そば殻
放課後の旧校舎、三階の隅にある備品保管庫。本来なら埃を被った机や椅子が眠る場所だが、ここには別の「眠り」が存在していた。
「……守君。聞こえる? 世界が私を拒絶している音が」
「聞こえませんし、世界は先輩のことを拒絶してないと思います。単に、昨日遅くまでスマホで『最高級の羽毛の産地』を調べてたから寝不足なだけですよね?」
僕は、非公式部活動『睡眠部』の部長――香先輩に、至極まっとうな指摘を投げた。香先輩は、窓から差し込む西日を浴びながら、パイプ椅子にだらしなく体重を預けている。その目の下には、薄っすらとクマが鎮座していた。美しい顔立ちが台無しである。
「ポーランドが良いらしいのよ。知ってた? 童謡とか不思議の国のアリスで有名なマザーグースってあるけど、そもそもはグース、つまりガチョウの……」
僕の冷ややかな目線に気付いた香先輩が言葉を遮った。
「違うの。私はただ、眠りの深淵に触れたいだけ。……見て、この部室(という名の物置)を。私たちはありとあらゆる努力を積み重ねてきたはずよ」
先輩が力なく指差した先には、学校の備品とは思えない光景が広がっていた。棚には国内外から取り寄せた十種類以上のアロマオイル。床にはなぜか高性能の加湿器。そして奥の長椅子には、山のように積み上げられた『試作枕』の数々。
ここは、快適な睡眠を追求し、学業と日常生活のパフォーマンスを最大化するために設立された(と先輩が主張する)、非公式の『睡眠部』。そして僕は、新入生勧誘の時期に「ここなら放課後、静かに本が読めるぞ」という甘い言葉に騙されて入部した、唯一の部員兼、人体実験の協力者だ。
「守君、私はもう限界なの。昨夜も、枕の高さがコンマ五ミリ合わない気がして、三時間しか意識を失えなかった」
「三時間も意識を失えてるなら十分な気がしますけど。……で、今日は何を試すんですか?」
僕はため息をつきながら、先輩が用意したメモ帳を開いた。そこには、およそ女子高生のノートとは思えない無機質なリストが並んでいる。
「これよ。『素材別・後頭部への反発係数と幸福度の相関関係調査』。今日は原点に立ち返って、物理的なアプローチを攻めるわ」
「……要するに、枕を片っ端から試すってことですね」
香先輩はガバッと起き上がると、執念の宿った瞳で僕を見つめた。
「そう! そば殻、プラスチックパイプ、竹網、羽毛、そして最新の低反発ウレタン……。どれが私の脳を『完全な無』へと導いてくれるのか。守君、君にはそのすべての経過を記録し、私の寝顔から脳波を測定する義務があるわ(※目視で)」
「無茶言わないでください。そもそも非公式なんですから、あんまり派手に機材を持ち込むと先生に怒られますよ」
「ふふ、大丈夫。眠りに落ちてしまえば、そこは誰も立ち入れない聖域よ……」
先輩はそう言って、最初の一体――硬めの『そば殻枕』を抱え上げた。
こうして、僕と香先輩の、およそ青春とは程遠い「究極の安眠」を探す日々が幕を開けた。
……この時はまだ知る由もなかった。ありとあらゆる物体を試した果てに、僕たちが「禁断の枕」に手を出すことになるなんて。
記念すべき最初のエントリーは、日本の夏、日本の安眠を支えてきた重鎮、『そば殻』だ。
香先輩は、部室の長椅子に丁寧にタオルを敷き、その上に年季の入った渋い和柄の枕を鎮座させた。
「いい、守君。そば殻の最大の利点は、その『通気性』と『放熱性』にあるわ。頭部を冷やし、足を温める『頭寒足熱』こそが、入眠儀式の基本。この枕の中にある無数の殻が、私の脳から溢れ出す熱を効率よく逃がしてくれるはずよ……」
「……寝る前からそんなに喋ってて、脳は冷えるんですか?」
僕の疑問を無視して、先輩はゆっくりと横になった。ザッ、という、乾燥した植物の殻が擦れ合う独特の音が、静かな備品保管庫に響く。先輩は何度か頭の位置を微調整し、ふぅ、と深い吐息をついて目を閉じた。
五分が経過した。記録用のノートを手に、僕は先輩の様子を観察する。……正直、見惚れていなかったと言えば嘘になる。普段は安眠を求めて血眼(文字通り)になっている先輩だが、目を閉じると、その長い睫毛が白い頬に影を落とし、まるでどこかの美術館に飾られた絵画のような静謐さを纏うのだ。
(……なんだ。黙って寝ていれば、普通に綺麗な人なんだよな)
窓から差し込む斜光が、先輩の髪を黄金色に縁取っている。僕はノートに
『呼吸:安定。表情:穏やか』と書き込みつつ、心臓の鼓動が少しだけ速くなるのを感じた。
だが、その静寂は不意に破られた。
「……だめだわ。音が、うるさい」
先輩がガバッと起き上がった。寝癖がついた髪を振り乱し、親の仇のようにそば殻枕を見つめている。
「守君、聞いた? 今の音。私が寝返りを打つたびに、耳元で『ザリッ……ザリッ……』って。まるで、千匹の乾燥した虫が砂漠を大移動しているようなノイズだわ。これじゃ脳がサハラ砂漠にトリップしちゃう!」
「表現が過激すぎますよ。……でも、確かに音は気になりますね」
「却下。これは却下よ。通気性は合格だけど、音響学的な配慮が欠けているわ。明日はもっと静かな、無音の素材を試すべきだわ」
先輩はノートを奪い取ると、大きく『不合格』と書き殴った。どうやら「究極の安眠」への道は、想像以上に険しいらしい。




