理不尽との戦い 決着
「……ありえないッ!」
遠くの巨木の上から戦況を見守っていたアリサは、血の気を失い、思わず叫んでいた。
富士樹海を覆っていた高濃度の魔力瘴気が、巨大なつむじ風となって腐死竜の体へと集束していく。
失われた肉と骨の代わりに、漆黒の瘴気が実体化し、より凶悪で高密度な「鎧」となって巨体を覆い尽くしていく。
「S級魔物の形態変化(フェーズ移行)なんて、過去のどの生態データにも記録されてない……! 周囲の環境魔力を強制徴用して自己修復するなんて、完全に『災害指定』の異常個体じゃない!」
特訓という範疇は、とうに超えていた。これ以上は確実に死人が出る。
いや、このままでは自分ですら無事に帰還できるか分からない。
アリサは巨木を蹴り、一気に二人の間へと飛び降りた。
「レンくん! サクラさん! 今すぐ逃げなさい! ゲートまで走って!」
だが、振り返った二人の姿を見て、アリサは絶句した。
レンの両腕は限界を超えた魔力放出で焼け焦げ、皮膚からは血が滲んでいる。
立っているのがやっとの状態だ。
その後ろで彼を支えるサクラも、魔力枯渇と疲労で顔面は蒼白、足は小刻みに震えていた。
誰の目から見ても、これ以上の戦闘は不可能な『満身創痍』。
「何をやっているの! 早くポーションを飲んで走りなさい!」
アリサが叫ぶが、二人は一歩も動かなかった。
それどころか、レンは焼け焦げた手で、再び自身の剣を握り直した。
「……逃げません」
「は……?」
「ここで背中を見せたら、僕らは一生、この絶望から逃げ続けることになる。……それに、逃げ切れる速度じゃない。僕の『未来予測』がそう言っています」
レンの瞳は、極限状態にあっても恐ろしいほどに澄み切っていた。
賢神ソフィアの加護『並列思考』が、恐怖や痛覚を切り離し、純粋な生存と勝利へのルートだけを演算し続けているのだ。
「私も、逃げません!」
サクラが、レンの背中に再び両手を押し当てた。
「エキシビションで九条颯真さんを倒すんでしょう!? 無名の王のテロを止めるんでしょう!? だったら、ここでS級から逃げてる場合じゃありません!」
戦神アレスの『不屈の魂』が、サクラの尽きかけた生命力を燃やし、最後の魔力を捻り出そうとしている。
「二人とも、正気じゃないわ! 死ぬ気!? 私が殿を務めるから、とにかく――」
「アリサさん!」
レンが、真っ直ぐにアリサの目を見た。
「僕の予測演算の中に、たった一つだけ『勝てる未来』があります。……でもそれには、アリサさんの力が必要です」
その言葉に、アリサは息を呑んだ。
S級探索者である自分に、Eランクの少年が「力を貸してくれ」と言っている。
ただの無謀ではない。確かな勝算を持った、対等の探索者としての『作戦立案』だった。
ズウゥゥゥゥン……ッ!!
漆黒の瘴気鎧を完全に纏い終えた腐死竜が、その凶悪な顎を開き、再び周囲の空間を震わせる咆哮を上げた。
第一形態の時とは比較にならない、濃密な死の気配。
アリサは二人のボロボロの姿と、それでも決して折れない瞳を交互に見つめ……やがて、深く、深くため息を吐いた。
「……本当に、世話の焼ける生徒たちね。協会トップの私がCランクの無茶に付き合って殉職なんてしたら、歴史にどう書かれるか分かったもんじゃないわ」
アリサの顔から、教官としての焦りが消え失せた。
代わりに浮かんだのは、世界ランキング9位『剣聖』としての、猛禽類のような凄絶な笑み。
彼女は腰に帯びていた鞘から、ついにその刃を抜いた。
S級指定アーティファクト、神刀『天風』。
抜刀した瞬間、アリサの周囲に暴風が吹き荒れ、迫り来る瘴気を一瞬で吹き飛ばした。
「倒し方は任せるわよ、レンくん。私は『道』を作るだけ。……絶対に、外さないでよ!」
【戦神アレス】:おおおおおっ!! 剣聖が抜いたぞ!!
【古代龍バハムート】:……S級の剣士と、神の加護を得た二人の若者。まさか、あの化け物に真っ向から挑む気か。
【雷神トール】:やれえええ!! 神代レン!! お前の雷で、死の竜の頭蓋をカチ割ってやれ!!
【精霊王シルフィード】:みんながんばれええええええ!!!
配信のコメント欄が、熱狂の渦に包まれる。
『GYUOOOOOOOOOOOッ!!!』
腐死竜が、漆黒の巨体を揺らして突進してきた。瘴気の鎧が触れただけで木々が灰燼に帰していく。
「サクラさん、同調!」
「はいっ!!」
レンとサクラの魔力回路が、三度目の接続を果たす。限界を超えた痛みがレンの脳を焼くが、『並列思考』がそれを強引に押さえ込む。
レンの『未来予測』の光の線が、腐死竜の動き、そしてアリサの動きまでも完全にトレースし始めた。
「――『縮地・境界』!」
アリサが消えた。
否、圧倒的な速度で腐死竜の懐へと踏み込んだのだ。
「吹き飛びなさいッ!!」
神刀『天風』から放たれた真空の刃が、嵐となって腐死竜の巨体を包み込む。
ガガガガガガガガッ!!
凄まじい剣戟の音。
分厚い瘴気の鎧が、アリサの神速の連撃によって次々と削り取られ、剥がされていく。
『GYAAAA!?』
苛立った腐死竜が、巨大な前足でアリサを叩き潰そうとする。
だが、その攻撃軌道すらもレンには見えていた。
「アリサさん、上!」
「言われなくてもッ!」
レンの指示と同時に、アリサは空を蹴って跳躍。巨大な爪を躱し、そのまま腐死竜の頭部から胸元へ向けて、渾身の一撃を振り下ろした。
「《風神刃・絶空》!!」
大気を圧縮した一撃が、腐死竜の胸部――先ほどレンが穿った大穴を塞いでいた瘴気の鎧を、真っ二つに切り裂いた。
その奥深くでドクンと脈打つ、黒い結晶体。
弱点である『死霊核』が、完全に無防備な状態で外気に晒された。
「今よ、レンくん!!」
空中のアリサが叫ぶ。
「サクラさん、全部寄越して!!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
サクラが、自身の魂の底に残った最後の一滴の魔力まで、すべてをレンの回路へと叩き込む。
レンは焼け焦げた両腕で剣を構えた。
魔法を放つのではない。すべての魔力――炎、雷、水、そしてサクラの光――を、たった一本の『剣身』に極限まで圧縮し、定着させる。
(……見えた。そこだ!)
『未来予測』が、揺れ動く死霊核の「一秒後」の位置を完全にロックオンした。
ドンッ!!
レンが地面を爆発的に蹴り出す。
アリサが切り開いた真空のトンネルの中を、極彩色の光を纏った一筋の矢となって駆け抜けた。
『GY、GYOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ!?』
腐死竜が危険を察知し、体内の死霊核の位置をずらそうと瘴気を蠢かせる。
だが、遅い。
『並列思考』によって最適化されたレンの速度は、すでにSランクの領域へと足を踏み入れていた。
「これで……終わりだぁぁぁぁッ!!」
ズドパァァァァァァァァァァァンッ!!!!
レンの剣が、腐死竜の胸の奥深く、逃げようとした『死霊核』の中心を寸分の狂いもなく貫き通した。
剣身に圧縮されていた四つの属性魔力が、核の内部で臨界点に達し、一気に爆発を引き起こす。
ピキ、ピキピキピキ……パリンッ!!
耳障りなガラスが割れるような音と共に、絶対の強度を誇っていた死霊核が粉々に砕け散った。
『――――――――――――。』
声にならない断末魔。
力を失った漆黒の瘴気が霧散し、数十メートルあった巨大な骨の塊が、砂上の楼閣のようにガラガラと崩れ落ちていく。
富士樹海を覆っていた致死性の瘴気が、嘘のように晴れていった。
雲の隙間から、朝日が差し込んでくる。
ドサッ。
レンとサクラは、同時に糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。
指一本動かす力も残っていない。視界は真っ白で、呼吸をするだけで肺が痛い。
だが、その口元には、確かな達成感の笑みが浮かんでいた。
【賢神ソフィア】:……見事だ。知恵と勇気、そして仲間の力。完全にS級の理を覆したな。
【冥王ハデス】:フン。……まあ、合格点はくれてやろう。
【死神ネクロス】:素晴らしい魂の輝きだった。私の出番は、まだまだ先になりそうだな。
【ダンジョンオタク_ケイ】:やばい……震えてが止まんない……!
【mukai_b_rank】:お前ら、本当にとんでもねえバケモノになっちまったな……!
激しく流れるコメントと投げ銭の嵐。
静かになった樹海に、カツ、カツと足音が響く。
アリサは神刀を鞘に納めると、大の字で倒れ込んでいる二人の元へと歩み寄った。
自身も息を切らし、軽装鎧はボロボロだ。しかし、彼女の表情は最高に晴れやかだった。
「……本当に、信じられないお馬鹿さん達ね」
アリサは膝をつき、最上級ポーションを二人の口元に運びながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「お疲れ様。……これで文句なしよ。あなたたちは今、間違いなく『最強』への挑戦権を手に入れたわ」
特訓開始から十日。
死の淵を乗り越え、S級魔物をも打ち破った二人の『規格外』が、ついに完成した瞬間だった。




