった。受け入れた上で抑え込むための時間がほしかった。今まで通りに取り繕えるようになるまでの時間が欲しかった。成得がそんなことを考えていると、視線に気が付いた沙依と目が合う。何も知らずに疑問符を浮かべる顔を見るとため息が出そうになる。やっぱり早々に仕事復帰しようかな。ここにいた方がなんか精神衛生上よくない気がする。そんなことを考えて、成得は心の中でため息をついた。