第一章
「調子はどうだ?」
磁生の問いに沙依は悪くないよと答えた。二人は診療室で向かい合っていた。今日は沙依の診察日だった。沙依は心的外傷後ストレス症候群と不安障害を併発していた。
今日は磁生が一人で診察していたが、彼はまだ訓練生扱いなので指導員なしでの診察・治療は本来行えない。実際は医療部隊の隊長である正蔵沙衣の指導の下で沙依の治療を担当していたが、最初は同席していた彼女も様子を見て問題ないと判断したのか、今は報告時の指導のみで様子を見られている。本来こういう事案は訓練生には行わせないのが常だそうだが、沙依自身が磁生の練習台になると言い出してこういうことになっていた。
磁生は正直自分は精神疾患の治療に向いていないと思っていた。世間話をしながら本人が何をどう感じて何を思っているのか、本人の認識と実際にどのような齟齬があるのか、薬の効き方はどうなのか、状態はどうなのか判断しろと言われても、よくわからない。そもそも昔から沙依は何を考えているのかよくわからなかった。何も考えてないようで凄く考えてるし、考えてるようで何も考えてない。なんでも知ってるような気もするし、何も知らないし解ってないとも思う。直情型で猪突猛進かと思えば、ひどく冷静で慎重だったりもする。人の事ばかり考えているかと思えば、自分の我を通すし、案外平気で人を利用し貶める。脳天気で何も気にしない奴なのかと思っていたら、実際は精神を病んでいた。いや、こいつの過去を考えれば精神病んでてもおかしくないんだけどさ。ってか病んでない方がおかしいんだけどさ。そんなことを考えて磁生は頭が痛くなった。
「とりあえず手の震えも止まってるし、正体不明の不安感も落ち着てるかな。人と会ってもとりあえず平気。薬が効いてるみたいで、ナルに抱きつかれても大丈夫になったよ。今のところ生活に支障が出るような副作用もないし。」
それを聞いて磁生は経過記録をとっていく。
「あのさ、このナルに抱きつかれても大丈夫になったって何?ナルってあれだよな。あんたの兄ちゃんで情報司令部隊の隊長の児島成得。あんた、兄ちゃんにそんなしょっちゅう抱きつかれてるの?」
磁生にとって兄妹というとしょっちゅう些細な事で喧嘩ばかりしてる郭と淑英のイメージしかなかったので、兄が妹に抱きつくという状況が全く理解できなかった。何かがあって抱きしめることはあっても、兄妹間でしょっちゅう抱きつくってないんじゃないのか?どういう状況でそれが起こるのかすら、磁生には理解できなかった。
「あいさつ代わりみたいなものかな?昔はわたしを見つけるとなんか背中にのしかかって来てたんだけど、最近はとりあえず見つかると抱き上げられる。で、かわいい、大好きって言ってベタベタしてくる感じかな。我慢しなくていいとは言ったけど、ちょっとうざったい。」
それは本当に兄なのか?沙依の話を聞いて磁生は疑問に思った。当人たちがそれが兄妹のコミュニケーションの取り方だというのならそうなのかもしれないけど、それって普通なのか?沙依は本気で兄から妹へのスキンシップとしか思ってない様子だし、おかしいと思う俺がおかしいのか?いや、どう考えてもおかしいだろ。それ兄ちゃんじゃないだろ。そもそもあんたの兄ちゃん、前世での兄ちゃんであって今は他人だよな。下心があるんじゃないのか?そんなん兄ちゃんとして受け入れてて大丈夫なのか?そんなことを考えて頭を悩ませる磁生をしり目に沙依は真剣な表情で問いかけた。
「わたしってさ、そんなに簡単に抱き上げられるほど小さくも軽くもないよね?」
そんな沙依の姿を見て磁生は、こいつは何言ってんのと思った。本当にこいつの思考回路は理解できない。
「抱き上げるってあれだろ?こう小さい子供持ち上げて高い高いするやつだろ?確かにこの国じゃあんたは小柄だとは思うけど、簡単に抱き上げられるほど軽くないだろ。あんた持ち上げるくらい訳ないけど、軽々高い高いできる自信はないぞ。」
そう言う磁生に沙依はそうだよねと、なぜか胸をなでおろしていた。いったい何を気にしてるのか本当に解らない。
ターチェという種族が大柄なのか、この国の平均身長が高いだけかは解らないが、龍籠の国民は背が高い。男性なら180くらい、女性なら165くらいが平均身長じゃないかと思う。磁生は崑崙にいた頃は沙依をそこまで小さいと思ったことはなかったが、ここではすごく小柄に見える。自分自身のことも別に背が低いと思ったことはなかったが、ここではひどく小さく思えた。
「ここにいると感覚狂うよな。すげー自分がチビになった気がする。」
しみじみとそう言う磁生に沙依は深く共感した。
「おまけにわたし子供扱いだよ?軽々高い高いされるとかさ、自分が本当に子供になった感覚になるんだよ。」
そう嘆く姿を見て磁生は、ある意味頭ん中ガキみたいなくせに子供扱いは嫌なんだと考えて不思議な気分になった。そういうの気にしないのかと思ってた。そんなことを考えていると、沙依が話題を変えた。
「磁生はすっかり医療部隊の人みたいになってるけどさ、訓練期間明けたらこのまま従軍するの?」
沙依の問いかけに、磁生は考えてないと答えた。ただ、それも悪くないかと思ってる旨を伝えると、沙依は少し考えて口を開いた。
「医療部隊に暗殺部隊の側面があることを知ってて言ってる?」
その言葉の意味を脳がが受け入れるのを拒否して、磁生は怪訝な顔をした。それを見て沙依はやっぱりかと、ため息をついた。
「実際には医療部隊に入ったからと言って必ずしも暗殺部隊に入る訳じゃないんだけどさ。」
そう前置きをして沙依は話し始めた。
「うちには公には存在してない第三部特殊部隊っていうのがあるんだよ。それが諜報暗殺部隊で、そこに所属してる隊員が誰かは極秘なんだ。でも二名だけは誰もが確実にそこに所属してるって知ってる。医療部隊の隊長は暗殺班の、情報司令部隊の隊長は諜報班の班長を務めることが強制的に義務付けられてるから。後はどういう編成でどんなシステムで成り立ってるのかも不明だけど、一般的な認識として、医療部隊と情報司令部隊の隊員は第三部特殊部隊に所属していると思っていて過言じゃないと思われてる。」
そう言って沙依は困った様な顔をした。
「磁生は優秀だからさ、医療部隊として従軍すれば必然的に第三部特殊部隊に所属することになると思うんだ。でも磁生はもう人殺しはしたくないでしょ?人に指示されてなんて特にさ。」
沙依の話を聞いて磁生は自分の過去を思い出して胸が苦しくなった。沙依は磁生がかつて強制されて人殺しを生業にしていたことを、それが耐えられなくて心が病んでいたことを知っていてそんな風に話していた。
「沙衣はわたしの為に軍人を辞めてくれなかった。軍人の治療は基本軍医の仕事だからわたしの主治医であるためってこともあるけど、それだけじゃなくてさ、第三部特殊部隊の中心にいることで、勝手な事ばっかやってしょちゅう監査対象になってたわたしが、本当にダメな線を超えない限り暗殺対象にならないように止めてくれてたんだよ。今もそれは同じだと思う。昔より今の方がわたしは危険人物だ。正直、軍としてはわたしは消しといたほうが安心できる存在だよ。殺されないのはナルや沙衣、コーエーが守ってくれてるからだって解ってる。でもさ、わたしが一線を越えたら誰も止めないよ。国を守ることが軍人の仕事だから。どんなに大切な家族だって、友達だって、恋人だったとしても、一線を越えて敵になるのならその時は国をとるんだ。軍人ってさ、そういうものだよ。」
その覚悟がなければ軍人なんてやるもんじゃない。やらない方がいい。実際はそんな覚悟がある者なんてほんの一握りだということを知っているが、沙依はそう思っていた。第三部特殊部隊はその選択を常に迫られる部隊だから。そんなことを考えて沙依は成得に思いを馳せた。非情だ、冷血だ、仲間を平気で殺す鬼だ、あいつは信用してはいけない、あいつに近づいちゃいけない。そんな言葉を浴びせられ、軽蔑や侮蔑の視線を一手に浴びて、恨まれ、恐れられ、拒絶されて、それでもいつも何事もないように人を小馬鹿にしたようにへらへら笑っている成得。暗殺班の班長である沙衣より成得の方が批判を浴びるのは、そのように彼が仕向けていたからだと沙依は思っていた。次兄様は器用だからなんでもこともないようにこなしてしまうけど、うまく人も使うけど、昔から本当に大変なところは全部自分が背負って、誰かが傷付かなくて済む様に手回しをする。かっこつけて自分に批判が集まる様にさせときながら、それが辛くなって妹に甘えてくる変な人。でも、それだけのことを成す覚悟とそれを貫き通せる強さがある人だと、沙依は成得のことを評価していた。自分がいなかった時だってナルはそうしてきた。自分がいなくてもきっとナルは大丈夫。でもナルと違って磁生は優しすぎる。非情になり切ることができない。覚悟をしたつもりになったとしても、きっとそんなものを背負いきれず潰れてしまう。そう思うからこそ沙依は、磁生は軍人には向いていないと思っていた。
「沙衣って案外抜けてるよな。医療用語辞典の件といい、そのことといい、肝心な事を教わってない気がしてならないんだけど。」
磁生はそうぼやきながら、自分を龍籠に誘って医者になるための指導をしてくれている医療部隊の隊長を思い浮かべた。沙衣から医療部隊にそんな側面があることをきいたことはなかった。その挙句、彼女は自分がこのままここで医者をやるつもりだと決めつけている節もある。ただの医者であるつもりでいて、ある日突然人殺しをして来いなんて言われたらたまったものじゃない。それは本当にきつい。ここの連中が嫌いじゃないだけに、それは本当にきつい。
「沙衣は昔から思い込みが激しいから、ここでの当たり前は磁生も当たり前に知ってると思ってるんじゃない。沙衣の旦那さんも外の人のはずだけど沙衣以外の人から教えてもらったのかな?もうすっかりここの人みたいに馴染んでるけどさ。」
そう言って疑問符を浮かべる沙依に、磁生は同意した。
「確かにあいつはもうすっかりここの国民だよな。」
そう言って、磁生はそのまま話を逸らしていった。
「どうでもいいけど、あの夫婦、人前でいちゃつくのやめてほしいんだけど。多分いちゃついてる自覚はないんだろうけどさ、奥さん亡くして独り身の俺には凄い目の毒なのよ。」
実際は別に正蔵夫婦が人前であからさまにいちゃついているわけではないのだが、お互いを気遣い合って幸せそうに笑い合う姿からなんとも甘ったるい雰囲気が醸し出されていて、磁生はいつもいたたまれない思いに苛まされていた。
「羨ましいなら彼女でも作れば?磁生と出会った頃は磁生の中にシュンちゃんがはっきりと生きてたけど、今はもう思い出になったでしょ。昔みたいに何でもかんでもシュンちゃんを重ねてみることはなくなったんじゃない?シュンちゃんのことを一番に考えることはなくなったんじゃないの?シュンちゃんの事忘れることはできないだろうけどさ、次に行きたかったら行けるくらいもう大丈夫になったでしょ。」
そう断言されて磁生は苦笑した。磁生の妻だった春李はかつてここの第一主要部隊の隊長を務めていた人物で、沙依の友人でもあった。磁生と沙依が出会ったのは春李が死んだあとで、二人の友人関係は彼女を挟んで出来上がったものだと言っても過言ではなかった。
「あんたは本当、抜けてるように見えてそういうとこは勘がいいよな。」
しみじみと磁生はそう言った。沙依に言われたことは図星だった。ちょっと前まで、常に亡くなった妻のことを考えていた。誰といる時でも、何をする時でも、ずっと妻のことを考えていた。ここにあいつがいたら、こんな時あいつだったら、あいつにもこんなことさせてやりたかった、これがあいつだったらよかったのに、そんなことばかり考えていつも苦しくなった。それが普通だったのに、今はそんな風に思い出さなくなった。妻だった人の生まれ変わりに出会い、その人物が妻の記憶を持っていてもそれはもう自分が愛した人とは別人なのだと認識した時に妻への未練が吹っ切れたと思う。妻の記憶を持つ彼女には幸せになってほしいと思っている。でも彼女を幸せにするのは自分じゃない。彼女の隣にいるのは自分ではない。どうしても彼女に妻の面影を見て切なくなる自分がいたが、だからこそ絶対に彼女には手を出さないと決めていた。例え彼女が自分に想いを寄せてくれることがあったとしても、一緒になればお互いを傷つけるだけだと思っていた。だからさっさと別の誰かと一緒になってくれればいいと思う自分は、吹っ切れたと言いつつやっぱり未練がましいのだろうか。そう思うと磁生は情けなくなった。
「わたしは勘がいいんじゃなくて、解るだけだよ。兄様のような力は持ってないけどなんか解るんだ。」
そんな沙依の言葉に磁生は、やっぱりそれは勘が働くって事だろと心の中で突っ込んだ。
「わたしは父様から譲り受けた能力とは別に、父様に教わった地上の神の御業を持ってる。だから最初の兄弟の中でもわたしは特別なんだ。多分、一番わたしが父様(神)に近い。それがなんか関係あるのかな?」
そう言って沙依は困った様な顔で笑った。
「器が変わってもわたしが最初に生まれた時と同じ見た目をしているのも、どんなに深い傷を負っても跡形もなく治るのも、わたしが人より神に近いからだよ。」
沙依の言っている意味が磁生には理解できなかった。沙依達ターチェは地上の神と人間の間に生まれた子供の子孫。その肉体は代を重ねるごとにより人間に近くなっている。今のターチェが人間と添って子を成しても、その子は不老長寿にはなれない。ターチェが持って生まれる能力の発現も見られないことの方が多い。沙依の肉体は比較的新しい世代のものなのに人より神に近いとはどういうことなのだろうか。
「存在するのに器を必要としない父様(神)が人の形をとっていたのは、単純に母様(人間)と添うためだけだった。わたし達は完全に神じゃないからこの世に存在するためには器が必要だけど、人間ほど器を必要ともしてない。器なんてただ魂を留めておくための入れ物でしかない。それにだいぶ人間の血が混じってしまったこの器だって、完全には人間ではない。人間と同じ構造はしていても、わたし達の身体の作りは成り立ちから人間とは違う。人間とは違う概念でわたし達は生きている。」
磁生には沙依の言っている意味はよく理解できなかったが、なんとなく言いたいことはわかった。結局どんなに似ていても、元が人間だった自分達仙人と沙依達ターチェは根本から違う生き物だという事なんだろう。
「だから、わたし達にとっては器より魂の方が重要なんだ。本来、最初の兄弟の魂を持ってる人は、わたしと同じことができるはずなんだ。それをできるだけの魂の素質と強度があるはずなんだ。ただ父様からその方法を教わったか教わらなかったか、それだけの違い。わたしを唆して父様の技法を訊き出させたのは次兄様だから、多分、次兄様もできるんだと思う。ただ、ナルは息を吸うのと同じように嘘つくし隠し事もするから、そんな切り札になるようなこと人に見せないと思うけどね。」
地上の神と人間の間に生まれた最初の兄弟。ターチェの起源ともなる彼らは、末妹以外全員が長兄の策略で殺され記憶を奪われた。その長兄が亡くなったことにより、姉弟達は長兄の能力から解放され記憶を取り戻すこととなった。長女の一姫だった美咲。次男の次郎だった成得。三男の三郎だった小太郎。四男の四郎だった一馬。末っ子の末姫だった沙依。現在生きている最初の兄弟達は全員が龍籠にいた。沙依以外の兄弟は記憶が戻った際は困惑し、戸惑い、そしてほとんど者は前世の自分は別人ととらえ、今の身体で生きてきた人生が自分だと決めて落ち着いた。そんな中唯一、次男だった成得だけは今の人生を次郎の延長線上ととらえ、沙依に兄妹として接することを求めていた。
「あんた兄ちゃんの事そんな風にとらえててさ、よくもまぁ兄妹扱いできるよな。あんたと兄妹したいってのも嘘かもしれないじゃねぇか。」
そんな磁生の言葉に沙依は笑った。
「ナルは次兄様だよ。ナルは次兄様のままだってそう思う。末姫だった頃と同じようにわたしの事を想ってくれてるって確信できる。」
そう言って沙依は遠くを見た。
「みんなの記憶が戻った時さ、わたしもすごく困惑したんだよ。わたしはずっとわたしだったけど、他の皆は違うから。皆をどういう風に扱っていいのか、みんなにどう接すればいいのか解らなくなってさ、本当に悩んだ。あの時皆が戻ってきて嬉しかった。でもみんなは姉様や兄様達じゃなくって、なら兄弟扱いしちゃダメだって思ったら悲しかった。凄く辛かったんだよ。でもナルは、わたしのお兄ちゃんのままでいてくれた。それが凄く嬉しかった。」
そう言って沙依は自分の胸を押さえてはにかんだ。
「だからさ、嘘でもいいの。ナルと次兄様が同じに思えるなんてわたしの勘違いで、本当は何か別の目的があってナルがわたしを騙してるだけだったとしても、それでもわたしは構わない。嘘でも本当でも、そんなことはどうでもいいんだ。」
そんな沙依の様子を見て磁生は心の中でため息をついた。そうだよな、あんたはそういう奴だよな。あんたが後悔したことがないって言い切るのは、いつだって後悔しないようによく考えて腹決めてるからだよな。自分が選んだ結果がどこにつながってようと全て受け入れる覚悟だけはいつだってあんたにはあるんだよな。
「あとはなんか変わったこととか、気になることはあるか?」
世間話が長引いてしまったが診察に戻って磁生がそう訊くと、沙依は少し考えるそぶりをして、ないと答えた。
「ただ暇なんだよね。家事炊事も全部コーエーがやってくれるしやることないんだよ。」
「いや、そこはやれよ。あいつはめちゃくちゃ働いてるだろ。」
磁生は反射的に突っ込んでいた。コーエーとは沙依が実家で同居している叔父で、龍籠の司令塔統括管理官をしてる青木高英のことだった。多忙な司令塔統括管理官に家事炊事までやらせるとかどんだけだよ、と磁生はあきれ果てた。
「やらせてもらえないんだよ。色々やらかして信用がないんだ。危ないから何もするなって言われた。」
不貞腐れた様にそう言う沙依を見て、そんなこと言われるって何やらかしたんだよ、と磁生は思った。
「あんた家事炊事できたよな?昔、同居してた時こなしてたし。」
磁生と沙依は少しの間同居していたことがあった。当時の沙依は生きているのが奇跡という状態で延命処置しかできず、徐々に弱っていっていた。寝てろというのに少しでも調子がいいと家事炊事をこなして力尽きてそこらへんに倒れていることもしばしばで、困ったことを磁生は覚えている。その後奇跡的に一命をとりとめて回復し、誰かさんと同棲してた時もちゃんとこなしてたはずだ。あいつが全部やってたのでなければ。そんなことを思って訝しむ磁生に沙依は気まずそうに答えた。
「昔ここで暮らしてた頃は全くできなかったんだよ。色々やらかしたのも大昔の話だし、今はちゃんと出来るよ。でも信じてもらえないんだよ。ちゃんと一人暮らししてたって解ってるのにさ、それでもダメなんだって。」
それを聞いて磁生は、どうしたらそんな扱いされるようになるんだよ、と突っ込んだ。
「あんたさ、人の記憶や思考が読み取れる人物がそれを見てもやらせないって、どんなトラウマ植えつけるようなことをやらかしたんだよ。」
そう言われて沙依は頭を抱えた。
「今、考えるとさ、何をどうすればあんなことが起こるのか自分でもわからないような事やらかしたんだよ。絶対にもうあんなこと起こさない自信あるよ。本当にどうやったらああなるか解らないし。でも信じてもらえないってさ、わたしどうしたらいいの?」
何が起きたのかすごく気になる。具体的に何が起こったのか知りたいところだったが、嘆く沙依の様子を見ていると深く掘り下げるのは憚られたので、磁生は何も訊かないことにした。多分、これ以上は訊いても答えない。
「もう実家出て一人暮らしすれば?」
投げやりにそう言う磁生に沙依は、考えてみると答えた。
「今度、磁生が非番のとき付き合ってよ。どうせ非番の日も勉強ばっかしてるんでしょ。たまには息抜きしようよ。龍籠の中案内してあげる。」
そう言って笑う沙依に半ば強制的に約束を取り付けられて、磁生は心の中でため息をついた。沙依に他意がないことは解っているが、二人で休日を過ごすことに後ろめたさを感じるのは、彼女が忘れている彼女の恋人のことを自分が覚えていて、そいつが酷く嫉妬深く独占欲が強い男だったことを知っているからだろうか。それとも自分の患者と私的に交流することに対してだろうか。患者である以前に、元々友人であることはとても面倒くさい。医者としての線引きは何処に置くべきなのか、特にこういう治療の場合は距離感が難しいと思うのに、いきなりこんなケースを担当するなんて、難易度が高すぎるんじゃないのか?そんなことを考えると磁生は自分の方が鬱になりそうだった。
○ ○
成得は色々と考えを巡らせながら第二部特殊部隊の訓練を眺めていた。
道徳が訓練生として入隊して四ヶ月、彼はすっかり第二部特殊部隊に溶け込んでいた。真面目に訓練に励む姿を眺めながら、成得はどうやって彼に不貞を働かせるかを考えていた。沙依と恋人だったことを含め親しい間柄だったことをすっかり忘れているくせに、彼には全く女っ気がなかった。というか女に興味がなさそうですらあった。不自然にならない程度に何人かが接触しているがまるで眼中にない。より強くなることを求めて非番の日まで訓練所に入り浸っている姿を見るとどんだけだよ、と思う。沙依も昔は非番の日には訓練所に入り浸ってたが、まだあいつは訓練と称して隆生と遊んでただけだからな。あんなストイックに身体鍛えてるのとは違う。本当に身体鍛えること以外興味ないんじゃないのっていうぐらい他のことに興味を示さない道徳の姿は、成得には異常に見えた。
沙依の見た目がタイプなのかと思って、試しに人手不足を口実に軍人じゃない美咲に第二部特殊部隊への通信役をやらせて頻繁に接点を作って様子をみたが反応はいまいちだった。美咲は沙衣を元に人工的に作られたターチェの為、その容姿は沙衣によく似ている。更に、沙衣は沙依の双子の妹のようなものだから、美咲と沙依もよく似た見た目をしている。沙依の見た目に惹かれたなら反応するかと思ったが、標的より他の隊員達の方が反応して一馬に〆られている状況を見て、成得はなんとも呆れた様な気持ちになった。いや、でもあいつらの反応の方が普通だよな。あそこまであからさまじゃなくてもさ、あの男くさい男所帯で女っ気なくずっと過ごしてたら、普通どんな女にでも少しぐらい反応しない?まして好みの女がいたらあわよくばって思うもんじゃないの?うちの連中にも美咲にもろくな反応しないって、あの無反応さなんなの。おかしいでしょ。そんなことを考えて成得は途方に暮れた。
ふと目の端に沙依の姿を捉えて成得は捕まえに行った。抱き上げると、何とも嫌そうな顔をして見下ろしてくる姿がかわいい。我慢しなくていいと言った手前やめろとも言えず、でも嫌なものは嫌という思考が態度にありありと出ていて、成得は頬が緩んだ。
「沙依はどんな顔してもかわいいな。」
考えていたことをそのまま成得は口に出し、沙依を下ろして抱き締める。本当かわいい。なんでこんなにかわいいんだろ。まじでかわいい。このまま連れて帰りたい。そんなことを思いながら、成得はたっぷり沙依の存在を堪能していた。軽蔑したような白けた視線を横から感じるが気にしない。そのままドン引きしてフレームアウトしてくれればいい。そう思うが、どっかに行ってくれないので、しかたがなく成得は沙依と一緒にいた人物を認識した。背後から沙依を抱きしめる形に変えて声を掛ける。
「うちの妹と付き合うなら、もれなくこんなお兄ちゃんが付いてくるよ。」
いつもの薄ら笑いを浮かべて成得はそう言った。実際交際する気なら、ついてくるっていうか、二人の仲を邪魔するっていうか、嫌がらせするよ。ってか、誰の許可とって勝手に人の妹とデートしてるのさ。そういう意図がないにしろ、いつそういう関係に変化するか解らないんだから男と二人きりで出かけるなんてお兄ちゃん許可しません。そんなことを考えながら、成得はわざといつも以上に沙依にくっついていた。こんだけすれば普通なら、厄介だと思って少しくらい気があったって付き合うには至らないだろ。こんな牽制が効くのは外の奴だけだろうけど。そんなことを考えて、成得は自分がまだ記憶を取り戻す前のことを思い出した。昔は沙依捕まえてはよく隆生に怒られたな。沙依が第二次性徴期に入った頃に胸とか尻とかもんで、いい加減にしろ、ガキ相手になにしてんだって殴られた記憶もある。今思うと本当に俺なにしてんだろ。妹だったって認識はあったけどさ、あの頃はそれだけで記憶は全くなかったんだよ。自分の中のもやもやも消化できてなかったし。だからと言って、発育途中の女の子の胸や尻触って、もう少し大きくなったらお兄さんといいことしようかとか言うとか、俺ただの変態じゃん。過去に戻れるなら、自分の事全力で止めたい。よくあの頃の俺、高英に殺されなかったな。高英に消される前に隆生に〆られたからか?なら、隆生に殴られて説教食らってよかったな、まじで。自己嫌悪に陥って成得は沙依の首筋に顔を埋めた。あんなことやらかしても、今こうやって拒否らないでいてくれるからいいや。かわいい妹に本気で拒否られたらお兄ちゃん生きていけない。
冷ややかな視線を受けて成得は、なんか言いたいことでもあんの?と磁生に訊いた。何か言いたげな顔をして、言いかけて、結局なにも言わず磁生はため息をついた。そしてどうでもいいことに話題を振った。
「それにしても、俺と同じくらいの体格なのによくそいつのことそんな軽々上げられるな。沙依が腰から下げてるもの含めたら、60キロ近くあるだろ。」
本当に不思議そうにそういう磁生に、間髪入れず沙依が反論した。
「さすがにそこまで体重重くないよ。せいぜいこれ含めても50半ばぎりいかないくらいだって。」
むきになって反論する姿に、磁生は意外そうな顔をして返した。
「あんた、筋肉も贅肉もだいぶついてるから50後半くらい体重あるのかと思ってた。体重気にするとか、案外女みたいなとこあるんだな。」
容赦ない磁生の言葉に沙依は嘆いた。
「女みたいじゃなくて女だよ。正真正銘、性別女性です。わたしのことなんだと思ってたのさ。」
そう言い返す沙依に磁生は追い打ちをかける。
「あんたを女扱いしたら終わりだと思ってるから。自分が女って自覚があるならもうちょっと女らしくしろよ。まず恥じらいってもんが欠如してる時点でないだろ。色気もかわいげもこれっぽっちもないあんたを女だと認識したら、俺自分がどうかしたのかと思うわ。」
そんな二人のやり取りをみながら、人の妹捕まえて女じゃないとかひどいこと言うなこいつ、なんて思いつつ、二人の間に仲のいい兄妹のような雰囲気があって成得はもやもやした。また気分が落ち込んだので、腕に力を入れて沙依を強く抱きしめる。
「沙依は色気とか身につけなくていいから。女らしくなんてしなくていいから。一生お嫁に行かないで。」
そんな成得の呟きに磁生が反応した。
「あんたの兄ちゃん、まじで気持ち悪いな。こんなんが兄ちゃんでほんとにいいのか?」
本当に気持ち悪い物を見るような目を成得に向けながらそういう磁生に、沙依は苦笑で返した。そんな沙依に磁生は呆れた様な視線を向け、あんた本当に異常者にモテるよな、と言った。自分のその言葉に沙依が疑問符を浮かべるのをを見て、磁生はため息をついた。視線を逸らした先に、訓練中の第二部特殊部隊が見えて、磁生はそれに話を向けた。一対多の二手に分かれて、一人が勝ち抜き戦の要領で戦い続けている。いったいそれにどんな意味があるのか解らなくて訊いてみた。
「あれは第二部特殊部隊の伝統行事みたいなものだよ。普通は隊全体でやるんだけど、今日は訓練中の一部だけみたいね。珍しい。」
そう言って沙依は懐かしそうに目を細めた。
「わたしが入隊した頃はうちの序列は戦闘能力の高さで決まってたから、隊内の秩序を守るために定期的にあれやって何人抜きできたかで序列決めてたんだよ。結局あいつら、序列同位同士で自分の方が強いのなんのって殺し合いに近い私闘すぐ始めるんだけどさ。まぁ、わたしはそんなもの守ってなかったから目をつけられまくってしょっちゅう半殺しになってたんだけどね。わたしが隊長職に就いたときに力での序列はなくしたんだけど、伝統行事みたいな感じであれは残したんだ。わたし自身あれやるの好きだったのもあるけど、うちの訓練としても役に立つし、隊を纏めるのにも都合もよかったしね。」
楽しそうに話す沙依の言葉の中になんだか物騒な言葉が混ざっていたが、磁生はそこは聞かなかったことにした。
「よく見たら今やってるあの人、清虚道徳真君だ。うちに訓練生入れたってのは知ってたけど、訓練生って彼だったんだ。第二部特殊部隊に訓練生が入りたいなんて奇特な人もいるもんだと思てたら外の人だったのか。彼も龍籠に来てたなんて知らなかった。なんであの人がうちの訓練生なんてやってるの?」
沙依の疑問に成得がさらっと答えた。
「前にお前連れ戻そうと一馬と孝介が崑崙行ったろ。その時にあいつ運悪く孝介に遭遇してコテンパンにやられてさ。手も足も出なかったのがショックだったみたいで、訓練受けたいって頼み込んできたから受け入れたんだよ。」
それを聞いて沙依はそうなんだと呟いてから首を傾げた。
「今見てても孝介に一方的にやられるほど弱くないと思うんだけどな。孝介、うちの部隊に似合わず相手嵌めて陥れるの大好きだから、何かやられたんだろうな。そんなに精神的に脆い人ってイメージなかったけど、孝介に嵌められるってことは案外弱いんだね。」
そんなことを言いながら沙依は道徳が隊員たちを倒していくのを眺めていた。一人一人の動きを見て、あいつは相変わらずあそこが弱いだの、今のはうまかっただの、言いながら沙依は楽しそうに観戦していた。
「うちの連中相手にあんだけ戦えるなんて、やっぱりあの人強いんだね。かっこいい。噂はかねがねだったし、かなり強いだろうとは思ってたけどここまでとは思ってなかった。わたしもあの人と手合わせしてみたいな。本当、かっこいい。」
しみじみとそう言う沙依に、磁生は驚いたような顔をして訊いた。
「あんたああいう奴が好みなの?」
その問いに沙依は曖昧に笑った。
「好みっていうか憧れかな。わたしが崑崙で過ごした幼少期の修業時代、彼も同じ場所で修行を積んでた兄弟子だったんだ。そんなに接点はなかったけど、彼は昔から武芸に秀でてて有名で、他宗派との合同の武芸大会じゃいつも上位常連でさ。優勝したことも少なくなくて、同期の中じゃずば抜けて強かった。彼は有名だから接点はなくても噂はよく耳にしてさ。仙号をとって自立した後もあの人はちゃんと不殺を貫いてた人なんだ。戒律なんてちゃんと守ってる人なんていないような、みんな理由をつけて誰かを殺してたあの場所でだよ。封神計画の時はそうはいかなかっただろうけど、それ以外であの人が誰かを殺したなんて聞いたことがない。殺さずに戦うって、それで負けないって本当に難しいことなんだよ。あの場所だったからこそあの人はそれを貫いてそう在れたんだろうけどさ。そもそも軍人であるわたしとあの人じゃ戦う事の意味自体が違うだろうけどさ。それでも、殺さないで強く在れるって、殺さないということを貫くことができるってすごいと思ってた。そのために彼は努力し続けただろうし、自分には絶対に無理だからこそ憧れる。実際こうやって目にしてみるとやっぱりすごいと思う。自分が皆と同じだと思い込んで崑崙で過ごしてたあの頃、あの人はわたしの憧れだった。わたしはあの人みたいになりたかった。わたしもあの人みたいに強くなりたかった。」
沙依は昔、崑崙の教主だった原始天孫に捕らえられ拷問の末に記憶を失い、子供の姿にされて彼の直弟子として崑崙で修練を積み、仙号をとって仙女として過ごしていた過去がある。記憶が蘇るまでは自分が元は人間で他の仙人と同じだと思い込んで過ごしていた。たとえ偽りの平穏だったとしても、沙依にとって崑崙で過ごした時間は大切な思い出だった。
「あの人には軍人にはなってほしくないな。ここにいてもあの人にはそのままでいてほしい。人を殺さない強さを貫いてほしい。人殺しはあの人には似合わないよ。」
そう言って戦う道徳に視線を向ける沙依を見て、成得は心の中でため息をついた。記憶を失っていても想いまでは変えられない、か。ただの依存だと本気で思ってたけど、とりあえず沙依の方には本当に想いがあったんだな。それが恋愛感情なのかどうかはともかく、あいつのことを強く想ってたっていうのは本当なんだな。そんなことを考えて成得は道徳の方へ視線を移した。だからといってお前に沙依をやる気はないけどさ、お前の方はどうなんだ?本当に沙依のことを想ってたのか?ただの執着だったのか?そんなことを考えて成得は自分自身に問いかけた。もし本当に想いがあったら、二人が想い合っていたのだったら、それでも自分は二人の邪魔をするんだろうか。邪魔をすることが本当に沙依の為になるんだろうか。かわいい妹を嫁になんかやりたくない、その気持ちは変わらないが、本当に大切なのはかわいい妹に幸せになってほしいという気持ちだろ。そう自分を諭してみても気持ちに折り合いがつけられなくて、成得は考えることを放棄した。今はとりあえず邪魔をする。邪魔をした結果どうなったかでまた考えればいい。もし本当に想い合っていたとしても、俺の邪魔程度で阻害されるような想いなんてどうせ大した想いじゃない。
勝ち抜き戦は終局になり、沙依のテンションが上がった。道徳はついに最後の一人までたどり着いた。その最後の相手を見て沙依はにっと笑った。
「一馬までたどり着けるなんてあの人本当に凄いね。でもうちの一馬が負けるわけがないから。」
沙依の絶対的な自信と確信に満ちたその言葉を裏付けるように最終戦はあっという間に方が付いた。何が起きたか解らない、それくらいの速さで道徳が瞬殺され、地面にひれ伏していた。
「さすが一馬。やっぱり一馬が一番だよね。連戦で疲れてたの差し引いて、初戦の相手が一馬だったとしても、一馬が圧勝だったって信じてる。」
そう目をキラキラ輝かせながら話す沙依に成得は、昔からお前のヒーローは四郎だよねと呆れたように呟いた。
「四郎はともかく、一馬にはお前何回も殺もされかけてんだろ。あんだけガキの頃から容赦なくぼこぼこにされて、よく呑気にそんなこと言ってられるよね。」
そうぼやく成得に沙依はそんなことないよと答えた。
「一馬は一度だってわたしを殺そうとしたことなんかないよ。脅して、第二部特殊部隊から追い出そうとしてただけ。ああ見えてうちの部隊じゃ一番器用なんだよ。一馬は間違ってもわたしを殺さないの解ってたから、わたしは安心してあいつに意見できた。力加減をあいつは間違えない。あいつは仲間を手にかけたり絶対しない。わたしは本当は自分じゃなくて一馬に隊長になってほしかった。なんだかんだ言ってもやっぱ他の皆と同じようにわたしも一馬に憧れてたしさ。だからずっとあいつに認められたかったけど、今みたいに隊長として慕われたいとは思ってなかったな。」
そう言う沙依からは一馬に対する絶対の信頼が見て取れた。いったいその自信はどこから来るのか成得は理解できなかった。そんな成得の疑問を察したのか、沙依は話しを続けた。
「昔、四兄様にどうして強くなりたいのか訊いたことがあるんだ。四兄様は自分の力に頼らなくても済む様に強くなりたいって言ってた。四兄様の力は全てを消し去れる破滅の力だから、それに頼ってしまったら取り返しがつかないことになるから、そうならないように自分自身が強くなる必要があるって言ってた。四兄様と一馬は似てないけど、多分そこは同じなんだと思う。あいつは直情型に見えて、実は一番冷静でいつだって感情に流されない。感情に流されて力をふるったりしない。そうやって自分を律し続けることができることが凄いと思う。本当に心身ともにあいつは強いんだ。そうあるために努力し続けてるしさ。本当に皆が憧れるだけあるかっこいい男なんだよ。」
そう言って沙依は目を細めた。
「そう考えると一馬と道徳真君って似てるんだね。あの人背格好もコーエーと似てるし、だからなのかな。憧れてはいたけどさ、そんなに交流もなかったはずなのになんかすごく惹かれるものがあって、不思議だなって思ってたんだ。」
そうやって一人納得する沙依を見て成得は目を細めた。自覚してないだけで沙依はもうすでに恋してる。自覚するのも時間の問題か。そう考えると成得は気が重かった。もう少しさ、お兄ちゃんに心の準備をする時間をくれないかな。かわいい妹が大人の女だって受け入れるのも、誰かに恋してどっかの男にとられるのも、本当に辛いから。そんな短時間で受け入れられないから。
「そう言えば、ナルは何でここにいたの?」
沙依のその問いかけに成得は仕事と答えた。
「主要部隊の人数不足が深刻だからな。昔の第二部特殊部隊なら無理だけど、今はどこまで汎用性があるのか知りたくてさ。昔みたいな役割分担で回すには無理があるから、色々考えなきゃいけないことが多いのよ。あとは第二部特殊部隊初の訓練生がどんな様子か見とこうかと思ってさ。」
そう言って成得は沙依から離れた。
「こう見えてお兄ちゃん凄く忙しいの。またちょっと留守にしなきゃいけないしな。その前に片付けとかなきゃいけないことも多いし、自分で仕事増やすようなことしたんだけど、まじでうちの隊員達容赦なくてさ、お兄ちゃん辛い。」
そうぼやく成得に、お疲れ様と沙依は声を掛けた。
「じゃあ、俺行くわ。あんまり遅くまで遊び歩くなよ。」
そう言って沙依の頭を撫でると成得はその場を後にした。
○ ○
「やあ久しぶり。今日はどうしたの?」
呑気にそう言う太乙に、成得は呆れた様な視線を向けた。
「お前が迎えに来いって言ったんだろうが。わざわざ海渡ってこんな場所まで来てやったのになんだよ、その態度。」
成得は崑崙山脈にある乾元山に来ていた。自分が中心になって、龍籠と崑崙が同盟を組んだとはいえ、正直ここにはあまり来たくはなかった。だが、その龍籠と崑崙の同盟を組むにあたっての技術提供の条約に従って太乙が代表して龍籠に来ることとなり、必要なものをもって来るように言ったら、荷物が多いから手伝えと呼ばれてしぶしぶここに来たのだった。技術提供の代表者こいつに指定したのも自分だし、表向きの理由以外にも目的があるからあれだけどさ、わがままで人のこと呼んでおきながらこの態度はなんなの。本当、わざわざ迎えに来てやったのに何この態度。本当に仙人て奴は偉そうだし、自由人だし、感覚おかしいし、嫌になる。こっちは仕事の合間縫ってきてやってんのに支度もできてないとか本当なんなの。喧嘩売ってんの?今なら買うよ、八つ当たりしたい気分だから。そんなことを考えながらも、成得はぐっとこらえた。
「そう言えばそうだったね。年だから物忘れが激しくてさ。ごめん、ごめん。」
全然悪びれた様子もなくそう言う太乙を見て成得はため息をついた。
「俺よりはるかに若いだろうが。本当、お前等仙人って嫌い。」
そう言ってぶーくされる成得に太乙はお茶を出した。成得はそれを飲みながら、さっさとしたくしろよと文句を言った。
「言っとくけど、うち来たらちゃんとうちのルール守れよ。立ち入り禁止区域に入ったり、余計な詮索したら殺すからな。脅しじゃなくて、まじで殺すからな。」
そんな成得を横目に太乙は、荒れてるね、と言って笑った。
「そんなに念押されなくても解ってるよ。どうかしたの?らしくない。」
そう言う太乙に成得はお茶のお代わりを要求して、深いため息をついた。
「沙依があの男に本当に惚れてたみたいでお兄ちゃんショック受けてるから、八つ当たりしてんの。破局させようとしたら沙依がフラれるじゃん。俺のかわいい妹をフって、傷つけるなんて許せると思う?」
「じゃあ、付き合い認めれば?」
さらっとそう言う太乙に成得はムリと即答した。そう簡単に折り合いがつけられたら苦労しない。
「今あいつらお互いの親しかった記憶ないんだからお前も気をつけろよ。それも破ったら殺すからな。」
成得のその言葉に太乙は、はいはい解ってるから少し落ち着きなよ、と言って今度は茶菓子を出した。
「もうさ、沙依ちゃんが他の男にとられるのが嫌なら君が奪えばいいだけじゃないの?」
太乙のその言葉に成得はひどく不快そうな顔をして、太乙を睨みつけた。
「お前さ、喧嘩売ってんの?沙依は妹なの。妹に手を出すお兄ちゃんはそれお兄ちゃんじゃありません。俺、あいつにそういうの求めてないから。」
「ならいずれは他の男に奪われるのは仕方がないことだよね。」
バッサリ成得を切り捨てて太乙は自分もお茶を飲んだ。そんな太乙を横目に、成得はため息をついた。解ってる、解ってるけどさ、気持ちに折り合いつけるのには時間がかかるんだよ。
「まださ、隆生とか、なんならあの磁生とかっていう男でもいいや、最悪一馬ぐらいまでなら気に食わないのは変わらないけど、沙依がそいつが良いっていうならしょうがないなって思える。普通に沙依の事大切にしそうな奴ならいいんだよ。でも、孝介とあいつは異常者だろ。お兄ちゃん、かわいい妹には普通に幸せになってほしいの。わざわざアブノーマルな世界にこんにちはしてほしくないの。そうなって見切りつけて別れるならまだいいよ。でも無理して我慢したり、ましてそれに幸せ感じるようになっちゃったら、俺まじで耐えられない。なのに、よりによって本当なんであの男なの?昔から四郎の事大好きなんだから、もう一馬でいいじゃん。なんであの男なんだよ。」
そう嘆く成得の言葉にふと太乙は疑問が浮かんで口を挟んだ。
「そういえば沙依ちゃんって、龍籠いた頃は浮いた話なかったの?」
それを聞いて成得は少し悩んだ様子をみせて口を開いた。
「噂だけならいくらでもあったな。でも、実際あいつがそういう関係になった奴はいなかったな。噂の相手も、ただの友達や家族、同僚、それ以上でも以下でもなかったよ。龍籠にいた頃は、あいつガキの頃から女子供である前に軍人だったからな。多分成人した後も女であることより軍人であることをとってたんじゃね。あの頃のあいつからはそういう雰囲気感じたことないし。強いて言うなら、隆生と付き合ってないのが不思議だったくらいか。あいつらの関係はよく解らん。あれだけいちゃいちゃしてんのに付き合ってないとか意味が解んなかったわ。」
そう、思い出してみると、現役で軍人をしていた頃の沙依は本当に女らしさの欠片もなかった。それ以前に人らしくすらなかった。青木行徳に連れてこられて二年みっちり個別で戦闘訓練を受け、青木の秘蔵っ子と呼ばれ。出てきたかと思えば、いきなり軍に突っ込まれ三年間第一部特殊部隊で訓練期間を終了し、そく第二部特殊部隊に配属。非番の日は公共の訓練場に入り浸って訓練に明け暮れるという徹底ぶり。ガキのくせに口癖のように、行徳さんがそう望むならと言って、当時第二部特殊部隊の隊長をしていた行徳につき従って、どんな過酷な作戦も訓練も泣き言一つ言わずにこなして、ついたあだ名が青木行徳の犬。一馬に何度も半殺しのめにあって、しょっちゅう医療部隊送り。春李とつるむ様になってようやく少し人らしくなったかとは思うが、人らしくなっただけで女は捨ててたな。春李に無理やりおめかしされて連れ出されてた時はかわいかったけど。普段のあいつからは想像できないくらい恥ずかしがって、耳まで赤くして半泣きになって、あれは連れ帰りたくなった記憶がある。でもあれは女らしいじゃないもんな。非番の日課をよく隆生と一緒に過ごして二人で甘味とか食ってたけど、あれは元々はガキらしくない沙依を隆生が気に掛けて構ってただけだもんな。沙依が大人になった後だってあいつら訓練場で訓練して甘味食って解散ってことしかやってないし、二人で甘味食ってた姿はほんといちゃついてるようにしか見えなかったけど、そういう色っぽいものを感じたことはなかったな。本当に昔は沙依から女を感じたことはなかった。でも今は普通に女だな。訓練をしている道徳に目を向けていた時の沙依の顔を思い出して成得はそう思った。思い出したらまたもやもやしてきた。
「本当あの男嫌い。まじでなんであの男なの。あの男の何がいいの。やっぱ訓練中の事故に見せかけて殺してくるか。」
さすがに本気でそこまでやる気はないが、頭の中で殺すくらいは許してくれるよね。そう思って、成得は鬱憤を晴らそうと頭の中で暗殺プランを考えて、沙依が悲しむ顔までセットで想像できてしまい逆に精神的にダメージを受けた。一人で沈んでいる成得に太乙は、何やってるの、と冷ややかな視線を向けていた。
「支度できたから行くよ。それ持って。」
太乙に促されて成得は立ちあがった。
「妹離れができるいい機会ができてよかっね。」
そう言って小馬鹿にしたように笑われ、この笑い本当にむかつくわと成得は思った。しょっちゅう人に向けてるが、自分が向けられるとその効果をすごく実感できる。そんなことを考えながら、成得はいつもの薄ら笑いを浮かべた。
○ ○
成得と太乙は第一管理塔に近い寄宿舎で荷ほどきをしていた。
「ねぇ、どうして空き部屋ばっかなのに、僕こっちの寄宿舎に入らなきゃいけないの?僕が出勤予定の場所に近いところにも寄宿舎あったよね?」
太乙が出勤する予定の技術開発部隊は第三管理塔に詰め所があった。三か所にある管理塔の近くにはそれぞれ寄宿舎があり、かつて訓練生が利用していたこの場所は訓練生が入らなくなった今ではどこもガラガラだった。にもかかわらず太乙をここに案内したのにはもちろん意味がある。意味はあるが、成得は解ってんだろ、と太乙に言った。それに対して太乙は何も答えずニヤニヤ笑いを返してきて、それが本当に腹が立った。今度から相手をおちょくる時はこいつの真似するか、と案外真剣に検討してみる。
「あまり動くの好きじゃないから職場から近い方がいいな。というか、出勤したくないからここで研究してていい?部屋余ってるみたいだし。技術教えてほしかったらそっちが訪ねてきてよ。」
ニヤニヤ笑いのままそんなことを言ってくる太乙に本当に精神を逆撫でされる。成得は特にそれに返事はせずいつも通り薄ら笑いを浮かべて太乙をじっと見つめた。しばらく視線を合わせていると、太乙が笑顔を引っ込めた。
「君ならこれくらいの我儘受け入れてくれるかと思ったのに、ダメか。残念。」
対して残念そうじゃなくそう言う太乙に、成得はよく言うよと心の中でため息をついた。どこまで自分のペースに持ち込んでこっちに条件飲ませられるかをはかってただろうが。ちょっとでもペースに呑まれたら同盟の条件さえ覆されかねない。本当、恐ろしい。肯定でも否定でも反応したら負けなのだ、気が抜けない。しかも下手したら相手怒らせて同盟が破綻になるとか、自分が殺されるとか全部想定したうえでこういうことを仕掛けてきてるであろうことが本当に怖いと成得は思う。
「お前、博打好きだよな。そんな大博打ばかり打って怖くないの?」
呆れたようにそう言う成得に太乙は、別にと答えた。
「前回はともかく、こんなのは博打の内にも入らないよ。君はお人よしだからこの程度のお遊びなら見逃してくれるの想定内だし。リスクが一ミリもないなら試した方が特でしょ。ただそれだけのこと。」
しれっとそう言う太乙を見て、本当天才って何考えてんのか解らなくて怖いと成得は思った。
「とりあえず道徳の様子を探って君に手をかせばいいんでしょ。ちゃんと出勤するし、よくわからないうちはふざけないから安心して。その分、あいつおちょくって遊ぶからさ。」
太乙のその言葉を聞いて、やっぱりわかってんじゃねぇかと成得は思った。第一管理塔には第二部特殊部隊の詰め所があり、そのため第二部特殊部隊の訓練生である道徳はここに入居している。だから太乙にここに入ってもらい道徳の情報を仕入れようという魂胆なのだ。下手に情報司令部隊の隊員が近づくより、友人である太乙に任せた方が話は早い。
「それにしても記憶がないとどうなるんだろうね。あいつ本当に子供の頃から異常なくらい沙依ちゃん一筋だったから全く想像つかないや。」
しみじみと太乙はそう言った。
「子供の頃の沙依ちゃんはさ、情緒不安定でなんでか道徳にべったりだったから、自分が守ってあげなきゃって思い込むのも仕方ないと思うんだよ。その延長線上でさ、それが恋とか愛とかそんな感情に変わっても不思議ではないけどさ。大人になってからは沙依ちゃんだって子供の頃みたいに道徳にべったりじゃなかったし、あいつに頼らなくても平気になってたんだよ。なのに気持ち悪い片思い続けてさ、沙依ちゃんに近づく男がいると焦るくせに本人になんにもアプローチしなくて何千年も手出さなかったり、そのくせ、その間に他の娘から好意寄せられたりもあったのに見向きもしないで、沙依ちゃん一筋。何がしたいのか本当に解らなかったし、まじで気持ち悪いよね。」
太乙の話に適当に相槌を打ちながら成得は考えていた。拷問の末に記憶を失い子供にされた沙依を見つけ出したのは高英に精神に入り込まれて操られた道徳だった。沙依が崑崙での子供時代に道徳にべったりだったのは、道徳の中に高英を見てたからに他ならないと思う。いったいいつぐらいまで高英はあいつの中にいたんだろうか。あの頃の高英は戦争で重傷を負っており本来の力は発揮できなかったし、なりふりも構ってられなかったはずだ。そんな高英に入り込まれた道徳はいったいどんな状態だったのだろうか。そんなことを考えて、成得は高英にも詳しく話を聞いた方がいいかもなと思った。
太乙の道徳キモイという話はずっと続いていた。成得は太乙の話を聞き流しながら何かが引っかかったが、いったい何に引っかかっているのか解らなかった。ただそれが何か重要な事の気がした。
○ ○
「なぁ、司令官。今平気か?今ダメならどっかで時間作ってほしいんだけど。」
いつも通りの薄ら笑いを浮かべて成得は言った。高英と目が合ったその瞬間、真っ白な空間に二人きりになっていた。
「懐かしいな。お前が死にかけてた頃は通常の会話できないからいつもここで話してたな。」
成得はいつも通りの調子を崩さずそう言った。ここは高英の造り出した精神世界だった。正直無視されると思っていたが、ここに通されたということは話しをする気があるらしい。それが成得には意外だった。
「ここなら誰にも聞かれる心配がないからな。」
そう言って高英は目を伏せた。
「お前なら俺の気持ち解るだろ。」
そう言う高英を見て成得は、解らねぇよと答えた。
「俺はお前みたいに人の頭ん中読める訳じゃないんだから、想像はできても確かめる術はないだろうが。兄貴みたいなことすんなよ。ちゃんと会話しようや。話す気があるからここに入れたんだろ。」
成得が太乙から話を聞いて引っかかっていたこと、それは道徳が沙依以外の他者に一切興味を示さなかったことだった。性的欲求さえ沙依にしか抱かないなんて、そんなことは普通ありえない。ありえるはずがない。
「ずっとただ過保護なだけだと思ってたけどさ、お前、沙依に恋慕してんだろ。あいつの沙依に対する執着はお前の気持ちなんだな。」
今までの様子と太乙の話から考えると、多分、道徳は無性愛者だ。他人に興味や愛情を持つことができない性質。なのに沙依に対してだけはそういう感情を抱ていた理由は成得にはそれ以外考えられなかった。
「戦争が終わった後、俺は千里眼を使って生きてる奴を見つけ出した。最初にお前を助け出して、お前に皆に戻ってくるように伝えさせて龍籠を復興させたな。あの時、俺は行徳と沙依を見つけ出すことができなかった。あの後何度試しても二人の生死だけは確認できなかった。二人は死んだんだと、死んで朽ち果てたから見つからないんだと俺が諦めた後も、お前は独りで沙依を探し続けてたんだな。死にかけの状態だったくせに、沙依の安否を確認するためだけに数多の精神を渡り歩いて見つけ出したんだな。ただ沙依を想う気持ちだけで無茶して見つけ出してさ。見つけた時どんな気持ちだった?お前、繕ってなんかいられなかっただろ。そん時にあいつの中にお前の感情が焼きついちまったんじゃないのか?」
成得の問いに対し高英は肯定も否定もしなかった。そんな高英を成得はじっと見ていた。高英はただただ黙り込んでいた。そんな高英が何を考えているのか成得には解らなかった。
高英は長兄によく似てると成得は思っていた。いつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしていて、自分のことを話さない。何を考えているのかよくわからない。沙依に対して常に自分の能力で監視し何かあると対処する過保護っぷりを発揮していたが、それだって基本放任主義で沙依の命や貞操にかかわるような本当に緊急事態でもない限り手は出さなかった。過保護なところはあっても、それはただ不器用に親の代役という責務をこなしているだけだと思っていた。というのも青木家は、沙依の養父であるはずの行徳がほとんど家に帰らず高英と沙依の二人暮らしといっても過言ではなく、そんな状態で小さい頃から沙依の面倒は高英が見ていたからだった。でも、傷の手当はしても寄り添ったりはしない。食事の用意はしても会話はしない。最低限世話はするけど深く関わらない、そんなどう考えても機能不全家族。それでも高英の過保護っぷりから、彼がちゃんと愛情をもって沙依を大切にしていたことは解ってはいたが、それは娘に対するようなものだと思っていた。接し方が解らないからあんな歪な愛し方になっていただけで、沙依のことを実の娘のように想っているのだと思っていた。まさか高英が沙依を女性として想っているなんて成得は想像すらしたことはなかった。
ずっと黙っていた高英がようやく口を開いた。
「誰だって知られたくないことの一つや二つ持ってるよな。俺だってある。だけど、俺や兄貴には隠し事はできない。それこそ本人が自覚してないことだって、忘れてしまってるようなことも、記憶の奥底に眠ってるようなものさえ、俺は暴くことができる。だから人が俺を受け入れられない気持ちはよく解る。恐怖を抱く気持ちはよく解る。仕方がないことだって解ってたけど、それが辛かった。自分ではどうしようもないことで人から恐れられ、避けられ、嫌悪される。本人がそれを隠しててもそれが伝わってきて、子供の頃の俺には耐えられなかった。」
そう言って高英は成得を見た。
「俺たちの力が他人が思ってるほど万能じゃないことはよく知ってるだろ。本人が拒絶してれば覗くのは容易じゃないし、思考が混乱してれば読み取りにくい、それに直接感情に触れるのはだいぶしんどい。身体の制御を乗っ取るなんて、それこそ相手の意識がないか、本人が許容しなければできない。強制できなくもないが、こっちもだいぶ消耗する。消耗が酷いから不必要に他人の頭や記憶なんて覗こうなんて思わない。だけど、人からみたらそんな事情関係ないだろ。俺にはそれができる。その事実だけで人は俺に恐怖する。俺を拒絶する。不信感を抱く。子供の頃は上手く制御が利かなくて、勝手に他人が自分に向けてるそういう感情が頭に流れてきて、本当に辛かった。兄貴の方が俺より少し力が強くて、兄貴の頭の中だけは解らなかったから、兄貴だけが安心できる相手だった。兄貴以外は敵のように見えて、怖くて、拒絶した。そのまま大人になって、そのまま長い年月を過ごして、俺はすっかり他人との関わり方が解らなくなった。関わる必要すらないと思ってた。」
そう言う高英は辛そうだった。高英が昔は他人を拒絶していたことを成得は理解していたが、そんなことを思っていたなんて知らなかった。正直、人を拒絶してたのはこっちを見下して関わる必要がないと思ってるんだと思っていた。成得は次郎だった頃に長兄に抱いていた印象をそのまま昔の高英に抱いていた。その印象が薄れたのがいったいいつ頃だったのかは覚えていない。ただ、いつの間にか高英へのその印象は薄くなり、彼は信頼できる上官になっていた。
「兄貴が沙依を連れてきたとき正直嫌悪感しか抱かなかった。兄貴にあいつの世話を押し付けられて本当に迷惑でしかなかった。沙依の事が邪魔でしかなかった。いなくなってほしかった。自分の平穏を脅かす存在でしかないと思ってた。どう接せればいいのか解らなかったし、だからと言って他に面倒を見る奴もいなくて嫌々世話を焼いてた。当時の俺は誰かを頼ろうなんて思えなかったし、頼れる相手もいなかったしな。」
そう言うとまた高英は黙り込んだ。それは過去を振り返りながら自分の気持ちを整理している様だった。
「沙依はこんな俺を受け入れてくれた。普通、頭の中見られたら嫌だろ。全部知られるなんて嫌だろ。なのに、あいつそれ受け入れて俺に絶対の信頼を寄せるようになった。あいつだけは俺の能力を怖がらなかった。それどころかあいつだけは俺に安心感を覚えてた。純粋に俺を信じ切ってた。そんなの子供のうちだけだろ、大きくなればどうせ知られることが嫌になるに決まってる。そう思ってたのに、結局あいつはそのままだった。今だって変わらない。」
そう言って高英は、だからお前には俺の気持ち解るだろとまた言った。成得はそれに答えなかった。言いたいことは解る。痛いほどよく解る。だからこそ何も答えられなかった。気持ちが解るからこそ、答えが解らなかった。
「お前の考えているような可能性があることは認める。裏付けをとるために俺のところに来たことは解っているが、今の俺にそれを認めることはできない。」
それを聞いて成得は、だろうなと思った。
「裏付けが取れない以上、可能性は可能性だ。そうでないこともあり得る。」
そう言う高英自身そうでない可能性なんて信じていない様子だった。その辛そうな表情を見て成得は胸が痛くなった。そうだよな、それしか考えられなくても認めることなんかできないよな。もしも自分が高英の立場なら絶対に認められない。自分は本当に沙依を妹だと思ってる。沙依に妹以外の何かなんて求めてない。でもそれが自分の思い込みで、心の奥底ではそうじゃなかったなんて。自覚してないにせよ自覚したうえで目を逸らしてたにせよ、決して見たくない自分の想いを目の前に突き付けられたら、そんなもの耐えられない。違うって否定しても、否定しきれなかったら?そうかもしれないなんて少しでも思ったら?それが事実だと認めたら?今までの全てが崩れてしまう。ようやく手に入れたはずの確かな繋がりが、確かなものではなくなってしまう。そんなことは耐えられない。
気が付くと成得は元の場所に戻っていた。高英も成得もなにも言わなかった。成得は何か高英に言いたい気がしたが、結局言うべき言葉が見つからなくてその場を後にした。
○ ○
成得は沙依の背中に乗っかっていた。普段なら沙依は本当に嫌そうに顔を顰めるのにそれをしない。普段と何が違うんだろう?成得には不思議で仕方がなかった。
「今日は嫌がんないんだな。」
成得は疑問を口にした。まさか普通に受け入れる様になったてことはありえないと思うけど、そうならそうでなんだか複雑な気分がする。
「だって今は必要でしょ?」
さらっと沙依に図星を突かれ成得は、なんでわかるかな、といつもの薄ら笑いを浮かべた。取り繕ってないとやっていけない。始めた当初はこんなことになるとは思ってなかった。想定外の事が起こりすぎてついていけない。自分がどうしたらいいのか、どうしたいのか解らなくなるなんていったいいつぶりだろう。
「沙依。大好き。」
成得はそう言って沙依を抱きしめる腕に力を入れた。うん。と言って平然としている沙依を見て、そうだよな、こういう反応だよな、と成得は思った。違う反応されても困るんだけどさ。違う反応は求めてないんだけどさ。沙依に頭を撫でられて成得は何とも言えない気持ちになった。
成得は目を閉じて、少し考えて沙依から離れた。
「お前ももう子供じゃないしな。そろそろこういうこと止めるよ。」
そう言って成得は沙依の頭を撫でた。疑問符を浮かべる沙依と目が合って、笑顔を返す。
「昔さ、四郎にもやめろって言われてたんだよね。末姫だっていつまでも子供じゃないんだから、妹離れしろってさ。じゃないとお前に嫌われるぞって脅されて。あの時は、お前に嫌われたら考えるとか言ってたけどさ、嫌われてからじゃ遅いしな。」
沙依に向けた笑顔をいつもの薄ら笑いに変えて成得はそう言った。
「約束したからとか、相手が望んでるからとか、そんなこと考えて我慢する必要なんてないんだぞ。お前が嫌なら嫌でいい。途中で投げ出すのだって、逃げることだって時には必要なんだ。頑張らなくたっていい。俺は、お前が本当に幸せになってくれるならなんだっていい。お兄ちゃん、どんなお前だって受け入れるよ。どんなんだって、お前は俺のかわいい妹だからな。」
成得はそう言うと沙依の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。頭を押さえて怪訝そうな顔をする沙依を見て成得は目を細めた。
「薬は効いてるみたいだけど、治療の方は上手くいってるのか?」
成得のその言葉に沙依は、解らないと答えた。
「沙依。自分の気持ちを大切にすることを覚えろ。感情を認識して受け入れて折り合いをつけることと、最初から見えないふりをすることは違うぞ。見えないふりして無意識に押し込めてきたから、何が辛いのかさえ解らなくなってそうなるんだ。言い訳をしないで、ちゃんと自分の心と向き合え。一人だと結局言い訳するから人に聞いてもらえ。そのための診察なんだからさ。」
沙依は神妙な顔で成得の話を聞いていた。
「お前が思ってるほどお兄ちゃん弱くないし。お前が思ってるほどお前は強くないぞ。人の心配してる暇があるなら、まずは自分の事ちゃんとしなさい。どんなことがあってもまずは自分のことを優先すること。わかった?」
それを聞いて沙依は難しい顔をした。沙依が何か言おうとして、成得がそれを止める。
「まずは素直にお兄ちゃんの言う事聞きなさい。」
そう言われて沙依は黙り込んだ。何かを真剣に考えている様子だった。それを見て、成得はもう一度沙依の頭を撫でてからその場を後にした。