第二章
「沙依。調子はどうだ?」
診察日、いつものように磁生は沙依に話し掛けた。症状は落ち着いている。今のところ特に問題はない。沙依と世間話のような会話をしながら磁生はこれからの治療プランをどうするか考えていた。そんな磁生の横で、急に沙依が両腕を広げて真顔でバカなことを言ってきた。
「ねぇ、磁生。ちょっとぎゅってしてみて。」
磁生は反射的に沙依の頭を小突いていた。
「あんた急に何言ってんの。バカじゃないの。患者に頼まれたからってそんなことしたら沙衣にどつかれるわ。」
頭を押さえながら見上げてくる沙依に説教をする。
「いや、他意はないんだよ。ただちょっと実験というかなんというか。」
言い訳をする沙依を横目に磁生はため息をついた。沙依が何も考えてない事くらい解っている。他意があった方が困る。
「わたしも色々自分が何が怖いのか考えてたんだよ。何が原因でこうなったのかなとか、色々昔の事思い出しながらさ。」
「それと抱きしめろっていうのと何の関係があんだよ。」
冷めた目で沙依を見ながら磁生は話の先を促した。沙依は少し考えてから口を開いた。
「磁生はわたしのこれの原因は何だと思ってる?」
話を逸らされて磁生は肩透かしを食らった気分だった。
「やっぱり、あのじじぃから受けた拷問じゃねぇの。あんなん何年も食らってたら普通に発狂するだろ。あんたが廃人になってないのが不思議なくらいだ。」
それを聞いて、やっぱり普通はそう思うよね、と沙依は呟いて俯いて黙り込んだ。あまりに真剣な顔で黙り込んでいるので、磁生は声が掛けられなかった。
沙依が原始天孫から受けた拷問。沙依に地上の神への続く手がかりを吐かせるという名目で行われた拷問。実際はターチェを研究するために行われた実験であり、沙依を使ってより強い兵器を作り出すための試行錯誤。情報司令部隊が手に入れた原始天孫の研究記録に書かれたその内容は、磁生が話を聞いて思い浮かべていたものよりはるかに酷いものだった。飲まず食わずでどれだけ耐えられるか、それがどれだけ肉体に影響するのか、傷を負ってから治癒するまでどれだけの時間がかかるのか、どれほどの傷まで自然回復可能なのか、毒物や細菌への耐性はどれほどなのか。そんなものは序の口で、生きたまま解剖されたり、肉をえぐられる、術式による精神干渉、五感を奪われて何日も放置等、他にも色々と肉体的なものから精神的なものまでよくこんなことが思いつくなと思うようなことが記録には残されていた。沙依が特殊な能力を持っていたためたまたま死ななかっただけで、原始天孫にとっては死んでも構わなかったことがそこには記されていた。沙依が五体満足のままでいられたのは、単純に五体満足である方が後々色々と都合がよかっただけの事だった。そんな死ぬことも前提で行われた拷問が心的外傷にならないわけがない。そう思うのに、当の本人はどうやら違うと考えているような気がして、磁生にはそれが理解できなかった。
「わたしが捕まって拷問を受けることは想定内だったんだ。そのためにわたしは兄様から徹底的に訓練を受けた。痛覚を遮断する方法、感情を外に置く方法、意識を保ったまま精神を切りはなす方法、他にも色々。兄様の力で精神に干渉してのイメージトレーニングから実戦までやって、無意識でもできる様になってから、兄様に訓練と末姫だった頃の記憶を封じられて、第二部特殊部隊に突っ込まれて、記憶がなくてもそれがちゃんとできるのか確認された。そこまで徹底して準備してたわたしが拷問受けたからってどうにかなるわけがないんだよ。」
それを聞いて磁生は頭が痛くなった。想定内で訓練してたから大丈夫なんてそんな訳はないだろう。むしろその訓練がトラウマになるんじゃないのか。そんなことを思いながらも沙依の話が続いているので磁生は口を挟まずに聞いていた。
「兄様はわたしが拷問で無理やりされるのも想定内だった。だから、わたしが十五になって成人の儀が済んだ後にわたしに経験させとこうとしたんだ。初めては誰がいいか訊かれて、わたしはコーエーがいいって言った。当時のわたしはまだ色恋とかよくわからなくて、そういうことをしたいって気持ちも、意味もよく分からなくて、やっぱり怖くてさ。ただコーエーの事は信頼してたから、コーエーだったら怖くないかなって。それだけでコーエーがいいって言った。コーエーには兄様の力は通用しないから兄様が強制することもできなくて、それで結局コーエーはわたしを抱いてはくれなかった。」
そう言って沙依は困った様な顔で笑った。
「そういうことはちゃんと本当にそういうことをしたいって思える相手ができた時にしろってさ。兄貴の言ってることも解らなくはないけど、だからと言ってよく解ってないのにするもんじゃないって。コーエーが珍しく兄様に怒ってた。第二部特殊部隊なんてとこにいたら無理やりそういうことされる危険があるのも解るけど、絶対にそんなことさせないから、俺が絶対に守るから自分を大切にしろって言われた。兄様もわたしが望んでない相手とさせる気はなかったみたいだし、その後も別に誰かとそういう関係になることもなくて、で、結局わたしの初めてはああいう形で失うことになっちゃった。今じゃ兄様が正しかったのかコーエーが正しかったのか解らないや。ただ二人ともわたしのこと考えてそう言ったって事だけは解ってる。」
まだ続きそうな沙依の独白に磁生はさすがに口を挟んだ。本当は最後まで聞かなくてはいけないところだろうが、それができなかった。
「まさかそれもどうでもいいことなんて言わないよな。別に心的外傷になるような事じゃないなんて言わないよな。」
磁生の言葉に沙依は曖昧に笑った。
「いいか。あんたの育った環境はおかしい。どんな理由があろうと、あんたが受けてきたのは虐待だ。そんでもって拷問が平気な訳はないだろ。好きでもない男に無理やりされて平気な訳がないだろうが。あんたにとってもっと怖いことがあったのかもしれねぇけど、それとは別にそれも充分怖くて、充分に辛かったはずだ。比べればましなんてのはない。怖いもんは怖いし、辛いもんは辛い。ちゃんと認めろ。」
納得いかないような顔で黙り込む沙依に、磁生は一息ついてから、落ち着いた声で話し掛けた。
「あの爺はあんたの記憶には干渉してないぞ。それでもあんたは記憶を失った。それは、あんたにとって拷問が耐えられないものだったからだ。それに覚えてるか?あんた俺に押し倒されて泣いたろうが。気持ちのない奴とするのは嫌だって、平気じゃないって言ってただろうが。あれが本音だろ。」
大昔、無茶のし過ぎで気脈がボロボロになり徐々に衰弱し確実に死に向かっていた沙依の命を繋ぎとめるために、磁生は沙依に房中術を施そうとしたことがあった。その時、確かに沙依は泣いていた。泣いて、そう言っていた。それで磁生は施術を諦めた。
「あれは錯乱してたんだよ。わたし死にかけてて常に走馬燈見てるような状態だったし。磁生を拒否したのは、わたしが助かるより磁生が死ぬ可能性の方が高かったからで、そんなリスク背負ってまで助けてほしくなんてなかったから。」
そう言い訳をする沙依の額を磁生ははたいた。
「そんな状態だったからこその本音だろ。認めろよ。」
磁生は呆れたようにそう言った。なんで変なところで意固地になるのか意味が解らない。そう考えて磁生は自分の考えを否定した。いや、解る。その時のことを沙依はちゃんと覚えていないから、思い出すことができないから、だからそういう結論に至ってしまったのだ。
正直、磁生は昔のこと過ぎてその時のことを忘れていた。それを思い出したのは沙依が道徳を見てかっこいいと言っていた時だった。ただの憧れだと言いつつ沙依は完全に恋をしている目をしていた。そんな沙依を見て磁生は思い出した。昔も沙依がちゃんと道徳に恋をしていたことを。恋人同士になった二人は道徳が一方的に愛情と執着を沙依に向けている様に見えた。沙依は道徳に依存しており、そんな相手からそういう関係を求められたからそれに応えて全て受け入れているだけのように思えていた。そんな風に見えるくらい異常な恋人関係を二人が何千年も続けていたからすっかり忘れていた。忘れていたが、沙依は確かに道徳に恋していた。本当にただの普通の女みたいに恋していた。道徳の事が好きだからこそ、道徳にだけは知られたくないと言っていた。自分が軍人で沢山人殺しをしてきたことも、自分が彼にとっての父のような存在に酷いことを沢山されたことも、彼には何も知られず、彼の中ではただのかわいい妹分のままで命を終えたいと言っていた。生きていたくなんてないのだと言っていた。だから自分の命を救おうとしないでくれと懇願された。でも、今の沙依はそのことを忘れている。何故あの時自分がそんなに死にたかったのか、生きていたくなかったのか。どうして磁生に押し倒されて泣いたのか。全ては錯乱状態だったからだと本気で思っていて、そこにそんな想いがあったことを覚えていない。それが解るからこそ、でもそれを伝えるわけにはいかないからこそ、磁生は胸が押しつぶされそうな気持になった。
「あんたさ、それが平気だっていうなら好きな奴ができたら全部話せるか?自分が何をしてきて、何をされてきたのか、全部包み隠さず話すことができるか?」
磁生にそう問われて沙依は黙り込んだ。しばらく考えて沙依は、解らないと答えた。
「わたしは特別が解らない。わたしの好きはみんな同じで、そのみんなが大切。だからわたしが大切に想ってる人みんなに幸せになってもらいたいし、そこに優劣はない。大切な人達が幸せなら、そこにわたしがいなくてもいい。だから今のわたしの好きな人達に全てを知られて、それがその人にとって受け入れられないことで、その人がわたしを拒絶したとしても、悲しくは思うけど、それでもかまわない。」
そう言って沙依は困ったような顔で笑った。
「でも、磁生が言ってる事ってそう言う事じゃないよね。わたしが解らない特別な好きを感じる相手に知られても平気かってことだよね。ねぇ、それってどんな感情?どんな気持ち?恋愛感情ってどうやったら生まれるものなの?どうやったらそれを認識できるの?」
そう問われて磁生は困った。
「そんなもん意識的にするもんじゃないだろ。恋なんて気がついたら落ちてるもんだろ。ふと気がついたらさ、そいつの事ばっか考えてて、そいつに触れたいとか、抱き締めたいとか、もっとそいつを感じたいって、傍にいたいって、そんな事ばっか頭の中ぐるぐるして苦しくなってさ。嫌いだったはずの所作さえかわいく見えてさ。ちょっと笑い掛けられるだけで胸が高鳴ってどうしようもなくなって、自分自身が上手く制御できなくなって、どうしたらいいのか解んなくなって。気付いたらアホなちょっかい出しまくって、その時の反応見てさ、あいつも俺の事そんな悪く思ってないのかなって、気があるんじゃないかって期待して、そのくせ嫌われて離れていかれるのが怖くて。そんなん繰り返してたら、ふとした瞬間に告白すっ飛ばして、結婚してくれって言ってた。俺はそんな感じだった。」
今思うとよくあれで了承してもらえたと思う。いきなり結婚してくれで了承してくれるくらいには以前から好意を寄せてくれてたんだろうなと思うが、妻は恥ずかしがり屋でいったいいつから自分に好意を持っていたのか教えてくれなかった。最後まで直接的な言葉は伝えてもらったことはない。でも妻の行動の端々に自分への想いが滲んで見えて、妻も自分と同じ想いなんだと確信出来た。自分の一方通行ではないと、通じ合えているんだと思えて幸せだった。そんなことを思い出しながら、磁生は話した。沙依はそれを聞いてじっと何かを考えている様だった。
「違う。わたしは、違うよ。」
沙依のその小さな呟きに磁生は疑問符を浮かべた。気が付くと何かを考えていた様に見えた沙依の様子がおかしくなっていた。目が焦点を失い、全身が震え始め、頭を押さえてうずくまった。
「沙依?」
磁生が声を掛けるのとほぼ同時に沙依は絶叫した。そして頭を抱えて縮こまり、体を震わせていた。
「わたしは違う。母様じゃない。怖い。怖いよ。兄様助けて。兄様。わたしを一人にしないで。おいてかないで。怖いよ。どこにいるの?兄様。いつになったら迎えに来てくれるの?兄様。助けて。助けて。…。」
そう繰り返しながら沙依はぽろぽろ涙を流していた。
磁生が戸惑っていると突然成得が診療室に入ってきて沙依を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だよ、末姫。兄貴はいないけど、お兄ちゃんここにいるから。助けてやれなくてごめんな。でも、もう大丈夫だから。」
そう言って成得は沙依の背中を優しく撫でた。そうしていると徐々に沙依の様子は落ち着いてきた。
「次兄様?次兄様がお迎えに来てくれたの?」
呆然とした様子で沙依はそう訊いた。
「そうだよ。お兄ちゃんが迎えに来たよ。だからもう大丈夫だ。」
それを聞くと沙依は成得にしがみついて大泣きした。
「次兄様、怖かったよ。父様が、父様が変になっちゃって。わたしのことぎゅってして離してくれないの。いつもの父様じゃなくて、怖くて。お外に出ちゃダメだって。ここにいなきゃダメだって。ぎゅっとして離してくれないの。」
しゃくりあげながら話す沙依の背中を撫でながら、怖かったな、もう大丈夫だからなと、成得はずっと優しい声で話し掛けていた。しばらくそんなことを続けていると、沙依は急に怯えた表情をして成得を見上げた。
「次兄様ごめんなさい。ちゃんとできるから、大丈夫だから、末姫のこと嫌にならないで。わたしをおいてかないで。」
そう言って必死に涙をこらえて笑う姿が痛々しくて、成得は沙依を強く抱きしめた。
「ちゃんとなんかしなくていいよ。我慢しなくていい。お兄ちゃんそう言ったろ?お兄ちゃんが末姫のこと嫌いになるわけないじゃん。お兄ちゃん、末姫ちゃんのこと大好きだよ。どんなだって末姫ちゃんの事大好きだよ。お兄ちゃん末姫の事が本当に大好きだから、お兄ちゃんの前では頑張らなくていいよ。」
「わたしが悪い子だから。わがままで、言う事聞かなくて、いつも甘えてばっかで、困らせてばかりいたから。わたしのこと嫌いになって誰も来てくれなくなっちゃたんじゃないの?」
「そんな訳ないだろ。みんな末姫ちゃんのこと大好きだよ。俺たちはいつだってお前のことがかわいくて仕方がなかったんだからさ。甘えられたら嬉しかったよ。お前の我儘だったら許せるよ。お前の我儘なんてかわいいもんだった。お前は悪い子じゃない。本当にいい子だよ。いつだってお兄ちゃんの支えだったんだから。」
成得の言葉に耳を傾けながら沙依は目を閉じて、そしてそのまま眠ってしまった。そんな沙依を成得は寝台に横にして掛け物を掛けた。眠っている沙依をじっと見つめながら成得は何かを考えている様子だった。磁生には今の状況がいったいどういう事なのか全く理解できなかった。
「診察中に勝手に入ってきて悪かった。起きたらまた落ち着かない状態になるだろうから、沙衣に今の状況を話して薬盛ってくれ。それと、後で俺のところに来いって沙衣に伝えといてもらえるか?」
そう言うと成得は診療室を出て行った。磁生は全く状況についていくことができなかったが、とりあえず言われた通り沙衣を呼ぶことにした。
○ ○
「高英、沙依の頭ん中俺に見せろ。どうせお前、今でも沙依のストーカーしてんだろうが。沙依が発狂する少し前から全部俺に見せろ。」
そう言う成得を一瞥し高英は視線を逸らした。
「お前はいつから知ってた?どこまで知ってる?兄貴の事も、俺たちのことも、あの時何があったのか。沙依は今の身体に生まれてくる前にすでに壊れてたんだな。兄貴に壊されたんじゃなくて、ここに来たときにはもうどうしようもないくらい精神が病んでたんだな。」
そう言う成得はいつもの薄ら笑いを引っ込めていた。
成得は視線を逸らさず険しい視線を向けてじっと高英を見ていた。しばらくして、高英は諦めたように口を開いた。
「俺もずっと疑問だった。沙依がなんであんなに兄貴に執着するのか。まるで兄貴に能力で縛られてるみたいに、子供のころから、それこそここに連れてこられた時から沙依は兄貴に妄信的で従順だった。正直俺は本当に兄貴が能力で縛ってるんだと思い込んでた。あんな子供をそんな風に縛っていったい何がしたいんだと思ってた。沙依が来てから、兄貴がおかしくなったように思えて、不気味に見えてしょうがなかった。」
そう言うと高英は成得を見た。高英の考えていることが伝わってきて、成得は視線でそれに答えた。それを受け止めて高英は目を伏せた。
「俺を誰だと思ってる?そんなやわじゃない。やれ。」
それを聞いて、高英は少し考えて、決心をして成得に全てを見せた。沙依が感じたままの沙依の世界を。家族がバラバラになった後の末姫の顛末を。
「末姫。おいで。」
父の声がした。振り向くとそこに父が立っていた。母が亡くなってから臥せっていることが多い父。ごくたまに調子が良いと出てきて、そんな時はいつもお話を聞かせてくれる大好きな父。そんな父が今日はなんだかすごく不気味で怖く見えた。いつもと何かが違う。怖い。いつものようにすぐ駆け寄っていくことができなくて、その場に立ち尽くした。
「父様、今日は調子がよいのですか?もう少ししたら姉様が来てくださいますから、久しぶりに一緒にご飯を食べませんか?」
いつも通りを繕って声を掛けてみるが、父はそれには答えずにまた自分を呼んだ。おいで。そうやって自分を手招く姿がとても恐ろしく見えた。行きたくない、そう思うのに、行かなければならない、そう感じて、身体は勝手に父の方へ向かった。いつものように父の膝に乗せられて、いつもと違って身体は委縮した。怖い。姉様、早く来て。そう思った。背中に感じる父の気配が怖かった。
「末姫は母にそっくりだ。この髪も、顔立ちも、本当に母に似ている。年々、母に近づいてくる。」
そう言って髪を梳かれ、鳥肌が立った。
「父様、そろそろ食事の支度をしなくては。何もしていなくては姉様に怒られてしまいます。」
そう言って離れようとすると強く抱きしめられた。パタン、パタンと音がして、家中の襖が閉まっていった。
「一姫は来ない。もう誰もここには来ない。お前はずっとわたしの傍にいればいい。人ではないのだ、食事など摂らなくても死にはしない。ずっと、ここにいればいい。」
言いしれぬ恐怖が全身を支配した。予感ではない、不安なんて生易しいものじゃない、明確な恐怖に全身が包み込まれ、全く身動きが取れなくなった。何が起きているのか解らない。何が起きたのか解らない。でも、父がおかしくなったことだけは解った。怖い。怖い。姉様、早く来て。恐怖に縛られて声が出なかった。怖くて、怖くて、涙が溢れたが、だからと言って父の狂気がおさまることはなかった。怖いよ。助けて。父様が変。こんな父様知らない。怖い。自分を撫でる父の手が怖かった。近づけられた顔が怖かった。父は耳元で母の名を呼んだ。違う。わたしは母様じゃない。怖い。助けて。姉様。四兄様。どこにいるの。どうして来てくれないの。怖いよ。兄様。次兄様。誰か気が付いて。三兄様。誰でもいいから早く来て。怖いよ。父様やめて。わたしは母様じゃない。父様。お願い、元の父様に戻って。怖いよ。助けて。離して。ここから出して。
どんなに経っても姉が来ることはなかった。まだ一緒に暮らしてるはずの四番目の兄も帰ってくる気配がなくて、だんだんと父の言葉が実感を伴って自分の中にしみ込んできた。父はずっと自分を抱きしめたまま、狂気をまき散らしていた。呪縛のように動きを封じられ、呪詛のように母への愛を語られて、時々自分が母でないことを認識して自分への恨みと愛を語られた。いつもなら安心できるはずの父の温もりが、ひどく気味が悪く、ひどく恐ろしかった。
父が自分を憎く思っていたなんて知らなかった。自分が生まれてきたから母が亡くなったのだと思って辛かったなんて知らなかった。父が自分を愛おしく思う反面、自分を見るのが辛かったなんて知らなかった。父様がこうなってしまったのはわたしのせい?わたしのせいで父様はおかしくなってしまったの?そう思うとまた涙が溢れた。
どこに行かなくてもいい。どこにも行くな。ずっと一緒だ。もう離さない。誰にも渡さない。誰も近づけさせない。誰もここには来ない。ずっと二人だけだ。お前はわたしのものだ。父の呪詛が聞こえる。肌に感じる父の息遣いが、間近に感じる父の気配が恐ろしかった。ごめんなさい。ごめんなさい。もうやめて。助けて。離して。怖いよ。父様やめて。怖い。怖いよ。助けて。怖い。怖い。わたしは母様じゃない。母様じゃないよ。助けて。ここから出して。姉様、何で来てくれないの?四兄様はどこにいったの?怖いよ。誰か気付いて。怖いよ。助けて。お願い、帰って来て。助けて。怖いよ。
そんな時間がどれだけ過ぎたか解らない。心の中で助けを求め続けることにも疲れ果て、誰も助けに来てくれないことを実感して絶望した。毎日来てくれた姉様が来てくれない。一緒に住んでるはずの四兄様が帰ってこない。誰も来てくれない。誰も助けてくれない。わたしがわがままばかり言って困らせてばかりいたから?わたしが言う事ちゃんと聞かない悪い子だから?いつも泣いて甘えてばかりいたから?だからもう嫌になっちゃったの?わたしのこと嫌いになったから、皆いなくなっちゃたの?それとも父様みたいに、本当はみんなわたしのことが嫌いだったの?皆から母様を奪ったから、わたしのせいで母様がいなくなっちゃったから、だからみんなわたしのこと嫌いだったの?わたしはいらない子だったの?だから誰も迎えに来てくれないの?そんな気持ちが湧き上がってきて、また涙が溢れた。その間も父の狂気は増すばかりで、ずっと恐怖に包まれていた。
兄様。姉様。次兄様。三兄様。四兄様。もう戻って来てくれないの?わたし、もうわがまま言わないから、ちゃんと言う事聞くから、いい子にするから。もう甘えないから、一人でちゃんとするから。お願いだから、戻ってきて。怖いよ。ううん。怖くない。大丈夫。もう泣かないから。助けてなんて言わないから。いてくれるだけでいいから。戻ってきて。わたしのこと好きじゃなくていいから。嫌いでもいいから、許してくれなくていいから、一緒にいさせて。わたしのお兄ちゃん、お姉ちゃんでいて。みんなが帰って来てくれるならわたしなんだってするから。お願いだから帰って来て。
どれだけ願ったか解らない。どれだけ祈ったか解らない。どれだけの時間が経ったのかさえ分からない。それでも誰も来なかった。父と二人。父に抱きかかえられて、父の狂気に包まれて、きっとこのまま二人。これからもずっと。このままずっと。そう呆然と考えていた。もうそれに抗う気力も、術も持ってはいなかった。
ごめんなさい。生きてたのがわたしで。ごめんなさい。死んだのがわたしじゃなくて。ごめんなさい。みんなから母様を奪って。ごめんなさい。
今まで兄、姉に頼り切ってきたから、一人じゃ何にもできないんだ。最初からいらない子だったのに、ずっとこんなんだったから皆本当に嫌になっちゃったんだ。家を出て行った兄弟にとって自分は邪魔でしかないんだ。まだ家にいる四兄様にとっても邪魔者なんだ。わたしが悪いんだ。わたしが悪い子だからこうなったんだ。わたしが悪い子だから、父様もわたしなんていらなくて、わたしのことが分からなくなっちゃたんだ。わたしがいい子だったらきっとこんな風にはならなかった。
だんだん何も感じなくなってきて、そこにある狂気をただただ受け止めていた。
「父様は疲れちゃったからお休みさせてあげなきゃいけないよ。」
誰かの声がした。
「母様がいなくなってずっと悲しかったんだよ。父様は母様が大好きだったから。だから眠らせてあげよう。夢の中ならなんだってできるんだから。夢の中なら誰にだって会えるんだから。」
それは自分の声だった。自分の声に促されて唄っていた。自分の声が重なって聞える。これは幻聴?もう何も解らなかった。
気が付くと横たわる父の横に座っていた。隣には長兄が立っていた。
「おかえりなさい。兄様。」
そう言うと、長兄は何とも言えない顔をした。
「遅くなって悪かったな、末姫。」
長兄はそう言った。
「大丈夫。兄様が帰って来てくれて嬉しい。」
そう言うと何故か長兄は泣きそうな顔をした。
「兄様どうしたの?どこか痛いの?」
長兄は何も答えなかった。頭を撫でられて、何とも言えない気持ちになったけど、それが何なのか解らなかった。
「末姫。これから俺は悪い人をやっつけに行かなきゃいけないんだ。手伝ってくれるか?」
長兄の言葉にもちろんと答えた。
「悪い人はお父さんのことを狙ってるんだ。だから、末姫はここでお父さんのことを護っていてくれるか?」
そう言って長兄はやらなくてはいけないこと、守らなくてはいけないことをいくつか伝えた。
「大丈夫。わたしできるよ。だから…。」
そこまで言って言葉を飲み込んだ。わがままは言っちゃいけない。兄様がせっかく帰って来てくれたのに、帰って来てくれなくなっちゃう。
「末姫。俺のお願い聞いてくれるんだ、俺も末姫のお願いを聞いてあげるよ。何がいい?」
長兄は優しい声でそう言った。
「いくつでもいいぞ。俺もお前に何個もお願いしたんだからな。」
兄様がこんなこと言うなんてどうしたんだろう?兄様はいつも厳しくて、いつももっと怖いのに。なんで今日はこんなに優しいんだろう。これは夢なのかな?
「これはお願いの交換だ。だから何でも言っていいんだ。末姫がお願いを言ってくれないと、俺が困る。」
兄様が困るのは困る。どうしよう。兄様がわたしにお願いしたことは、いくつだっけ?父様の傍にいる事。父様が起きそうになったら夢に還す事。お外に出ない事。三つだ。
「兄様。悪い人やっつけたら帰って来てくれる?」
「もちろん。迎えにくるよ。」
お願いを一つ言ったら、他にも言いたいことがいっぱい溢れてきて。選べなくて、言葉が出てこなかった。
「兄様。ぎゅってして。」
そう呟くと、長兄は抱きしめてそして優しく頭を撫でてくれた。
「兄様。大好き。わたし、頑張るから。良い子でいるから。ちゃんとお留守番してるから。だから絶対に帰ってきて。わたしのお兄ちゃんでいて。」
「解った。絶対に迎えに来る。絶対、お前の事助けに来るから。」
おまじないをかけてあげよう。そう言って長兄は、手を包み込むとぎゅっと握った。
「末姫。俺の能力は解ってるな。俺はちゃんとお前の中にいるから。離れてても傍にいる。お前は独りじゃないからな。」
気が付くと長兄の姿は消えていた。やっぱり夢だったのだろうか。そんなことない。兄様は来てくれた。兄様はここにいる。自分の手を握って長兄に思いを馳せた。
大丈夫。わたしは頑張れる。ちゃんと約束守るよ。兄様がお迎えに来てくれるの待ってる。大丈夫。わたしは一人でもちゃんとできるよ。
父様がまた目を覚ました。怖いよ。大丈夫。ちゃんとできた。また父様が起きて来たらどうしよう。怖い。怖いよ。兄様。早くお迎えに来て。ダメだ。兄様も頑張ってるんだから。わがまま言っちゃダメだ。兄様も帰ってきてくれなくなっちゃう。大丈夫。怖くない。大丈夫。ちゃんとできる。兄様は来てくれる。大丈夫。離れてても傍にいるって兄様言ってた。大丈夫。ちゃんと約束守るよ。ちゃんといい子にしてるから。
成得は頭を押さえて眉間に皺を寄せていた。覚悟はしていたとはいえこれはきつい。
「そう言う事だったのか。ようやく全部つながった。殺せなかったってそう言う事かよ。あのくそ兄貴、肝心な事なにも言わないで、本当あほか。あれは兄貴がやったんじゃなくて親父がやったことだったのかよ。」
ずっと長兄が全て悪いと思っていた。長兄の独善に振り回されて、あんなことになったんだと思ってた。そして今があるんだと思っていた。あのくそ兄貴、本当に何もかも一人で背負いやがって。バカじゃないの。そう思って成得は胸が苦しくなった。
成得は次郎だった時のことを思い出した。あの時、まだ家庭を持っていなかった四郎と子供だった末姫を除く全員が家を出ていた。次郎は家を出ても、家庭を持っても、相変らず千里眼で兄弟達の様子を見ていた。だから父親の様子が少しづつおかしくなっていることには気が付いていた。だから、四郎はともかく末姫は誰かの家に引き取った方がいいんじゃないかと思っていた。ただ、毎日姉貴が実家に通ってるから姉貴に任せとけばいいだろうとも思っていた。あれはそんな矢先の出来事だった。
異変を察知して実家に駆け付けるとそこには家がなかった。いくら探しても自分の千里眼にも引っかからない。父と末姫が家ごとこの地上のどこからも消えていた。そんなことあるはずがない。そう思って、信じられなくて、暫く実家があったはずの場所に通いながら探し続け、何が起きたのか考え続けていた。そんなある日の事だった。いつも通りに実家のあったはずの場所へ行くとそこには四郎の死体があった。そして兄と姉が殺し合いをしていた。そこに現れた三郎を逃がして、自分は残った。父親がおかしくなり始めた頃から長兄の様子もおかしかった。昔から何か一人で抱え込んでる気はしていたが、それが濃くなっていた。それを放置して起きた兄の凶行。姉が殺され、そして自分も殺された。
あの時自分を殺しに来た兄から伝えられたことを鵜呑みにして、全部兄が悪いんだと成得は思い込んでいた。間違っちゃいないけどさ、全然話しが違うじゃないか。あんたが末姫と父親を封じたんじゃなくて、父親が末姫を抱え込んで引きこもった場所が解らなくならないように、父親の術式の上から更に封印を施して場所を固定して印をつけたんだろ。あんたでも父親が起きてる間は手が出せなくて、末姫が父親を眠らせた時にようやく少しの間だけ精神をねじ込んで末姫を支えたんだろ。それが限界だったんだろ。それから俺たちを女媧から守るためにバカなことして。アレを倒すために自分も何回も死にながら伏犠を探し続けて。同時進行で父親の術式からどうやって末姫を助け出せるのか考え続けてたんだろ。結局、父親が正気に戻ったことで末姫は勝手に出てきちまったけどさ。あんた、本当どんだけの事一人で抱えてやってたんだよ。そんなことを考えて成得は自分の浅はかさが嫌になった。
心配そうに自分を見る高英に対し、成得はいつもの薄ら笑いで問題ないと答えその場を後にした。
○ ○
「次兄様。」
そう呼ばれ、べそをかいた十歳前後の少女に成得は抱きつかれた。それと同時に奥にいた沙衣が口を開く。
「ようやく来たか。次兄様がいない、次兄様にも嫌われたんだって泣いてどうしようもなかったんだ。助かった。」
ほっとしたようにそう言ってから続けられた沙衣の言葉を聞いて成得は自分の耳を疑った。
「成得。沙依が子供返りをした。」
成得は沙衣が何を言っているのか理解できなくて、思わず怪訝な顔をする。
「子供返りって、身体的に子供になることじゃないよね?」
成得の疑問に沙衣はそうだなと答えた。
「正直、わたしにも何が起きたのか解らない。磁生に呼ばれて診察室に行ったら、既にこうなっていた。起きた本人の記憶も曖昧で、自分は末姫だと言い張るし、お前がいないと泣くしで、とりあえず落ち着かなくて大変だったんだ。どういうことなのかこちらが訊きたいくらいだ。」
とりあえず状況は理解できたが、何が起きたか理解できなくて成得は頭を悩ませた。説明しろという沙衣に目を向けて、自分にしがみつく子供の姿をした沙依に目を移す。太好きだった父がおかしくなり、そんな父から異常な執着を向けられた恐怖。自分を愛してくれていたと信じていた父や兄弟が自分を恨み憎んでいたと思ってしまった衝撃。絶対に自分の味方だと信頼しきっていた兄姉達から見捨てられたと思い込んでしまった絶望感。ようやく来てくれた兄がいつまでも戻ってこなかった孤独と不安。そうやって、そういうことが積み重なって壊れてしまったかわいい妹。成得は膝を落として沙依をそっと抱きしめた。
「ごめんね。お兄ちゃんちょっと用事があったから出かけてたんだ。怖かったね。お兄ちゃんも帰ってこないかと思って不安になっちゃったんだよね。ごめんね。大丈夫だから。お兄ちゃん、ちゃんと末姫ちゃんの傍にいるよ。末姫ちゃんを独りぼっちになんてさせないから。大丈夫だよ。」
そう声を掛けながら成得は沙依の背中を優しく撫でた。沙依が落ち着いてきたことを確認すると、本人に気付かれないように気をつけながら気絶させた。
「俺はすっと行徳のせいだと思ってた。沙依が子供のころから徹底的に訓練して、感情の殺し方覚え込ませて、痛みや苦しみに鈍感にさせたから、本人が自覚できないところで蓄積して壊れたんだと思ってた。自分をちゃんと確立する前に、自分の殺し方を覚えちまったからこうなったんだと思い込んでた。」
その成得の独白に沙衣は眉根を寄せた。
「これはお前の知ってる沙依じゃない。最初の兄弟の末っ子の末姫。俺のかわいい妹だよ。」
そう言って成得はいつもの薄ら笑いを浮かべた。あれが起きたあの時、末姫は十二歳だった。俺たちが甘やかしたせいだけど、他所の子と比べると本当に甘ったれで、何かあったら泣きつけば俺たちが何とかしてくれるって、本気で思ってたと思う。それくらい皆に愛情を注がれて、過保護なくらい大切にされて、本人も無邪気に兄姉達に愛を振りまいてた。俺たちからの愛を信じて疑ってなかった。そんな中であれが起きた。そんな末姫の顛末に思いを馳せて成得は苦しくなった。
「お前は昔の過ちを繰り返すつもりなのか?」
そう言って成得を一瞥すると、沙衣は続けた。
「深入りするとお前も軍人が続けられなくなるぞ。今の第二部特殊部隊は沙依がいなくても回っている。正直、沙依が戻らなかったところで問題ない。しかしお前は別だ。お前がもしダメになったらその穴は大きすぎる。お前が深入りして沙依と共倒れになるような気配があったらどうなるか解るだろう?」
そう言われて成得は黙り込んだ。
「わたしが生まれるはるか以前の話だからといって、わたしが知らないと思うなよ。お前が昔、精神が狂った奴に手を伸ばしては自分の手元においていたことは知ってる。深入りし過ぎて痛い目は沢山見てきただろう。どうにもならなかった奴も沢山いただろうし、正常に近い状態に戻ったとしても、お前の優しさを勘違いして超えてはいけない一線を越えてしまった奴を自分の手で始末したことも少なくないだろ。」
そう言うと沙衣はため息をついた。
「この状態だ。沙依はどうにもならない部類だと考えた方が賢明だ。いくらお前にとって沙依が特別だったとしても、いや、特別ならばそれこそ深入りしない方がいい。お前が来た瞬間は助かったと思ったが、今のお前の様子を見ているとお前と沙依は離した方がいいとわたしは思う。どうしてそう思うのかは、解ってるよな?」
厳しい表情でそう釘を刺され成得は目を伏せた。
「俺が深入りすることが沙依を危険にさらすことはよく解ってる。でも沙衣。俺はこんな沙依を一人にできない。もう見捨てられない。もう独りにはできない。例えその結果沙依が俺の部下に殺されることになってもだ。あんな孤独と不安と恐怖の中にこいつを置いておくわけにはいかない。もう置き去りにはできない。」
そう言って成得は自分の腕の中の沙依を強く抱きしめた。
「俺はずっと兄貴のせいだと思ってたんだ。全部、兄貴が悪いって。なんにも解ってなかった。何も知らないまま、兄貴に怒りの矛先を向け続けてた。末姫は兄貴に唆されて、親父を封じる役割を担わされていたんだと思ってた。末姫はただ純粋に兄貴の言いつけ守ってただけで、何もなかったって思ってた。俺の知ってる末姫のまま、何も知らずにただ兄貴に騙されて兄貴の独善に巻き込まれただけだって思ってた。だから純粋に兄貴の事を慕って想い続けてたんだと思ってた。末姫にとって兄貴だけが支えだったなんて知らなかった。末姫があんな恐怖と独り戦い続けてたなんて思ってなかった。俺は…。」
言葉を詰まらせる成得を、沙衣は静かに見ていた。
「成得。お前は自分が今どういう状態か理解しているのか?」
自分の問いに答えない成得を暫く見つめ、沙衣は視線を外し遠くを見た。
「そうだな。医療部隊の隊長の判断で、情報司令部隊隊長、児島成得には少しの間療養をしていてもらおうか。」
その言葉を聞いて成得が顔を上げると、厳しい目つきをした沙衣と目が合った。
「解っているだろうが、わたしはお前と違う。わたしはお前と違ってこの国も、軍もどうでもいい。沙依さえ無事なら他のものがどうなったってかまわない。もしもの時は沙依が殺される前にわたしがお前を殺す。」
それだけ言うと沙衣は目元を緩ませた。
「成得。お前がやるべきことは、わたしに知ってる事を全て教える事。そしていつも通り目的のために冷静に対処する事。お前が目指すべきところは、自分の仕事に支障がないところに沙依の状態を落ち着かせる事だ。解ったな。それができないのなら、わたしは沙依を連れてこの国を離れる。沙依がどんな状態だろうと、もう元に戻らなくても、このまま完全に壊れて廃人になってしまったとしても、わたしは沙依の傍にいる。それがわたしの生まれてきた意味なのだから。元々わたしは独りになるのが怖かった沙依が作り出した人形だから、わたしだけはどんなことがあっても、本人が望まなくても、沙依を守り続ける。きっと忠次さんも理解してくれる。理解してくれないなら、その時は沙依をとる。」
言っていることは自分が沙依の身代わり人形でしかないと言い張っていた頃と変わらないように思えたが、そう言う沙衣の様子はその頃とずいぶん違って見えた。
「沙依が生きていると知った時、わたしは沙依と会うことが怖かった。以前のように沙依しか見えなくなって、沙依の意思を無視して自分の意思を押し付けてしまうのではないかと思って、怖かった。忠次さんのこともどうでもよくなってしまうのではないかと思って、怖かった。結局どうあがいても、わたしが身代わり人形を作る術式を基盤に沙依の血肉で作られたモノであることは変わらないから、いくら魂をもって個として確立しているとはいえ元に戻ってしまうのではないかと思って怖かった。」
そう言うと沙衣は自分の胸に手を当てた。
「そんなわたしの不安も、恐怖も、忠次さんは受け止めて支えてくれた。それでもわたしを愛してるって言って傍にいてくれた。傍にいるって言ってくれた。それだけで自分の中にあった不安も恐怖も消えていった。愛されるということはこういう事なんだと、愛するということはこういう事なんだと、忠次さんといると実感できる。だから、わたしにとって沙依が一番だということは変わらないが、昔のように本人の意思を無視して一方的に自分の意思を押し付けるような真似はもうしない。」
そう言うと沙衣は成得を見た。
「忠次さんのおかげでわたしはちゃんと人になることができた。今ならお前の気持ちも解る。だから沙依の事はお前に任せる。援護は任せろ。」
そう言うと沙衣はまた厳しい顔をして成得を睨んだ。
「任せるが、解ってるな。お前がちゃんとできなかったらわたしはお前を殺す。お前を殺せなくても、お前から沙依を奪って連れて逃げる。絶対に沙依を殺させたりはしない。わたしはお前や高英とは違う。わたしの最優先事項は沙依だということは何があっても変わらない。これからもずっとだ。」
釘は刺されはしたが、ようは医療部隊の隊長権限で成得を現場不適応の状態の為療養の必要ありと診断所を出して強制的に休暇させるから、沙依の傍にいてやれということなのだ。そして、薬の処方など治療面は援護するから、休暇中に仕事と沙依のことを両立できる状態に持っていけと、それができないなら自分が沙依の事は引き受けるということなのだ。
「お前、本当に変わったな。今のお前は本当にすごい奴だよ。尊敬する。おかげでちょっと目が覚めたわ。自分の後悔に押しつぶされてとんでもない間違いをおかすところだった。」
そう言うと成得はいつもの薄ら笑いを浮かべた。
「もう大丈夫だ。俺はつられない。俺は沙依と共倒れにはならない。沙依は殺させないし、自分の部下に余計なものは背負わせない。ありがとな、沙衣。」
そう言って成得は沙衣の頭を撫でた。
「礼はいらない。全ては沙依のためだ。あとひとの頭を撫でるのはやめろ。わたしにそうやって触れていいのは忠次さんだけだ。他の男にこういうことをされるのはとても嫌な気分だ。」
そう言って眉間に皺を寄せる沙衣に成得は、悪い悪いと、全く悪びれた様子もなく謝った。それを見て沙衣はため息をついた。
「調子が戻ってきたようで何よりだ。」
呆れたようにそう言うと沙衣は補足した。
「いくらお前のところの部下がお前に寛容で、わたしや高英もいるといってもせいぜい三か月が限度だ。お前が上手くやることを願ってる。」
成得はそれに対しいつもの薄ら笑いで答えると、じゃあなと手をひらひらさせて沙依を連れてその場を後にした。
○ ○
成得は他人の気配で目が覚めた。目を開けると目の前に心地よさそうに寝息を立てている幼い妹の顔があって、ドキッとした。そう言えば一緒に寝てたんだった。あまりにも一人暮らしが長く、また自分の部屋に人を入れたことがなかったから、ここに自分以外の誰かがいるといことに慣れなかった。本当、心臓に悪い。そんなことを考えながら、成得は妹が掛け物から出ないように気をつけながら布団から出て上体を起こした。
「そんな幼い女の子相手に反応するなんて、やっぱりロリコンだったんですね。」
いつも通りの無表情でじっと自分のある部分に視線を向けて淡々と話す楓を確認して、成得は頭を押さえた。
「男は寝て起きるとこうなるもんなの。そうじゃない時もあるけど。知ってるでしょ。本当、寝てるとはいえ妹の前でそういうこと言うのやめて。お兄ちゃん耐えられない。」
そんな成得の嘆きを聞いて楓は視線を成得の顔に移した。
「そうでした。あなたはどうでもいい女はいくらでも抱けるのに、自分に本気で好意を寄せている女と本命には手が出せないヘタレでしたね。迫られたって無駄な精神力を行使して反応させないくらいですもんね。本当に大好きなかわいい末姫ちゃんにそんな気を起こせるわけがありませんでした。」
淡々と発せられた楓の言葉に成得はうなだれた。
「お願いだから本当に止めて。まじで、いろんな意味で耐えられないから。」
成得がそう本気で懇願しているのを確認して、楓は視線を逸らした。
「いくら国内の自宅とはいえ気を抜き過ぎではありませんか?わたしの侵入に気付いて起きるまでにどれだけ時間をかけてるんですか。おかげで初めてあなたの無防備な寝顔を眺めることができました。」
楓にそう言われて成得は薄く笑った。
「一応俺、療養中ってことになってるの。ちょっとぐらい気が抜けてても許してよ。色々あって本当に疲れてるし。楓ちゃんレベルの暗殺者がうちの警戒網抜けて殺しに来たなら、もう諦めて命あげてもいいからさ。あと、真っ暗な中でそこに突っ立っていつも通りの無表情と単調な声のトーンでしゃべられると凄く怖い。」
そう言う成得を楓はじっと見ていた。
「釘はもう沙衣に刺されてるし、心配しなくても大丈夫だよ。」
そう言って成得は、やっぱ俺らしくないかな?と楓に訊いた。楓は首を横に振って、今はとてもあなたらしいですよ、と答えた。
「元々あなたはそういう人でしょう。こうやってがっつりのめり込んでしまう方があなたらしい。」
そう言うと楓は成得に視線を戻した。
「あなたがいなくなったところで支障はありません。むしろ余計な仕事と気苦労が減って、わたしは助かります。いっそのことこのまま引退してしまえばいいんじゃないですか。」
いつも通りの調子でそう言う楓の目をじっと見つめて成得は本気?と訊いた。楓はしばらく成得を見つめ返し、本気な訳がないでしょと答えた。
「どんなに面倒くさくてもあなたを必要としてる人は多い。あなたの庇護下だからこそみんな安心して働ける。あなたと同じことはわたしにはできません。あなたと同じものを背負う覚悟もつもりもわたしにはない。結局わたしもあなたに頼り切っているんです。」
楓はそう言うと少し間をあけ、そのまま成得から視線を逸らさず続けた。
「でも、あなたの意思は少しぐらい継いであげてもいいと思っています。この国を、皆の居場所を守る、それだけは継いであげてもいい。そのために必要な覚悟なら持ってるんですよ。だからあなたは好きにすればいい。軍人辞めたかったら辞めたって構わない。駆け落ちでもなんでもすればいいんじゃないですか。誰もあなたを追いかけたりしませんよ。わたしがさせませんし。」
それを聞いて成得は、それって俺の後継ぐ覚悟はできてるって事じゃん、と心の中で呟いた。
戦後、この国を復興させたのは成得だった。戦乱が落ち着くと成得はまず千里眼で生存者の確認をした。そして、一番最初に高英を掘り起こし、かろうじて命がつながる程度に手当をして、自分の部下に帰ってくるように働きかけさせた。それに答えて、生存していたほとんどの部下が成得の元に戻ってきた。常日頃から自分の命を最優先にしろと口を酸っぱくして言ってきただけあって、情報司令部隊の生存率は高かった。部下さえ戻ってくれば後は楽だった。情報司令部隊を中心に、元の街並みを再現し、生存者の情報を集め、時には見守り、時には帰ってくるように促して、そうやって時間をかけて今の形に復興させた。
元々成得自身も含め、龍籠の国民の半数近くがコーリャン狩りから逃れて龍籠に居付いた者達だった。ここは最後の砦。殺されるために生まれてきた自分たちが唯一当たり前に生きていることが許される場所。コーリャンとして生まれてしまった子供たちの唯一の希望。そんな場所を成得は失くしたくなかった。自分たちの帰る場所を失いたくなかった。それが成得が軍人でいる理由であり、情報司令部隊を運営する目的だった。
「本題に入りましょうか。いくら薬を盛っているとはいえ彼女が起きてしまう可能性もありますから。」
眠っている沙依に視線を向けてそう言う楓に成得は同意した。簡潔に連絡手段の確認や情報共有を行う。
「あなたが始めたあのふざけた訓練はどうしますか?」
楓の問いに、成得は任せると答えた。
「俺の中では結論がもう出てるからさ、条件はそのままで後は好きにしていいよ。記録と報告書はしっかりしてね。あくまで訓練だから、お前らがどうやって情報収集して、どういう作戦練って、どういう結果を出して、どう結論付けたのか、それが重要だからさ。」
いつもの薄ら笑いを浮かべて成得はそう言った。そんな成得をじっと見つめ、楓は視線を落とした。
「了承しました。勝手にやらせてもらいます。」
そう言って一息つくと楓は成得の部屋を後にした。
楓がいなくなると成得は、心地よさそうに寝息を立てている幼い姿の沙依に視線を移した。そっと髪を撫でる。寝顔は本当に無邪気で、自分が知っている妹のままだった。起きたらまたパニックになるんだろうか。少しでも自分が離れたら…。
いったい沙依の身に何が起きてこの姿になったのかは解らない。沙依の精神状態がどんな状態なのか、全く想像がつかない。沙衣の言う通り、沙依はどうにもならない部類なのかもしれない。結局、助かるためには本人が自分と向き合って受け止めるしかないのだから、こうやって逃避している間は永遠に助からないだろう。助からなければいつまでもあの恐怖と絶望に包まれたまま。
成得は沙依から視線を逸らして長兄を想った。あんたはさ、俺が思ってたよりずっと弱い奴だったんだな。こんなこいつを見ていられなくて目を逸らしてたんだろ。高英に押し付けて逃げてたんだろ。自分をごまかす術を覚え込ませて、好きなようにさせて、こいつと向き合うことから逃げてたんだろ。兄貴の弱さには気が付いてた。でも、心の中であんたは凄い奴だって、俺なんかが心配する必要はないって、一人でどうにでもできるって、思ってた。でも本当はあんたは凄く弱い奴だったんだな。だから末姫は兄貴の傍にいなきゃいけないって、自分は兄貴の味方だって言ってたんだな。自分が兄貴の事守ってやるんだって、一人にさせちゃいけないんだって言ってたんだな。今更こんなこと理解できたところで何にもなんないけどさ、こないだ夢の中で殴ったことは謝るよ。
「さて、どうするかね。」
呟いて、成得は布団の中に戻った。今はとりあえずしっかり休もう。しっかり休まなければできることもできなくなる。成得は思考を停止して、深い眠りに落ちていった。




